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14章 ペーター・ホフマン -9/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

ジークムント(ワルキューレ)

  このように、ホフマンは、そのレパートリーにさらにジークフリートを加えることを計画するだろうが、すでに160回以上演じた、彼のジークムントは、彼の芸術の頂点に立っている。ミヒャエル・レーネルトの言葉を借りれば、彼には競争相手がない役だ。
ホフマンは、1976年のシェローのプロダクションの前におよそ40回ウェルズング役を歌っていたが、彼のキャリアにおいて、シェローの公演こそが 、重要な段階だったと彼は今でも考えている。1976年7月26日のホフマンのバイロイト・デビューの放送録音は、鮮やかな声の重いテノール schwer Tenorの、中音域における濃い、チョコレートのような色合いの響きを明らかに示している。ホフマンはまだ究極的に安定的で落ち着いた強弱感を達成していないが、すでに 切れ目のないレガート、官能的なフレージング、演劇的な明瞭さははっきりと表わしている。プロダクションが解散される1980年、録音、録画が行われるまでには、ホフマンの声は完璧に融け合った完成の域に到達していた。いまや、その響きには透明感ときらめきがあると同時に、豊かで、暗い音色を備えている。そのうえ、美しい最弱音で陰影をつけることができる。ピエール・ブーレーズの室内楽的強弱感を持った指揮のおかげで、ホフマンが究極的に微妙な陰影をつけることを可能にし、ここでは、歌手はワーグナーをあたかもモーツァルトであるかのように歌うことができている。さらに、最高に美しい響きを紡ぎ出す好機を逃してはいない。その響きは抒情的であると同時に正真正銘英雄的である。ホフマンが創り上げた多くのワルキューレのなかで、もうひとつの画期的な公演は、1983-1985年、ニコラウス・レーンホフ演出のサンフランシスコでの上演だった。このリングで、ペーター・ホフマンのジークムントは、世間から見捨てられて放浪する、野性的な若者だった。1983年6月、Opernweltは、この演出の性格描写は彼にぴったりだ。ホフマンは声楽的にも絶好調で、実に見事な舞台だった!と書いた。1986年、ホフマンは、ジェームズ・レヴァイン指揮の新演出リングのジークムントとして、メトロポリタン歌劇場のシーズンの幕を開けた。ロバート・コペルマンは、ペーター・ホフマンは、全く疲れを見せない声でジークムントを演じた。正真正銘のドイツの英雄だった。その本物らしさは、並外れている と評した。それから、また1988年3月19日、ニューヨーク、同演出での相手役、レオニー・リザネクのジークリンデさようなら公演でもまたジークムントを演じた。私自身、この非常に熱のこもった感動的なエネルギーのあふれた公演についてOpera Internationalに批評を書いた。
   ペーター・ホフマンのジークムントは大成功だった。声楽的にも絶好調だったし、その歌唱の情熱的な抒情性、その朗唱の正確さ、見事な呼吸(ブレス・コントロール)、これらは 、ジェームズ・レヴァインの、切れ目のない響きを維持する、ロマンチックなテンポと見事に調和していた。彼の声は、暗めに響き、中音域と低音域は豊かさが際立っていた・・・・  例えば、彼が死を迎える激しい苦痛のうち仰向けに倒れたまま、逃げさっていくジークリンデを、愛に満ちた眼差しで必死に追うとき、ホフマンに反応しないでいることは不可能だ。

