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14章 ペーター・ホフマン -10/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

ワルター・フォン・シュトルツィング(ニュルンベルクのマイスタージンガー)

  ワルター・フォン・シュトルツィング役のキャリアはたった五年だが、すでに熟練した人物描写を達成している。最近のボンの上演について、こんな批評があった。ペーター・ホフマンは、舞台上の最高のワルターの一人である。1985年2月22日、メトロポリタン歌劇場の初ワルターについて、ドナルド・ヘナハン Donald Henahanは、彼はまさに本物のガラハッド、信じられないほどの風格と優美さを備えた俳優だと評した。(ガラハッド(Galahad). ケルト神話、 アーサー王伝説に登場する、騎士ランスロットの息子。パーシヴァル、ボールスと共に聖杯の三騎士の一人1988年のバイロイト音楽祭の後には、大概の批評は、熱狂的なものになった。ペーター・ホフマンのシュトルツィングは、その姿は光り輝き、歌はほとんど完璧だった。あるいは、ペーター・ホフマンは声の調子もよく、その歌は、燦然と光り輝き、シュトルツィングを情熱的に演じた。といった具合だ。重いテノール schwer Teorsのなかで、この役をやって成功する歌手は少ないが、ホフマンはその一人である。彼がこの役を初めてやったのは1984年チューリッヒで、続いて、1985年にニューヨークで、1988年には、ボン、マンハイム、そして、同年の夏には、ついにバイロイトに出演した。この役に関するホフマンの見解は彼独自のユニークなもので、批評家たちは、ホフマンがこの役に付与した独自の刻印を、即座に看て取った。


   ペーター・ホフマンは、ルネ・コロの熱い反抗的なシュトルツィングとは、明らかな違いを示した。彼は人間的成熟に至る道筋を成長過程と関連づけたと、マンハイム・モルゲン紙は書いた。さらに、一連の Morning Dream の歌は音楽的に完璧だったと、彼の声楽テクニックを賞賛した。


   テノールは、1983年にオペラからの抜粋を集めたリサイタル盤を録音した。Fanget an! (はじめよ!)と Preislied(優勝の歌)は、どちらもわくわくする。伸びやかな歌い回し、みずみずしい声、若々しく、熱烈だ。そして、それぞれ、違いがはっきりと特徴づけられている。Fanget an! (はじめよ!)の荒削りの直情に対して、 Preislied(優勝の歌)は、計算され、技術的に確実であるにもかかわらず、恍惚感をもたらすのを感じる。後者では、彼のなめらかなレガートはクライマックスの durch Sanges sieg gewonnen Parnass und Paradis(歌の勝利によって勝ちとったものはパルナスの山とエデンの園)へ切れ目なく舞い上がる。ひとつひとつの節を独特の陰影で彩り、この歌を詩による自己発見への旅にしている。


   近年、ホフマンの役への同化は深まり続けている。ヘルツ誌のインタビューに対して、中世の騎士に対して感じる近親感は、親方歌手たちの古くさい制約に対するシュトルツィングの反抗と、自分自身の芸術観に正直であろうとする彼の孤独な苦闘によるところが小さくないと説明した。こういう探究心を擁護したのは、ザックス一人だったわけだが、ホフマン自身、それを、観客に求めていた。ほとんど彼の自伝とも言えるような類似点が、彼に非常に情熱的かつ説得力のある騎士を描き出させたと言える。


   歌手は、高慢なシュトルツィングではなく、独特のオーラを放つシュトルツィングを描き出した。ある観客はそれを、本当の意味で貴族的な雰囲気と表現した。それはすなわち、めったにこういうことができる人はいないのだが、ホフマンは、貴族的であることと粗野であることという二分された側面を伝えることができるということだ。シュトルツィングはザックスを自分の師として選ぶが、それは、彼がザックスのうちに同じ精神を見ているからだ。だからこそ、彼はザックスをその他大勢の中で唯一人、分かり合える友として大切に思うのだ。しかし、このシュトルツィングは、彼自身の独自の自意識を終始保っている。彼はすばらしく成長し、規律、寛容、そして、町の人々に対して淡い優しさのようなものさえも身につけるが、 Preislied(優勝の歌)は、荒々しいほどの独立心を持って歌われる。それはたとえそうすることが、ニュルンベルクの人々の拒絶を誘発するものだとしても、自分の芸術的立場を主張し、エーファを獲得するのだという強い意志を表わしている。彼が月桂樹の冠を拒否したのは、論理的帰結である。それにもかかわらず、彼はザックスの知恵と、彼によって喚起されたドイツの芸術に対する賛歌に同意する。それは、彼の心のうちに、もうこれ以上の反抗を不必要とする、人間的な深い共感と理解と安心感がわき起こったからだ。反抗ではなく、和解こそが、彼の幸福と満足の喜びにあふれた主張となる。


