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参考-3 [音楽]

THE MAKING OF THE RING
バイロイト音楽祭1976年〜1980年で上演された「ニーベルングの指環(ピエール・ブーレーズ指揮、パトリス・シェロー演出)」  最終年にテレビ放送のためにビデオ収録が行われました。映像監督はブライアン・ラージ。これに関連したメイキング・フィルムです。レーザーディスク(外国盤)で見ました。映像、指揮、演出の三者の立場と協力関係、新旧世代の確執など、なかなかおもしろい内容になっています。案内役は、リヒャルト・ワーグナーの孫、フリーデリンデ・ワーグナーです。
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以下、おおまかな内容です。
フリーデリンデ・ワーグナー:
「皆様を音楽の素晴らしい冒険にお誘いしたいと思います。同時にこれはテレビにおける偉大な歴史的瞬間とも言えます。というのは、祖父の『ニーベルングの指環』が歴史上初めて全曲映像化されるのですから。それはまもなく、ここ、ワーグナーが『リング』の四つの音楽劇のために建てた劇場で、行われようとしています。

『リング』は出来たときからずっと論争の的でした。パトリス・シェローの演出もまた、ものすごい論争を呼びました。しかし、それは常に魅力的でした。怒りを感じさせることもあるかもしれません。けれど、決して退屈しないことだけは確実です。」


1980年の初夏、バイロイトのワーグナーの有名な祝祭劇場に百名近くのビデオ及び音響技術者たちがやって来た。

彼らは金属製の照明塔を建て、長いケーブルや電線を取り付け、テレビカメラの設置場所を確保するために、 築百年の古い劇場から客席を数列撤去した。このようにして、テレビの音楽番組の歴史上、最も巨費を投じた野心的な計画のひとつが実行に移された。この先、一ヶ月かけてワーグナーの「ニーベルングの指環」が完全にビデオ化されることになった。

この演出は論争の的であったが、バイロイト創立百年記念として、パトリス・シェローが演出し、ピエール・ブーレーズが指揮したものである。

このテレビ放送を通じて、歴史上かつてなかったほどの多くの人々が「リング」を視聴することになる。

この「リング」プロジェクトのテレビ監督はブライアン・ラージである。彼はワーグナーのオペラのテレビ化の先駆者である。

ブライアン・ラージ:

「人々はこの作品に恐れを抱きます。14時間続き、全上演に四夜かかります。我々が目指しているのは、この障害を取り除き、この作品は人間のドラマであり、人間の感情と深く結びついていることに気づいてもらうことです。シェローの考えの新鮮さ、ブーレーズの指揮の新しさによって、この作品を音楽劇、テレビの音楽劇として扱うことで、全く新しいものができると思います。バイロイトでこそ、この試みが行われるべきです。ここでこそ新しい見解、『リング』の新しい解釈が生まれるのだと思います。」

ワーグナーがその上演のために建てた劇場で最初のテレビ録画が行われる。この劇場はバイロイトの外れに1872年に作曲者自身によって礎石が置かれた。それ以来、この緑の丘にはいつもワーグナー家の人々が住み、音楽祭を監督し、演出し、伝統を守り、ここは世界でも有数の音楽の聖地になった。作曲者の孫であるヴォルフガング・ワーグナーは兄のヴィーラント・ワーグナーが1966年に死去したあと、一人でバイロイトを支えてきた。彼自身「リング」を1960年と1970年の二度にわたって演出している。バイロイト創立百年記念にシェローを招いたのは彼である。

バイロイトに招かれたとき、シェローはまだ31歳であった。それ以前にはオッフェンバックとロッシーニの二つのオペラを演出したことがあるだけだった。バイロイト創立百年祭のような重大な仕事を任せるのは大きな賭けであった。このオペラの演出に対して準備期間は四ヶ月もなかった。はじめ、シェローは不可能だと思った。

シェロー:

「ほとんど断るつもりでした。期間は短すぎるし、そんな気力もないと思ったし、でも、そういうことを無視して、引き受けることにしたのです。1975年にはじめて『リング』をここで見て、ワーグナーの作品は単なるオペラではなくて、常に演劇的であって、このことが重要で、1976年の最初のリハーサルで、ワーグナーの作品はオペラとしてではなく演劇として考えるべきだという印象を持ちました。」

