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5)パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン [2012年刊:フリッツ・ホフマン著]

p.27ーp.33
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン

 おそらく最も卓越した、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルとのワーグナーのパルジファルの録音は、1979年の終わりのことだった。兄がタイトルロールのこの録音は当然ベルリン・フィルで行われた。ペーターは、すでにその前の月にマエストロ・カラヤンとパリのオペラ座でパルジファルの3幕を舞台で演じていた。そして、今度は録音することになったのだった。

 パリでの公演の後、私はペーターと小さなパリのビストロに座っていた。そこで、ペーターは私にすばらしい提案をした。ドイツに戻って、彼の専属マネージャーをしないかというのだ。私のパリでの見習い期間は、私の将来にとってとても重要だったことは疑う余地がなかった。だから、迷うことなく、喜んで彼の提案を受けた。パリの音楽事務所(アーティスト・エイジェンシー)の仕事で、この重要なパルジファルに一人の歌手を紹介することに成功していた。その歌手は、若い見習い騎士という小さな役を得た。

 ペーターがベルリンでの録音に一緒に行こうと誘ったとき、こんな大きなプロダクションに立ち会えるのははじめてだったから、私は非常にうれしかった。元ティンパニー奏者(打楽器奏者)として、ベルリン・フィルを肩越しに見られるなんてまたとない体験だった。第一ティンパーニー奏者に、どうしたらベルリン・フィルでこの夢のような仕事を手に入れられるのか、質問したところ、彼はこう答えた。「楽譜を見るのではなく、指揮者から絶対に目を離さないこと!」

 カラヤンは個性的な指揮をした。ほとんど常に暗譜で、しかもたいていは目を閉じていた。そして、楽団員や歌手達に自分とのアイコンタクトを絶やさないように要求した。楽譜に釘付けになる者に災いあれだ!

 私たちは陸路、車でベルリンに向かった。そして、多分、遅れるだろうと覚悟した。というのは、ペーターの準備ができていなかったというか、どうしても馬たちの世話をしなくてはならなかったからだ。ペーター自身は大好きな馬たちと別れたくないものだから、落ち着いたものだった。ベルリンまで馬で行きたいぐらいだった。毎度のように、私が出発をせかした。カラヤン氏を待たせないほうがいいのだから。

 東ドイツ国境通過地点、ホーフの近くのルドルフシュタイン/ヒルシュベルグに着くと、無愛想な国境警備兵が待ち構えていた。その顔色はぴちぴちの薄灰青緑色の制服の色と完璧に同化していた。彼の質問「どこへ行くのか」「ベルリン。遅れそうなんだ」私は答えた。私たちと違って、彼が急いでいないことはすぐにわかった。私たちのパスポートを持って、のんびりとした足取りで薄汚い小屋に入っていった。30分後、陰気くさい目つきで、やっと戻ってくると「ビザを見せてください」と、つっけんどんに言った。「どのビザ?」とペーターが友人を疑うような質問した。もちろん、そうせざるをえなかったことはよくわかったが、私たちのいらだちが彼を黙らせるなんてことはまるっきりなかった。

 「ベルリンのどこへ行きたいのですか」彼はアクセントのないザクセン方言でぼそぼそとつぶやいた。

 「ベルリン・フィルハーモニーで録音するのですが、困ったことに遅刻しそうなんです」と私が返事をした。

 彼はびっくりしたふりをして私たちに教えてくれた。「ああ、そう。フィルハーモニーが目的地なんですね。それなら西ベルリンですから、さっさと言ってくれればよかったんですよ。ベルリンへ行く用事があるって。でも、ベルリンはドイツ民主共和国の首都ですから、ビザが必要なんです」