   1988年8月3日のバイロイト音楽祭公演の放送は、ホフマンのワルター・フォン・シュトルツィングの複雑さを洞察させてくれた。この役を演じた多くのテノール仲間たちよりも、わくわくさせられるし、何と言っても演技性がすばらしい。ホフマンは彼のシュトルツィングに、言葉の力強い説得力、深い音楽性、優雅な歌い回し、そして、高い音域には心地よい英雄的強さを付与している。


   開幕時の登場から、楽譜が要求する演劇性に順応するテノールの才能に驚嘆させられる。ジークムントやパルジファルの悲劇的重々しさはどこにもなく、それに代って、このブルジョア的内容にふさわしい、軽快な自然さが際立つ。彼のエーファに対するせっかちな第一声 Mein Fraeulein, sagt(お嬢さん、こたえてください) はごく自然な会話になっているが、それにもかかわらず、彼の懇願には極めて人間的な性急さがあらわれている。このシュトルツィングは正真正銘の若い娘に恋する正真正銘の若者だ。大げさな感じもなければ、軽卒な印象も受けない。彼が貴族階級だということは、ニュルンベルクのブルジョア階級に受け入れられたいという彼の願望の障害にはならない。


   ホフマンのシュトルツィングは、横柄な印象を与えることなく、マイスタージンガーになるための、ダーヴィッドの助言に耳を傾ける。彼は真剣に学びたいと望んでいるし、とても熱心にそのための課題に取り組むことを承諾する。2、3度は不愉快な気分になる。Hier in den stuhl?(この椅子に?)と、うさんくさそうに指定の椅子に座るときは、明らかにそうだが、Fuer dich, geliebte, sei getan (愛する人よ、あなたのためにやるぞ) とロマンチックな慰めを持って、気持ちを鎮める。テノールの本来的な響きの持つ安定した力強さは決断と冷静な自信を示し、断固とした落ち着いた調子で、最初の歌 Am stillen Herdを歌い始め、それは静かに進んで、ちょっと後には、成功の手応えで盛り上がり、最後には、柔和でロマンチックで情熱あふれる詩の世界へと広がっていく。


   シュトルツィングの歌のそれぞれの節を、いちいちはっきりと区別して際立たせる才能、すなわち、各節に異なる音の色彩と、俳優としての行動理由を付与する才能、これがホフマンのシュトルツィングを素晴しいものにしている一因である。これはまたFanget an! (はじめよ!)と、一幕の終わりのアンサンブルでも、明らかになる。彼は、この歌を力強く始め、最初の節を完全に軽々と歌う。審判の最初のチョークの音に妨げられるとき、彼の声は冷静でいようという決意を示すように、多少硬くなる。チョークで印をつけるベックメッサーの引っ掻き音はどんどんひどくなるが、彼は全神経を歌に注ぎはじめ、彼の声はけんか腰の気分を突き通して輝かしい詩となる。Doch, fanget an! (とにかく、やらせせてくれ!)は、大上段にふりかぶった反駁だ。そして、まずはやぶれかぶれのこだわりで、それから、大騒ぎの騒音の最中で集中力を保とうとする恐ろしいまでの荒々しさで、まっしぐらに最後の節に突進する。マイスターたちが耳を傾けようとしないのが明らかになると共に、彼のいらだちと怒りは最高潮に達する。指揮者ミカエル・ショーンバットの熱狂的なテンポに応じ、英雄的な自分自身を保ちつつ、合唱とオーケストラの圧倒的な爆発の中、ホフマンのシュトルツィングはメタリックに明るく響き渡る叫び声、die hehre Liebeslied(偉大な愛の歌)でその歌を締めくくる。彼は、ゴールを見据えた戦士だ。しかし、同時に忍耐力と持続力を厳しく試されるひとりの人間でもある。 wie fraget ihr?(なせそんな質問をするのか)と、彼は本気で腹を立てて叫ぶが、即座にHoert doch, zu meiner frauen Preis(女性を讃えるところを聞いてください)と、自分は不当に攻撃されているけれど、(実際、騎士である紳士に対して考えられないことだ)負けはしないということを示す調子で、気持ちを抑えて受け流す。Blieb ich von allen ungehoert?(だれにも聞いてもらえないままになるのですか)は、苦しい抵抗だが、最終的な混乱状態に再突入する前に、恐ろしい現実に直面する最後の言葉において、その反抗心は微妙に弱まっている。最後の数節で、ホフマンは混乱の最中、耳を傾けてもらおうと劇的な朗唱で訴えかける。この抒情性から台詞的な歌への移行は、華々しく進み、シュトルツィングの冷静な心の崩壊を示唆する。部屋から駆け去る前、もう終わりにしようと決心して、Ade! ihr Meister hienied'!(さらば、マイスターのみなさん) と高らかに響き渡らせる歌が、このシュトルツィングの最後の音楽的言葉だ。すなわち、ひとりの歌手として、説得力を示すべきなのだ。そして、そのようなホフマンのシュトルツィングはもの凄く勇敢で大胆だ。凡俗な批評家たちの中にあって、唯一の、皮肉のきいた、破壊されえない声なのだ。