演劇人としてシェローはテキストから始めた。彼は音楽を知らなかった。「リング」を見たこともなかった。ヴォルフガング・ワーグナーの招きを受けて1975年にバイロイトの「リング」を見たのが初めてだった。

シェロー:

「はじめから、とても単純なアプローチをするつもりでした。ワーグナーは彼の生きた時代、その政治的な様相を、神話によって描こうとしたのだと思います。」

ヴォルフガング・ワーグナーをして、シェローに注目させたのは指揮者のピエール・ブーレーズである。

ブーレーズ:

「私は演劇の演出と演出家に興味を持っていましたが、彼についてはフランスでかなり耳にしていまして、彼の演出したものを見ました。そして、すぐに彼こそ今度の「リング」の演出にふさわしいと確信しました。とにかく、新しい血を入れると言うか、そういう意味で、演劇の演出家をオペラに使うことはいいことだと思いました。」

シェローと同様にブーレーズも激しい論争を引き起こした。彼は音楽の細部と透明感を追求し、オーケストラの音をほとんど室内楽の域にまで洗練させようとした。豊かで厚い音に慣れていた演奏家たちはストライキで脅し、委員会を作って、ヴォルフガング・ワーグナーに対して、もっと大きな音で演奏させるように要求した。

ブーレーズ:

「私の主な目的はなんというか、いわゆる伝統を排除することでした。伝統というものは私には耐え難いものです。伝統とは何でしょうか。こう考えると伝統というものは、実際はある人のマンネリズムなのです。それはより悪いマンネリズムに変わっていくのです。だれでもその人自身のマンネリズムを持っています。私には私のマンネリズムがあります。けれど、ここで、だれに対しても私のまねをすることを要求しません。だから、だれも同じやり方をすることはないのです。」

ソプラノのギネス・ジョーンズはこの「リング」でブリュンヒルデを歌っているが、1966年に初めてバイロイトに出演した。1970年の ヴォルフガング・ワーグナーのネオ・バイロイト様式として知られている抽象的な演出で初めてブリュンヒルデを歌っている。この「リング」のはじめから、彼女はシェローの強力な支持者であった。

ジョーンズ:

「シェローは私が初めて登場するとき、若くて、楽しげで、喜びにあふれて、ヴォータンと遊ぶティーンエージャーであることを要求しました。とても素晴らしかった。パトリスは本当に率直で、彼は『リング』をやったこともないし、バイロイトで一度見たことがあるだけでしたから、完全に新鮮でした。新しいアイデアはテキストに基づいていました。彼は私たちにテキストにある通りにするように要求しました。私の場合は、暖かさ、喜び、愛、子どもっぽさ、それにジークフリートでの演技はすばらしかった。恋人同士の興奮がありました。」

1980年のシェローの最後の上演では85分を超える喝采と、百回以上のカーテンコールがあった。これはバイロイトの新記録であった。しかし、初日は劇場の歴史上まれに見るスキャンダルを引き起こした。初日に居合わせた一人であるロンドン・タイムズの音楽評論家であるウィリアム・マンの話:
「シェローは『リング』を基本的に産業革命の高まりの時期である19世紀半ばに設定した。それはワーグナーがこの作品を書いた時代であり、バーナード・ショウはすでにこの神話の意味を権力の悪と富への欲望であると認識していた。」

シェローとデザイナーのペドッツィはバイロイトの舞台を使って、人々に最初に「リング」が上演された時代の政治的、社会的歴史を想起させようとしたのである。彼らは四つのオペラを時代を変えて描こうとした。すなわちワーグナーがこの仕事を始めた1840年から1920年代にバイロイトが息子のジークフリートに任されるまでである。シェローの解釈ではヴォータンの城は当時の建築様式であり、ラインの乙女は水力発電所で戯れる娼婦となり、ヴォータンほかの神々はレースやぞろっとしたガウンをまとって、かつらをつけ、怠惰な様子である。フンディングは初日には金持ちの鉱山主のような格好をしており、グンターは正装し、異母弟のハーゲンはしわくちゃの背広を着ていた。アルベリッヒとニーベルングたちは鉱山で働く大都市の地下生活者みたいだった。ジークフリートは巨大な蒸気機関で刀を鍛えた。この舞台に反対した人々はシェローの演出の、この産業革命が人類の破滅であるという大前提を受け入れなかったし、彼の行った時代の置き換えももちろん理解しなかった。

