SSブログ

役についての歌手のコメント集[4] [PH]

ローエングリン:ワーグナー「ローエングリン」

「1979年リハーサルにおける私のローエングリン像

  私は奇跡は演じない。ローエングリンは、人間になりたいというあこがれを持ってやってくる。この夢は実行されたがもちろん失敗におわる。しかし、私は人間ローエングリンを演じようと試みている。私は提示可能な事柄に興味をそそられる。私としては、人物がふつうに振る舞えるような、自分を人物と同一視できるような、そういう人物のための方法を模索している。自分を奇跡と同一視することは不可能だ。役との同一視が全くできないとすれば、その場合、劇は間違いなく退屈になる。

  いつもはただ輝くばかりの英雄のうちに何か憂鬱な気分がまとわりついていることを示したいと思う。第二幕で告発されると、彼はひどく動揺する。すなわち、傷つきやすさが前面に出て、相手に見すかされ、その結果、『悪人の疑惑を禁じる・・・ Des Boesen Zweifel darf ich wehren . . .』と歌うときには、不安に襲われている。

彼は、その文化的背景によって、その状況から最善のことを引き出そうと試みる。別れを告げる前に、彼の受けた教育に基づいて、そして、聖杯の規則のもとで、立ち直る。それと同時に感情に身を任せる。というのは、悲しい気分が忍び込み、決心が揺らいでいるのだ。

『ああ、エルザ、一年だけでもお前のそばに・・・O, Elsa, nur ein Jahr an deiner Seite . . .』という言葉が突如わき出る。しかし聖杯の物語は彼にとって極めて重要な聖杯の要請を正当化するものとして、自慢げに披露する。

別の演出では大概の場合彼は終始近寄りがたさを保っている。はじめにエルザとローエングリンがお互いに認め合うということが、このゲッツ・フリードリッヒ演出の場合のように明確になったことはいまだかってなかった。

大概は騎士はまずはじめに王のところへ歩み寄る。それにしても、こういう演出でも、ローエングリンが一分後にはエルザと結婚したがるというのは不思議なことだ。

二人がはじめからお互いにひかれ合っていたということを示すことはものすごく重要だと私には思われる。だから、彼らはお互い直接的に向きあう必要がある。もうひとつ気がつくことは、すなわち、最初の瞬間から光の道を通してローエングリンがエルザと結びつけられている、ローエングリンの到着は、この演出の中でも最高に優れた場面のひとつになっているということだ。
  この場合、禁問は彼にはっきりと肉体的苦痛を与えている。
 
 ところで、テルラムント側から事件を詳細に検討しているような演出をいつかやってほしい。現実主義者の彼にとってフリーメーソンのように秘密結社に属している男は即うさんくさい。特徴的なのは、彼が特に発言を許されないうちは、だれも、社会から追放され、教会から破門されている状態で、刑務所に入っていたような彼の言うことを何一つ信じないということだ。」(ペーター・ホフマン)

「聖杯を引き合いに出しておおよそ人間的ではない自尊心でもってエルザに対応するローエングリンは、ひどいエゴイストに見えます。『神が私にゆだねたこの女性は私を裏切るという迷いに堕ちた  Dass zum Verrat an mir sich liess betoeren das Weib, das gott mir angetraut!』というほどです」(ペーター・ホフマン)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0