1988年7月28日、ホフマンはバイロイトの、ダニエル・バレンボイム指揮、ハリー・クプファー演出の新演出リングで、再びジークムントを歌った。十年以上前、シェローの演出で、この役に対する評判を築いたように、再び、この役は、彼のものであって、今までに存在した他のどのテノールのものでもないということを大成功のうちに証明した。彼の舞台は、ますますエネルギーにあふれ、さらに深みをましており、その洞察力の新鮮さと迫力で、観客を吃驚仰天させ続けることを立証していた。ヨアヒム・カイザーは、彼の衝撃的な舞台について次のように述べた。
   ペーター・ホフマンは高度に集中力のある演技によって、ジークムントを、絶望して憂うつな気分の追放者に、そして、社会ののけ者として描き出した。彼はなかなか自分の幸福と愛を信じることができない。疑いと敵意でいっぱいになっては、なんども両手で頭を覆う。彼は傷つきやすいだけでなく、すっかり落ち込んでいる。
1988年6月、クプファー演出のワルキューレの初日を迎える一ヶ月前、ジェノヴァのジークムントに関して、イタリアのある批評家は、彼を、私たちの時代の最高のワーグナーの声のひとつと評した。
   こういうことからしても、彼が常に最高にすばらしいジークムントであることは疑いようがない。この役に関するホフマンの考えも声楽的な微妙な陰影の付け方も彼の17年のキャリアの間に少しづつ発展、進化してきた。 ジークムントに関する総合的な考え方は多少穏やかになってきている。初めのうちの、より憂愁に満ちた、生意気な反逆者という雰囲気に、成熟に伴って、彼の演奏は、次第により深い人間性とより大きな受け入れ能力を備えるようになってきた。彼は傷つき、追放されていても、繊細な感受性を持った核心部分を決して失わない。そして、最近のクプファー演出でのように、彼の不信感がゆっくりととけていくときでさえ、劇的緊張とその英雄らしさを高める結果にしかならない。私自身、最近のニューヨークの上演で、より孤独で反抗的なその外面性を和らげている無邪気な一面を感じた。厳しくつらい人生を送りながら、一貫して、ロマンチックな感覚や、希望、理想、そして優しさを保っている主人公がそこにはいる。こういう隠れた自我が、ジークリンデによって目覚めさせられ、そのときの彼の反応こそが、感謝の気持ち、畏敬の念、エロティシズム、そして無限の優しさを醸す。ホフマンのジークムントは、あらゆる眼差し、あらゆる接触が、その行動が意識的であること、その行動にある迷いと美しさを認識しているということ、そして、その運命が達成されることを妨げようとするものに対する激しい反抗心を持っていることを明確に表わしている。 彼は、その愛と死が運命的なものだということを知っているが、それでも、彼は生きるために、自分の選択できる道を意識的に決定し、その反抗心を意味のある人間らしい行動へと転換するべく、並外れて強い精神力を行動によって示す。
各演出によって演劇的な陰影の付け方は変化するにしても、ホフマンのジークムントに対する性格付けの核心は一貫してその独自性を保っている。この役の先輩たちとの違いを際立たせているのは、現代的な意味で直感的に伝わる彼の英雄らしさと、彼の歌唱と演技にある感電させられそうなエロティシズムである。シェローの演出から今に至るまで、ホフマンは、感情をはっきり示すジークムント、生来の官能性と精神性が混合して白熱の輝きを生むジークムントを創り上げてきた。言い換えれば、社会から疎外されたアウトサイダーとしての、普遍的かつ現代的な態度のジークムントだ。彼の存在そのものの疎外性、その完璧な男らしさ、現代的な魂の不信感と信頼感に対するその情熱に任せた向こう見ずな関わり方。これこそが彼が意図するところなのだ。我々の仕事は物語の「時代」を問い、我々の時代に通じる橋を架けることだ。そうでなければ、我々はいかにして感動できるだろうか というわけだ。 この役では、ミュンヘン、ロンドン、シュツットガルト(1978年)、バルセロナ、ベルリン(1984年)、トリノ(1987年)、そして、さらに前に挙げた場所等々の、あまりにも数多くの出演を果たしてきているので、それぞれの公演を分析するのは難しいが、録音と劇場の生の舞台の両方における、ホフマンのジークムントの特徴の一部を取り上げて、詳細に検討することは可能だと思う。