19世紀末ワーグナーが家族を伴ってバイロイトに移り住んで以来、芸術上の革命ないしは改革はこの町の伝統の一部となった。最初の革命は独特の劇場を建てることであった。1876年に「リング」の初演が行われた。次の革命は1951年に起こった。ワーグナーの孫であるヴィーラントとヴォルフガングがバイロイトの舞台を空っぽにして、抽象的な装置や照明を使った。三度目のは1976年に起こった。ヴォルフガングはシェローとブーレーズに全てを任せて、新しい劇場の行き方を示した。

ブライアン・ラージ:

「これは最も人間的な『リング』であり、最も滑稽な『リング』であり、機知に富んだ『リング』、また最も残酷な『リング』であると思う。五年間のうちにいろいろ変化してきているが、こういう性質は残っていると思う。」

ワーグナーのオペラは彼の時代には、未来の音楽と呼ばれた。これは彼独特のハーモニーとオーケストラの扱い方にあると思われる。また、個々の声の扱い方、彼のオペラに対する厳格な考え方とも関係があるだろう。ワーグナーにとってオペラは音楽に劇が加わったもの以上のものであった。それは全てのものの統合であった。彼は台本を書き、指揮をし、後には舞台監督をも務め、照明係でもあった。彼はすべてを取り仕切ろうとした。自分自身の劇場さえも望んだ。これは『リング』のために絶対必要なことであった。

ワーグナーは作品を大昔の物語に求め、ニーベルングとワルハラの神々との間の権力抗争においた。舞台は宇宙そのものであり、両者の滅亡で終わる。ワーグナーの、神々とドラゴンと近親相姦と流血、憎しみと、愛による救済の、空前のドラマは1876年の夏、生命を得た。しかし、演出については失望が大きかった。神々の様子は仮装大会のようだったし、ラインの乙女の泳ぐ様子もうまくいかなかった。

ワーグナーは1883年に死に、「リング」は彼の生涯で一度しか上演されなかった。それにもかかわらず、「リング」はその独創性と音楽的な力を示した。

マン:

「それは画期的な出来事でした。無数の解釈を生みました。演出家たちは普遍的なものの中からひとつの要素を強調しようとしました。」

1976年の初日の後、シェローとブーレーズは少しずつ考え方や、やり方を変えていった。

オーケストラもブーレーズの細部へのこだわりや透明さの追求を理解するようになり、歌手も観客もシェローが目指す人間的、寓話的やり方がわかってきた。1980年にこの演出は最終年を迎え、テレビ録画が行われることになった。監督はブライアン・ラージであった。

ブライアン・ラージ(ワルキューレ第三幕練習風景):

「とにかくシェローを信頼し、彼が目指していることに注目します。彼の頭の向こうに、彼の目を通して、彼が見ようとしている物を見つけます。どうすれば最も劇的に撮れるかということを考えます。リハーサルの後で本を見直して、あらゆることを議論し検討します。カメラ技術者に会って、どうすれば最も効果的か考えます。カメラの最良の位置を決めます。つまり、最も劇的に撮れる角度や位置を求めます。最初のカメラ・リハーサルは常にピアノ伴奏で行いました。その時、様々の矛盾や問題点が検討されます。次のカメラ・リハーサルはオーケストラと共に行いました。これが撮影のためにカメラで行うドレス・リハーサルです。その後、それらを見直して、やり直すべきて点があれば、やり直すわけです。次の日にやり直しの録音を行います。録音は一度に行いました。ワルキューレの第一幕でしたら、61分途中で止めずに一気に録音しました。途中でとまるのはナンセンスです。これは一連の上演です。視聴者がこれをライブと捉えてくれることを望んでいます。この録画には協力が必要です。三つの方向の協力が要ります。ブーレーズとの、そして、シェローとの、そしてまた、私自身の姿勢もあります。それぞれが対立することもありましたが、驚くべきコミュニケーションによってやり遂げられたのです。」