   二幕のシュトルツィングは爆発だ。Ach, du irrst(ああ、あなたは間違っている)は、通常の狂乱状態の激しい非難よりも、怒りと軽蔑でさらにほの暗く燃えている。彼は自分が関わる事になるコンテストの大きな意味を大いに認識している若者だ。慣習のばかばかしさに抗しようとして、Ein Meistersaenger muss es sein(マイスタージンガーでなければならない) を、彼は苦々しい思いであざける。Wahl に置かれるアクセントを苦い思いで理解しつつ引き延ばしながら、Keine Wahl ist offen(選択肢はない) に、抵抗する。テノールの朗唱は力強く、ひとつひとつの言葉は、注意深い陰影で彩られ、各々のリズムは、巧みに変化する。その声は充実し、その最高音は安定している。このワルターはくじけることを知らない。世の中の法則に、ただちょっと幻滅しているだけだ。戦術こそ変更せざるをえないが、エーファを獲得する方法を見つけようとしている。あまりにも強烈な確信を持っているからこそ、彼は愛する人がそんなにもはやく自分になびいたことにある意味驚いている。愛情に満ちた畏敬の念をもって、優しくDu fliehst?(一緒に逃げてくれるだろうか)と歌う。この幕の他の多くの部分で、この優しさは、彼の男らしさのなかにあって目立っているが、甘い声はエーファのためにとってあるのだ。Welch'toller Spuck(なんとすばらしい夢)は柔らかい、表現力豊かな弱音で、その場面の月光に照らされた恋愛物語が、テノールの歌を覆っているようだ。最後の時には、騎士らしく挑戦的に立ち上がると、ロマンチックな堂々とした態度で、愛する人を守るために、剣を抜く。その動作に、怒りの気持ちはなく、ただひたすら献身的な愛だけが存在している。


   大騒ぎの翌朝、ザックスの家で目覚めたとき、ホフマンのシュトルツィングはこの職人との間に完全な人間関係ができたと感じる。ザックスの家は居心地がいい。シュトルツィングの警戒心はゆるみ、昨夜の夢を打ち明ける。マイスタージンガーになることによって、エーファを勝ち取ることはできるとザックスに励まされて、ホフマンのシュトルツィングは和解こそ賢明な道であることを認める。ザックスに対する尊敬と他の狭量なマイスターたちに対する反感とを、ワルターが区別しているのがわかる。そして、彼はザックスの助言に注意深く耳を傾け、恋の喜びの詩 Ich lieb'ein Weib(私は一人の女性を愛しています) で応え、歌って彼女を得ることを約束する。


   靴屋の居間の場面で、ホフマンは優勝の歌の各節の制作過程をたどって、ワルターが体験していく創作の進展と、心理的展開のゆっくりとした過程を演じる。最初の数節は支持を求める軽い調子だ。二連目はあたかもテノールが作曲しつつ、ゆっくりと自信を深めていくかのように穏やかに歌われる。三連目では、まるで各節が試行錯誤から生まれた喜びあふれる着想であるかのように、より長い旋律線を維持し、装飾を施し始める。四連目のNaechtlich undaemmt(夕闇が忍び寄り)の一節で、ホフマンはその声を弦の暗い響きに合わせ、なんとも美しい混合的な響きを創り出している。詩人はここで弟子から学ぶことになる。そして、その飛翔し、広がり、弧を描いて完全に弱まっていく、Im Lorbeerbaum (月桂樹の) では、シュトルツィングの芸術の力強さと優雅さを共に証明している。


