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シェロー演出のワルキューレ(1) [PH]

ワーグナー作曲ニーベルンクの指環四部作の二番目の作品「ワルキューレ」のジークムントは、ペーター・ホフマンが最も頻繁に演じた役です。1990年4月の来日インタビュー記事には、およそ180回とあります。

Die Walkure (2pc)1976年の初バイロイト出演の成功によって、ペーター・ホフマンのキャリアは決定的なものになり、ジークムント役でも、パルジファル役でも、観客と批評家を納得させました。殊にジークムント役は至るところでこの役を求められ、そのころは、シュトゥットガルト歌劇場との専属契約履行に加えて、ひっきりなしの客演で、ひたすら『ワルキューレ』を歌ったということです。

ペーター・ホフマンにとってシェローの演出(1976〜1980年バイロイト音楽祭)は、後にも先にもないほどの大きな出来事でした。シェローは歌手のオペラ観を根本的に変えてしまうほどのものだったのです。

「シェローの後に何が来たか。オペラに対する大きな不快感だ。彼は私に対して責任がある。そして、私たちみんなに対して、私たちがバイロイトの「リング」に参加していたということで多少の責任を負っている。」

シェローの演出は歌手にとってもそれほどに衝撃的だったのです。

ペーター・ホフマンとバイロイト音楽祭との関わりを伝記から拾ってみると、彼は1973年8月12日にバイロイトでの最初のオーディションに招かれています。これには演出家ゲッツ・フリードリヒとエージェント・シュルツとある年配の歌手が関わっていたようです。

その後、ペーター・ホフマンによれば、事はこのように進みます。

「ヴッパータールでジークムントを歌ったとき、私を聴くために重要人物たちが突然姿を現した。劇場中が興奮した。全部で九回か十回あったどの公演も、客席に、ベストを尽くせば報いてくれるだれか座っていると思わないわけにはいかなかった。劇場経験やっと三年目という新人にとって、まったく相当な負担だった。

私は、初舞台から、もっぱら大きな役を歌っていたのだけれど、それがうまくいかなかったら、もはや全く何も歌うことができなくなっていたところだ。.......それはタミーノで始まり、以来、この規模の役にとどまっている。その代償として、危険と重荷も同様により高い水準へ向った。

しかし、私は若くて、世界を破壊したかった。奇妙なことに全てが、時にはそこそこによく、時にはとてもよく、機能した。そして、既存社会での地位の確立など夢にも考えていなかった状況で、バイロイトへとの要請が来た。

その後、話が進んだ。オーディション、エージェントとの交渉が先行したが、驚いたことに、水泳パンツ姿の写真が欲しいという話だった。水泳パンツ? 一体全体、どういうことなのか。何をさせようというのだろうか。

そのころは、ヴォルフガング・ワーグナー自身が出かけていって、まず一回目、歌手をじっくり見て、二回目、それは、契約しても大丈夫という確信が持てるまで続き、それから、いずこも変わらぬ重要な行為、すなわち、判を押して契約成立、バイロイトで歌うことになるわけだ。(今日では、演出家と指揮者が、だれが歌うかを決めることが多い)

写真を求めて・・・がらくたを引っ掻き回して休暇中の写真からターザンみたいなばかげたポーズを取った水泳パンツ姿の一枚を苦労して探し出して送ったが、私が彼らをからかっているのか、いないのか、彼ら自身で判断してもらうしかないと思った。あのときシェローはサイズとタイプをちょっとみたかっただけなのだ。」

大きなチャンス:シェローとバイロイト(伝記1983年刊)


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