シェローの演出はバイロイトのひとつの到達点だったが、最初のバイロイト様式はワーグナー未亡人、リストの娘コジマによって始められた。この有名なワーグナーと、愛と献身の表情で愛する人であり師であるワーグナーを見つめているコジマの写真をご覧になりさえすれば、コジマにとって、バイロイトは聖なる委託物であり、彼女が守るべく委ねられた遺産であるということがわかるはずである。ワーグナーの死後、二年間彼女は音楽祭を主宰する気力がなかった。最後のオペラであるパルジファルだけが上演された。しかし、次第に悲しみから立ち直ったコジマは、ワーグナーの夢をかなえるために、全てのオペラの上演を開始した。1884年のトリスタンとイゾルデをはじめとして、次々に上演が行われた。1894年には新しい「リング」が上演された。この「リング」の装置や衣装を見ると、彼女が夫の考えや望みを守ろうとしていることがわかる。初演の問題点を改良しようとしている。例えば、衣装は簡素化され、色使いは統一されている。コジマは夫の意思を守るために、音楽に合わせて動きを厳格に決めた。それは気違いじみていると言えるほどであったそうである。何か変えようとする者があると、彼女は初演当時6歳にすぎなかった息子のジークフリートに向かって、1876年にどういうふうにしたか覚えているわね、と言い、彼はお母さんが正しいよ、と答えたものであった。1907年、70歳でコジマは音楽祭の実権を息子に譲った。ジークフリートのことを強い母と、彼の死後実権を握った意志の強い妻の間にあって、父親の影のうちに生きたと考える人も多いが、彼の功績も大きかった。娘のフリーデリンデは次のように回想している。

「父は最初、小さな役割から、助手として携わりはじめたのですが、特に照明に情熱を持っていました。昔は照明はガス灯やろうそくを使っていました。だから、絵を描いた壁掛けを使ったのです。照明が非常に限られていたからです。照明が改良されてから、三次元の装置が使えるようになったのです。父は照明や技術的な面で全てを近代化したのです。」

1914年、ジークフリートは45歳で、17歳のイギリス女性、ウィニフレートと結婚した。彼女はワーグナーの熱烈な信奉者の養女で、いずれジークフリートの妻になることが予め決められていた。そして、二人は初めて会った翌年、ちょうど第一次世界大戦がはじまろうとしていた年に結婚した。戦争は拡大し、バイロイト音楽祭も十年間中止された。ジークフリート夫妻はワーグナー家の次の世代を生み出した。フリーデリンデが1918年、ヴィーラントが1917年、ヴォルフガングが1919年、ヴァレーナが1920年に生まれた。ジークフリートの死後、ウィニフレートがバイロイトの多難な時代を担うことになった。

フリーデリンデ:

「母はベルリンから演出家を招きました。

ヴィーラントとヴォルフガングが戦後のバイロイト音楽祭を行いました。最初のシーズンであった1951年にはヴィーラントが芸術面を担当し、ヴォルフガングが運営面を担当しました。1954年からヴォルフガングも時折ヴィーラントに代わって演出をしました。いわゆるバイロイトの革命はこの時期に起こったのです。ヴィーラントは舞台から何もかもなくしてしまいました。巨大な舞台装置の代わりに照明を使って大きな効果を上げたのです。これは非常に独創的なことだったと思います。」


1966年のヴィーラントの死後、弟のヴォルフガングが一人で音楽祭の演出を担当するようになった。数年後、彼は新しい「リング」を演出した。

音楽祭創立百年記念が近づいたとき、彼は今までと違った新しい「リング」を作るためにブーレーズとシェローを起用するという思い切った決心をした。

ジョーンズ:

「ワーグナーの 子どもたちは新しいもの、新しい演劇、を創り出す という言葉を思い出します。パトリスは実際にこれを行ったのです。彼の『リング』のことで最も素晴しいことだと私が思うのは、初日直後から今に至るまで、人々がテキストを読み、テキストに何が書かれており、何が書かれていないのかとか、テキストに全てあるのだから、彼は正しいのだとかいった幾多の激しい論争を巻き起こしていることです。このことは素晴しいことだと思います。それはこのことは真に人々を考えさせ、深い興味を喚起することになったからです。人々をテキストに戻らせ、それを研究させました。ここバイロイトでこそ、この作品は生きており、現実であり、我々の時代のものであることを理解したのです。この『リング』は我々の時代の『リング』なのです。」