一幕、登場のときから、彼はペースを決定する。部屋に猛烈な勢いで駆け込み、もの凄い疲労のせいで崩れるように倒れ込む。疲れきって、肉体的苦痛の中で歌われるWes Herd muss dies sei(だれのかまどだろうが)は、バリトン的で荒々しい。ジークリンデに目を留めた瞬間から、情欲と愛情が目覚める。そして、この気持ちを必死で隠そうとしているのがはっきりと見て取れる。フンディング登場の前に、二人は密かな愛撫を交わし、その後は、彼の視線は彼女から決して離れることがない。その眼差しは、彼女に対する同情と思いやり、彼女を守ろうとする気持ち、そして、二人の間を隔てるものに対する憤りなどを伝えている。フンディングが腹を立ててジークリンデをにらみつけるとき、"Willst du dein Weib umschelten?(自分の妻を責めるのですか)と、彼は雄々しくもいらだつ気持ちを抑える。疑いつつ、不安な気持ちで、彼の過去を話題にしようとするフンディングに立ち向かう。初めはいい加減な作り話をするが、徐々にお互いの敵対関係を察知すると、彼の物語は誇り高い挑発の様相を呈するようになる。ホフマンはこの長大な物語をひとつひとつの言葉を際立たせ、的を射た辛辣さで歌う。リズムの正確さも、レガートのなめらかさも、全く損なうことなく、最大限効果的に、言葉を強調する。彼がden Vater fand ich nicht(私は父を見つけなかった)といったフレーズに哀感を込めるやり方は、Lag sie tot(彼女は死んで横たわっていた)の 深々と響く正真正銘のバリトン的な低いCの音と同じように、心に残る。彼は、Nun weiss du, fragende Frau, warum ich Friedmund nicht heisse(知りたがりのご婦人も、これでおわかりでしょう、私がフリートムントと呼ばれないわけが) と物語を締めくくるとき、Friedmundのところで、驚くほど確実に漸次弱音化 diminuendoを実行し、そのフレーズの他の部分を弱音で紡ぐ。Ein Schwert verhiess mir der Vater(父は私に剣を約束した) は、常に激しい情熱の発露として抒情的に歌われる。一部のヘルデン・テノールがするように、絶対に怒鳴ったりしないし、不自然なスタッカート唱法を採用したりもしない。ホフマンは、このクライマックスを楽々と歌う。Waelseの叫び声は終始高らかに舞い上がりひとつひとつがなめらかに徐々に強く、クレッシェンドしていくが、指揮者のテンポに従って、音価を固守する。(レヴァインの指揮では、音価は長く、他の指揮者の場合はそれほど長くない) Winterstuerme(冬の嵐)は、ホフマンの演奏においては、常に詩を歌う歌曲Liedだ。彼のレガートは強烈で、このロマンチックな旋律に対する彼の気持ちは、対話的だ。そして、この愛の歌の情熱と官能的な脈動が全体を通してあふれている。この歌が終わった瞬間から、ホフマンはジークリンデを鼓舞して、共に痛いほどに愛情と歓喜あふれるこの幕のクライマックスにむかって盛り上がる。彼の身体言語表現はしなやかで、官能的であり、彼の声は生き生きと、響き渡り、飛翔する。彼はジークムントの栄光の瞬間に向かって迫力を増しつつ突き進む。剣のつかをつかむべく跳び上がるとき、恍惚状態でSiegmund heisse ich und Siegmund bin ich!(我が名はジークムント、我こそはジークムント) と、力強く歌いながら、彼は剣を抜くという難事に現実的に取り組む。あの非常に重要な断念の動機renunciation motif の長い旋律線を、途切れることのない、しっかりと支えられた、暗く不吉な、あふれるような響きでやり遂げる。