SSブログ

最初のアルバム「ロック・クラシック」発売前後 [PH]


この界隈ではこのところ、イタリア人テノール、ヴィットリオ・グリゴーロの話題が盛り上がっています。嫌でもペーター・ホフマンを連想させられます。ホフマンの最初のアルバム「ロック・クラシック」発売前後を改めてまとめます。ペーター・ホフマンが人生最初に夢中になった音楽は、本人言うところのロックで、高校時代には仲間とロックバンドをやっていました。18歳、徴兵と同時に解散、中断し、その後はオペラの道を歩みます。オペラ歌手になってからも、ロックを再開したいという気持ちはあったそうですが、仕事に追われて計画を進める時間はありませんでした。そんな時「ロック・クラシック」の録音、発売の話が当時CBSソニーの制作マネージャーで、後にソニーの社長になった友人のヨッヘン・ロイシュナーから持ち込まれ、やってみる気になります。

ロイシュナーはニューヨークに滞在中のホフマンに『ペーターは、ずっと前のことにしても、ビートルズその他のロックミュージックをやっていたわけだから、適性があるにちがいない・・・』と言い、ホフマンがドイツに戻ったときには、正式な企画書が届いていたそうです。

関連記事:
ロック・クラシック
ロック・クラシック 続き
最初のアルバム「ロック・クラシック」

ペーター・ホフマンは1972年の秋、オペラ歌手としての職業生活を開始しました。28歳でした。ドイツ北部のかつてのハンザ同盟都市、トーマス・マンの出身地でもある、リューベックの市立劇場の主役級専属テノール歌手としての出発でした。最初の役はモーツァルト「魔笛」のタミーノで、第二キャストでした。ほぼ同時にオペラ演出家のゲッツ・フリードリヒが注目。バイロイト音楽祭のオーディションに招かれました。客演依頼も次々と舞い込み、すぐに目が回るほどの忙しさに突入。

1974年のシーズンには、ヴッパータール歌劇場に移り、ここでワーグナー「ニーベルングの指環」の第二話「ワルキューレ」のジークムント役で、センセーションを巻き起こしました。ホフマンのジークムント目当てのヴッパータール詣現象が起こったそうです。この時期には、専属劇場での仕事と、山のように舞い込む客演で、実際に目が回りそうになり、これではいけないと危機感を持つほど。1975年、ドルトムントに客演したワーグナー「ニーベルングの指環」の第一話「ラインの黄金」のローゲ役でもセンセーションを巻き起こしました。1975年のシーズンからは、5年の専属契約を結んだシュツットガルト歌劇場に移りました。

シュツットガルトとの契約は、特別の意味があったと言えるでしょう。ドイツのワーグナーテノール第一人者だったヴォルフガング・ヴィントガッセンが長い間アンサンブル・メンバーとして籍をおき、最終的には総監督を務めていましたが、1974年に亡くなったのです。P.ホフマンの契約について当時のマスコミは大いに注目しました。
『.... その声は、まだ完成の域には達していないものの、暗く低く柔らかい、ワーグナー・テノールへと運命づける響きにおいて傑出している。このような声は、今日すでにめったに存在しない。ホフマンは最高の専門家たちの中、シルヴィオ・バルヴィーゾ(指揮者1924.06.20- スイス)の下で大事に扱われた。....』(1976年3月16日付け、シュツットガルト・ニュース)

そして、1976年夏のバイロイト音楽祭に、ジークムントとして「ワルキューレ」に、タイトルロールとして「パルジファル」に出演。シェロー演出、ブーレーズ指揮の「ニーベルングの指環」新演出は、伝統にこだわる人々の猛烈な反発を招き、警官隊が出るほどの大騒ぎでしたが、ホフマンはそういうこととは無関係に、大いに注目を集め、バイロイト音楽祭の大人気テノールとなり、以後、交通事故で休んだ1977年を除き、1989年まで毎年出演しました。

その後、ワーグナー・テノールとして、ますます引っ張りだこ状態となり、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの全主要歌劇場に出演。特に注目すべき仕事は、1979年から1981年にかけてのカラヤン指揮による「パルジファル」の録音とザルツブルグ復活祭音楽祭出演、1981年のバーンスタイン指揮による「トリスタンとイゾルデ」の演奏会形式上演と録音でしょう。

そして、1982年前半、最初のアルバム「ロック・クラシック」を録音、発売しました。伝記によれば、特別の販促活動などしなかったという話ですが、このレコードは、発売日に2000枚、翌日には、4500枚、数日で31000枚売れ、13週間続けて、売り上げチャート第1位。売り上げ枚数はほとんど200万枚に達し、20年後も、1年におよそ3000枚が売れているということです。

このアルバムが「プラチナ(売り上げによって、ゴールド、プラチナと賞みたいなものがあるらしい・・)」を獲得したとき、フリッツ・ホフマンは、関係者一同と友人たちを招いて、フランクフルト芸術家地下酒場の奇妙な丸天井の一室で、大パーティーを催し、エージェントのマレク・リーバーベルクも出席して、ただちにペーター・ホフマンの演奏旅行に関する取り決めがなされたが、オペラの舞台契約が多数あったため、この計画は1984年の春にはじめて実現。1983年に、ペーター・ホフマンはこのアルバムに対して、その年の「ゴールデン・ヨーロッパ賞」、ラジオ・ルクセンブルグから「名誉獅子賞」、クラッシクとポップス両方における優れた歌手に贈られる「ゴールデン・バンビ賞」を受賞。