ギネス・ジョーンズと同様に、ヴォータンを歌ったマッキンタイヤーもこう述べる。
「バイロイトでのこの『リング』は素晴しい経験です。ヴォルフガング演出の『リング』に出演したこともありますが、戦後、伝統が年々重視されすぎるようになって、その本当の意味がわからなくなっていました。だから、人々は『リング』の意味を自分で知りたいと強く望んでいました。今、シェローが以前のとは違う新しい見方を示したのです。」

最年少のメンバーであるアメリカのソプラノ、ジャニーヌ・アルトマイヤーのブーレーズの助手、ジェフリー・テイトとの練習風景。

アルトマイヤー:

「ドイツの人々は大きく二つに分かれていました。半分は伝統的なワーグナーを支持し、半分は新しい演出に賛成していました。年配の人々は大体新しい演出を好みませんでした。この『リング』はこれまでに私が経験した『リング』と違って、登場人物は神々というよりは生きた人間です。この『リング』では激しく動かなければなりません。伝統的な感覚でいうオペラ歌手ではなくて、声と同様に身体も使わなければなりません。」

シェロー:
「歌手と共に仕事をすることは不可能だと思っていました。歌手に演技をさせることは不可能だと・・・  歌手には演技はできないと考えていました。しかし、今、わかりました。そのことは可能だし、可能なだけでなくて、必要なことです。可能だから、この結果を得ることができたのです。それはとても重要なことでした。これは単なるオペラではなくて、私の世界、つまり、私の演劇です。」

フリーデリンデ:
「母はもちろんシェローの『リング』の全てが嫌いでした。ヴィーラントのも嫌いだったと思います。世代が違いますから。私は母に何度もシェローが会いたがっていることを伝えました。去年シェローがまた、私のところに来て、母に会いたいと言うのです。ちょうどパーティーがあって、いい機会だったし、母もワインを飲んで、穏やかな気持ちになっていると思ったので、パトリスに死ぬ用意はできていますかと私はききました。彼はネクタイを直して、はい、はい、さあ行きましょうと、言いました。彼を母のところに連れていって、私は母の上にかがみこんで、お母さん、あなたが殺したがっていても、シェローはどうしてもあなたに会いたいそうですよ、と言いました。母はしばらく下を向いていましたが、どこにいるの、とききました。お母さんのすぐ後ろに来ていますよ、と言うと、母は振り向いて、にこやかに手を差し出し、彼はその手にキスをしました。彼は、とっても若くてハンサムですし、母はハンサムな人が好きでした。母は銃を突き出して、もちろん文字通りというわけではありませんよ、そして、何度もあなたを殺したいと思いましたよ、と言いました。それから、向き直って、でも、結局、怒り狂うほうが退屈するよりはましですよ、と言ったのです。」

マン:
「古い世代があれほど激しくシェローの演出に反対した理由は理解しがたいものがあります。シェローの演出は彼らが大事に守ってきた慣例、バイロイト音楽祭の神聖なドイツ芸術の慣例、ワーグナーの作品をばかにしたと思われたのかもしれません。でも、これは為すべき価値のあることだったと思います。そして、この『リング』はワーグナーの舞台上演のニュールックが始まったことを証明しているのです。」

ブライアン・ラージ:
「人々が恐れや不安な気持ちを持つことなく『リング』に近づき、『リング』を楽しみ、さらに進んで、他の演出の『リング』を見、そしてまた、この『リング』に戻って、この『リング』がいかなるものであったかを知る助けになるものが作れていれば幸いだと思います。この『リング』は新鮮で、躍動的で、独創的であって、私たちに近づいてきてくれるものなのです。人々が『リング』に近づくための助けになれば、私たちは成功したと言えます。」

2006年、DG でDVDが出ました。HMV
日本語字幕付き 全曲+メイキング


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