彼はその剣をノートゥングNotungと名付け、運命を受け入れる気持ちと公然の反抗心が、金属的な輝きの中で入り交じって響くzu mir(私の元へ)という叫び声と共に、木の幹から剣を引き抜き、元気いっぱい頭上で振り回す。このときのホフマンの喜びとそれに続く部分は、非常にはっきりとしてわかりやすく、ずっと同じように表現されている。彼の笑顔はきらきらと観客席を照らし、彼のエネルギーはあたかも伝染力があるかのように人々に伝わる。ジークリンデと観客を押し倒す彼の力強さは、ぞくぞくするほどの興奮を体験させてくれる。最後の節で、よく通る高いA音を疲れを見せずに投げ上げて、世界に対して喜びにあふれた挑戦をたたきつける So bluehe denn Waelsungen Blut!(かくして、ウェルズングの血よ、栄えよ) は、性的絶頂の恍惚感を伴っている。一幕の終わりは、演出家によるとしても、大概は愛するジークリンデと情熱的に、実際にしっかりと抱き合うホフマンを見ることになるのであって、それは、性的な意味合いのない軽い抱擁だったり、キスのまねごとだったりすることはなく、まさに映画的な説得力を持つ、刺激的な愛撫だ。拍手喝采のうちに幕が降りる。
このようなぞくぞくするような一幕を超えるのは間違いなく容易な仕事ではないが、ホフマンは二幕でも常に衝撃的な忘れ難い舞台を出現させる。彼のジークムントは短い愛の過程で成長しつづける。彼の魂は成熟して花をつけ、悲劇性も英雄性も共に増して行く。一幕よりも、さらに知恵を得て、より優しさを増し、人生に対してより肯定的になる。その絶望ゆえに何事も恐れずより勇ましくさえなり、差し迫った目的に駆り立てられ、愛する人を守ろうと全力を尽くす。逃走中、彼女の後を追いながら、愛情のこもった身体接触によって彼女を落ち着かせようと試み、心地よい声で彼女を慰め、その恐怖感を和らげ、苦悩するジークリンデをなだめて寝かしつける。そのSchwester, Geliebte(姉妹よ、愛する人よ)は常に変わらず美しい。この一節は、柔らかいmezza voceではじまり、持続される透明な弱音の音節へ向かって弱まっていく。ホフマンにかかると、死の告知の場面は、寒気がするほどの霊気に満たされる。ブリュンヒルデが死者を覆う白布で男らしく落ち着いているジークムントを包むという、シェローの死の儀式は非常に印象的な手法だった。だが、数えきれないほどのもっと現実的で、写実的な演出(シェンクの演出のような)でも、ホフマンは手足の震えと不安げに見つめる彼の凝視の警戒の色で死の戦慄を伝える。彼はブリュンヒルデに、Wer bist du, sag (あなたはどなたですかと)、穏やかに挨拶する。彼女が死に定められた者のみが彼女を見ることを許される(Nur Todgeweihten taugt mein Anblick)のだと告知するまで、彼は目をふせている。そして、絶望的な勇敢さで、ゆっくりと振り向いて彼女と視線を合わせる。しばしば、彼は彼女に歩み寄り、明らかにそれとわかる動作で死を拒む。ホフマンのジークムントはまたブリュンヒルデの放つ輝きを感じていることを示す。彼は、彼女がワルハラで彼のために酒を注ごうという時、騎士のような礼儀ただしさで微笑むが、ジークリンデに対する献身の気持ちに静かに立ち返る。安定した、感情を抑制した声で、ホフマンは、情熱のかすかな兆候を最後のフレーズ、So gruesse mir Wotan und alle Helden. Tu ihnen folg' ich nicht.(それから、ヴォータンと全ての英雄たちにわたしからよろしくとお伝えください。彼らのところに、私は行きません) に加えつつ(Heldenの部分にごく小さなトレモロ)、全てを断念しはじめ、断固とした冷静な決心に至る。