1982年の夏のバイロイト音楽祭では、いわゆる「百年記念パルジファル」のタイトルロールを演じました。これはバイロイト音楽祭開催百年祭記念上演で、ゲッツ・フリードリヒによる新演出、ジェームズ・レヴァイン指揮でした。悪人クリングゾールが、パルジファルに向けて、実際に槍を力いっぱい投げつけ、それをパルジファルが素手で受け止めるという演出がなされ、観客をはらはらどきどきさせた舞台だったそうです。

この1982年のバイロイトでホフマンは、『パルジファル』の仕事に没頭したのですが、劇場から一歩出たとたん、今までの音楽祭とは全く違う新たな雰囲気に直面させられることになります。

ロック・クラシックの成功が、バイロイトまで追いかけてきた。それまではオペラなどというもののことは全く念頭になく、ワーグナーのオペラの一場面にさえ耳を傾けたこともなかった人々が突然、リヒャルト・ワーグナーに興味を持ったのだ。この騒ぎはヴォルフガング・ワーグナーをも少なからず巻込んだが、彼はとても好意的にとらえていた。

 私自身も多少の変化は避けられなかった。午後3時前には祝祭劇場にいなければならなかったが、そのころには、午後2時には到着するようにした。そうしなければ、大勢の人垣を車で通り抜けることができないに決まっていた。そこにはレコードのジャケットを手にした200人もの人々が、サインを求めて、集まっていることがよくあった。そういうとき、私はサインしながら楽屋の入口まで進んだものだ。公演のあともまた同じようだった。

同僚たちがとっくに食卓についてオードブルを楽しんでいるのに、私はそのあと1時間もサインをし続けていた。これは、多くのファンが音楽祭のチケットを持たずに、ただ私に会って、サインをもらい、もしかしたら一言、二言私と言葉を交わせるかもしれないという目的だけで、遠方からやってきている証拠だった。

歌手としてその能力を提供するだけで、祝祭劇場の外のことにはほとんど無関心な同僚たちにとって、こんな状況は決して気持ちのよいことではなかった。そこにねたみの気持ちが生じるのも、全くもって当然のことだ。

 大勢のファンを置き去りにして、レストランの同僚たちのところに現れることに成功した場合は、ビールと素敵な食事を楽しんだ。数時間もの公演のあとでは、実際兵糧攻めにあっていたようなもので、徹底的にすきっ腹だったし、ローエングリンのときもパルジファルのときも、睡眠不足だったし、気分転換するためには、更に、同僚との気楽なおしゃべりも必要だった。』


nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 4

ななこ

このCDを買ったとき、そんなに人気のあるアルバムだなんて思ってもみなかったし、お店でも地味なクラシックの輸入盤の棚に無造作に並んでたと記憶してます。
日本盤も出たのですか?!
それでは日本のホフマンファンにもある程度は知られてるわけですね?
でも日本で話題になったことはあるのでしょうか?
オペラ歌手による非クラシック系のアルバムとしてはダントツどころか唯一無二の存在であると言うことを今からでもオペラファンに広く知ってほしいですね。

純粋主義者では決してありませんが、クラシックしか知らなかった私にとってはこのアルバムは実に画期的なものでした。
ビートルズやサイモン&ガーファンクルなどの超有名曲を最高の声でオペラティックでなく心にしみ通るように聴けるたったひとつのアルバムだと思っています。

このレコードのジャケットを持ったファンがバイロイトに押しかけてサインを求めるなんて当時の混乱ぶりがよく分かって笑えます。
ホフマンの立場の危うさはこの辺からすでに始まってるのですね。

グリゴーロのような二足のわらじの有能な若者達がホフマンのような酷い批難にさらされることのないように関係者はしっかり守って欲しいし、クラシックファン(批評家)もいい加減に砦を開放しなくてはと思います。
by ななこ (2008-07-15 11:41) 

euridice

ななこさん
ほんとに長い間、不可解なことばかりでした。
良い時期に日本に来ていないのはかなり大きいと思います。
いわゆる音楽評論家の文章の影響力が過大な状態になりがちです。

>地味なクラシックの輸入盤の棚に無造作に並んでた
日本盤は1990年4月の来日に合わせて、「ロッククラシック」と
「モニュメンツ」が発売。やはりクラシック売場で、
当初は平積みされていました。

ポップスの録音は、イギリスやアメリカでもしていますが、
発売やコンサートツアーなど、活動の場はドイツ語圏が中心でした。
これは、時代性もあるのかもしれませんし、別の見方をすれば、
ドイツ語圏のオペラ歌手、ワーグナー歌手としての立場を最優先した結果とも言えるのではないかと思います。

グリゴーロがポップス活動の場を英語圏にしているのは、ある意味、賢明だと思います。

by euridice (2008-07-16 06:55) 

rosina

ホフマンとグリゴーロ君とは似ていますね。オペラ界、ロック/ポップス界の両方で誇れるだけの地位を築き、成功を収めている事、そして、それが本人達に取ってはごく自然な事である事。そして、そのような活動に眉をひそめる人達が必ず居ると言う点においても。
by rosina (2008-07-20 10:28) 

euridice

rosinaさん
インタビュー記事など読ませてもらって、考え方、行動など、
共通点が多いのは驚くほどです。


by euridice (2008-07-21 06:12) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0