SSブログ

インタビュー [PH]

ヴィットリオ・グリゴーロ(テノール)資料室2に、イタリア人テノール、ヴィットリオ・グリゴーロがインタビューでの発言に関して謝罪、弁明をしたという記事が載りました。

ペーター・ホフマンの2冊の伝記は、著者の数年に渡るインタビューが、主要な資料のひとつとなっています。このような長期間のインタビューは別として、一時的なインタビューには様々なものがあるようです。それは必ずしも相手に対して肯定的な立場で行われるとも限らないし、ましてや、相手に対して尊敬の気持ちを持って行われないことも少なくないし、心を許して応じたら結局裏切られるという結果になることもあるようです。ホフマンはその歌手人生の中で、さんざんな言われようをしてきた歌手の一人です。すでに1983年の伝記で、インタビューに関して、このような状況が述べられています。

「活字になったインタビューの多くは全く行われていなかった。このタイプは小さな裁縫箱から自分たちの寄せ集めの物語さえ編み出すのだ。実施されたインタビューもたくさんあって、いくつかはよいものになった。それは常に質問者次第だ。」

「全てを言葉どおりに忠実に伝えることができないのは当然だ。ただ、私が何時間も話し、核心的なこととして出されたものが、真実と、全く一致していないことが頻繁にある。もしかしたら、私の表現が間違っていたのかもしれないから、私は自分に関する幾つもの文章を許容している。確かに私の話し方は相当皮肉っぽく思われているが、皮肉は単に身振りから、話す調子と身振り手振りから生じていたにすぎない。紙に書かれて「ひからびる」と、そこには完全な誤解だけが残っている。

 マスメディアの中で作り上げられるイメージは、私にはどうしようもない。「あの人たちが真実を書かない限り、オーケーよ」と言ったのは、マレーネ・ディートリッヒだったと思う。このような考え方をすることもできるだろうが、あまりにも誤りが多ければ、やはり腹がたつものだ。こういうことを私が我慢して、更に二、三の事柄がうまくいくのなら、私はもう腹を立てない」

「インタビューでどの程度踏み込んでもよいか、どういうことは絶対言わないほうがいいのか、どこで譲歩することができるのか、未だによくわからない。話したことは、まず間違って解釈されるという前提から出発しなければならない

「特にこういう仕事においては多くの事を自分一人の胸におさめておく必要があります。例えば、素晴らしい経験の数々。私はあまりにも多くを語るのはやめました。物事は繰り返しによって輝きを失います。ひょっとしてこういうのは非常に利己的なことかもしれません。しかし、私がある人々に何かを語ったとき、そもそもその人たちが全然こういう信頼に値しなかったということに何度も気づかされました」

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0