それから、この選択に興奮して、彼はジークリンデを自らの身体で守るために、おそらく最後のキスをするために、ブリュンヒルデに対して、So lang Sieglinde bleibt in Leben……(ジークリンデが生きているかぎり・・・) と、断固として、悲しみに満ちた正直な気持ちを披瀝した自分の決心を正当化するために、急ぎ駆け戻る。ブリュンヒルデが彼を説得しようとするとき、彼は自暴自棄に陥り、反抗的にHella halt mich fest(地獄よ、私をとらえよ) と、叫んで、誇りをかなぐり捨て、くずおれ、汗と涙にまみれた顔を両手で覆って、この最後の拒絶に伴う、傷つきやすい感情の爆発に一瞬身を任せる。ジークリンデとまだ生まれていない子どもを殺すという彼の決心は単なる脅しではない。その恐ろしいほどの怒りと、犠牲の精神をホフマンは確信させる。ブリュンヒルデは彼の手から剣をたたき落とさねばならないほどだ。彼女のほうこそが、説得されてしまい、彼と共に反逆に加わることを約束することになる。ホフマンのジークムントは、ほんの短時間だが、自分が救われたことを信じる気持ちになる。彼は、ブリュンヒルデの祝福を受け入れ、戦士としての熱狂的な気分をあらわにするが、ブリュンヒルデが見えなくなったとたんに、その気持ちは萎えてしまう。彼の筋肉のつかの間の興奮と萎縮が、これは裏切られるに違いない見せかけの夢なのだという恐れの気持ちをさらけ出す。
彼はジークリンデに向き直って別れのキスをし、生死にかかわらず、彼女との切っても切れない絆を断つことはできないことを確認して、自らを慰める。ホフマンは Zauberfest gesendt dein Schlaf (あなたは魔法にかかったように眠っている) を、微妙な強弱感で優美に歌う。その Umfried dich der Freude (喜びがあなたに平和を与えますように)は、曰く言い難い優しさに満ちている。その弱音と mezza voce の柔らかい音は、ほのかにきらめき、フンディングに闘いを挑む叫び声の虚勢を張る様と鋭い対照をなす。ホフマンは、この闘いを、常に現実的に本物のように表現する。彼はフンディングを挑発し、偽りのない純粋な勇気と無理矢理に希望を膨らませた大げさな勇敢さで自らを駆り立てる。ホフマンは、ジークムントの死に関して、実際的な残忍さと猛烈な暴力性を示さずに済ますことは決してない。彼は本当に苦痛を感じているかのように、身体をよじって身もだえする。突き刺さった槍をつかんで起き上がろうともがき、すっかり動かなくなって横たわるまで、気分が悪くなるほど真に迫ったけいれんをおこして身をよじる。汗にまみれた顔ををジークリンデのいる方向に向け、生気が失われていく目で彼女の姿を追い、ブリュンヒルデが彼女を連れ去るのを声もたてたられない激しい苦痛のうちに見つめる。確実に訪れようとしている死は彼が 声を出すことも手を伸ばすことも妨げる。シェローの演出以来、ホフマンのジークムントのもうひとつの特徴は、ヴォータンに対するほとんど究極的な寛大さである。神、ヴォータンが十字架から降ろされたキリストを抱く聖母像、ピエタのようなやり方で、ジークムントを抱き上げるとき、ホフマンは自分が神の息子であるということを直感した喜びと、神を父として認識したことを示す。シェンクの演出では、微笑みさえ見せ、がっくりと頭が後ろに倒れる寸前、手を伸ばして父の顔に触れようとする。彼の死のかすかな吐息は、夢心地で没入している注意深い、心の底から感動している観客の耳にはっきりと響き渡る。
ホフマンのジークムントを体験することは、この役の複雑さを徹頭徹尾理解すること、別の言葉で言えば、正真正銘の神話的次元で絶頂感とカタルシスを体験することだ。たった一度でも、彼のウェルズングを目撃すれば、ワーグナーの音楽劇が到達しうる高みをついに体験した当事者であることを感じるはずだ。
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