   Wo faend ich die? Genug der Wort(それがどこで見つかると言うのですか。もう言葉はたくさんです)のところでは、ザックスの批評に過敏になって、ちょっとけんか腰になるが、この人間的な反応はすぐに師に対する信頼感を新たにする結果となり、さらには、エーファの姿をとらえて気持ちが高まり、作曲(in Liebestraum愛の夢)は活気に満ちた肯定的な終わりへと向かう。シュトルツィングは、今や愛する人を前にし、友人の賢明な作戦によって、柔らかな美しい歌い回しで歓喜の五重唱に参加する。この録音における、ペーター・ホフマン、ルーシー・ピーコック、ベルント・ヴァイクル、ウルリヒ・レス、マルガ・シムルの声の混合した全体的響きは申し分のないすばらしさで歌われ、アンサンブルとして見事に調和している。


   シュトルツィングの心は、すばらしい問題解決に、晴れやかな気分でいっぱいになって、Preisleid(優勝の歌)を準備するために退場する。みずみずしい合唱の響きを先触れに、彼が輝くような白い衣装を身につけて、豪華な装いのバイロイトのキャストの真ん中に進み出るとき、それはまさに息をのむ瞬間だ。畏敬の念を込めたつぶやき、礼儀正しい緊張に満ちた沈黙、そして、彼は歌い始める。


   Morgenlich leuchtend(朝は薔薇色に包まれ)は確信的にロマンチックに歌われる。このシュトルツィングは課題のために準備したのだ。報いられた愛が彼に与えている強さがエーファの名を発音する優しい弱声のなかと、心地よく響く言葉、im Paradisのうちに聞かれる。テノールは続けて第二連を、前の部分とは違う強さで歌詞を表現し、愛の告白das Muse des Parnass(パルナス山のミューズ) にdas Muse des Parnass最大限効果的に到達する。最後の連は、テンポも情熱もますます高まり、ホフマンのシュトルツィングはあらゆる思いを最後の瞬間に注ぎ込む。これは勝つか負けるかの賭けだ。マイスタージンガーたちも観客も、テノールが無事に輝かしくParnas und Paradis(パルナス山とエデンの園)と歌い終わると同時に、シュトルツィングこそ、勝利者だと思ったに違いない。彼はめくるめくような感動の瞬間に、規則を超越する歌を創り出していた。新たな明快さと輝きによって、再創造したのだ。詩というものは、その芸術性を主張するなら、個人の内的真実に根をおろしていなければならないし、知性を備えた成熟によって育てられなければならないし、神から霊感を与えられなければならないし、人間的関わりによって作られなければならないということだ。彼の明るく響くNicht Meister! Nein!(いいえ、親方はお断りです)は、こういう気持ちから出た拒否なのだ。孤独な芸術家の、断固として誇り高い、しかし、敵意のない拒否。彼は、もっとやわらかい Will ohne Meister selig sein(私はマイスターにはならず、しあわせでいたい)という言葉で、拒絶の調子を抑えて、個人的に排他的市民になるのは好まないということはすなわち自分の独立心の問題であるということを、 穏やかに説明しようと試みる。ザックスの個人的かつ愛国的な感動を呼ぶ訴えかけに従うのは、靴職人の友情と評価に心を動かされたからで、そして、それはまた誠実で、分別のある理解ゆえでもある。つまり、自分の文化的背景と和解した芸術家は、更に賢明さと確かな独立性を身につけ、真にユニークでの総体的な表現を産み出すということを理解したからなのだ。


   このオペラ全体を通して、特にこの勝利の最後の幕で、ホフマンは三次元的なワルター・フォン・シュトルツィングを創り上げることに成功している。彼のシュトルツィングは暖かさと注意深い細心の洞察力をもって、孤立した創造者も社会全体の中に融和的に取り込まれるのだという、ワーグナーの成熟したメッセージを伝えている。ホフマンは、ワルターを暖かい人間性を備えた、完全に思いやりのあるヒーローとして演じる気迫と同時に、この作品に要求される喜劇を演じる天賦の才能も備えている。彼の演劇的に豊かな才能は理想主義的な、複雑な心理傾向を備えた若者像を描き出す。彼の放つ輝かしい存在感は観客を圧倒する。マンハイムの観客の一人はこんな感想を述べている。「三幕、上から下まで真っ白の衣装を身につけ、疲れなどみじんも感じない、若々しいすばらしい声のペーター・ホフマンは、夢のようなヒーローだった・・・」
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