 私は大声で悪態をつきたくなるのを抑えた。そんなことをしたら、この畑の真ん中でクリスマスイブみたいな気分で残りの半日を過ごす羽目になるかもしれなかったから・・

 西ベルリンまでの次の3時間は褐炭暖房とトラバント(東ドイツの小型自動車)の2サイクルエンジンの排気ガスの忘れがたい香りがお供だった。そして、多少のスピード違反をした結果、約束の時間ぴったりにフィルハーモニーに着いた。カラヤンの写真家であるラウターヴァッサー氏の外には、私だけが観客席に座席が用意されていた。そこにじっと座って、音を立てないように常に気をつけていた。ほんの小さな咳でもして録音が中断されたりしたら、なんとも恐ろしいことだ。だが、全てうまくいった。カラヤンが突如「このオーケストラは基礎ができていない」と言って、決然と指揮を中断して、不機嫌に、録音調整室に引きこもってしまったことがあったのが忘れられない。そこでは、私たちが音声調整装置のそばに座っていた。しばらくして、兄が指揮者に、間違った音はひとつも聞こえなかったのに、いったいどうしてオーケストラに強制的休憩という罰を与えるのかと尋ねた。彼は不明瞭にもごもごと言った。「中断することは全くなかったが、私が45分後に戻ったら、団員全員が少なからず憤慨しているはずだから、椅子の端に浅く腰掛けて、最高の集中力で『今こそ思い知らせてやる』と思うだろう」そして、その通りになったのだった。

 ヘルベルト・フォン・カラヤンは、あらゆる面で完璧主義者だった。好き嫌いは別として、彼にとって全てが常に最高レベルの完璧な演奏を達成するための筋の通った正当な手段だった。グラミー賞を獲得したこのパルジファルの録音でも、指揮者が思い通りにやって正しかったことを示したわけだ。

 この録音中、私が担当した歌手は2カ所の小さな楽節にちょっとだけ登場したのだが、困ったことに彼はものすごく緊張して、準備するのが早過ぎ、せわしなく楽譜のページをめくっていた。歌手は舞台前方のカラヤンの後ろに立っており、カラヤンはオーケストラを見ていたので、これに気がつかなかった。カラヤンは、後ろを振り向くことなく、いきなり中断すると、同じ箇所を繰り返した。2度目のとき、この歌手は自分の出だしをやり損なった。さすがにこれは指揮者に気づかれずにはいられなかった。

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フィルハーモニー内は完全に静まりかえった。私は為す術がなかったが、せめて自分の椅子にほとんど隠れるように沈み込んだ。何と言っても、この歌手の雇用が心配だったし、責任を感じていた。ヘルベルト・フォン・カラヤンは再び演奏を始める合図をした。今度はこの歌手も正しく歌って仕事を続けることができた。

 この時、私たちは全員クーダムのケンピンスキーホテルに泊まっていた。その晩カラヤンはペーターと私をケンピンスキーグリルでの食事に誘った。そのついでにこの出来事も話題になった。これについて私には責任はまったくないと彼は言った。彼はむしろヨガについて詳しく話したがった。そして、私は隣の席の人たちが私たちの会話に大いに興味を持っているように感じた。

 ヘルベルト・フォン・カラヤンは毎朝5時に起きるだけでなく、その後ほぼ1時間は逆立ちをしていた。それから、ホテルのプールに行ってまったく一人で、さらに1時間、泳いでいた。ペーターと私はこの鉄のような規律を非常に尊敬していた。これこそが彼の全世界での大成功の土台だったのは間違いない。

 ベルリンでの録音は大満足で完成した。そして、1980年ザルツブルグ復活祭音楽祭で同じキャストでカラヤンのパルジファルが上演された。リハーサルの後、ペーターはカラヤンを自分の車(ベントレー)ですぐ近くにある人口4千人の村、アニフの自宅まで送った。

 カラヤンは美しい女性たちだけでなく美しくてスピードの出る車も大好きだった。自家用飛行機リアジェットも操縦した。アニフへの道中、ペーターの強力なカーステレオからはちょうどピンクフロイドのアルバム「ウォール」の曲が鳴っていた。しばらくして、カラヤンが拍子をとっているのに気がついた。繰り返し音が大きくなるのを明らかにおもしろがっていた。八つのスピーカーからとどろき渡った "We don't need no education" その時、のどかなアニフでのこの大音響の音楽を、ふと不審に思った通行人が二人の方を振り返って見た。

 彼の一言。「気に入ったよ。だれの曲?」

 ペーターと私はピンクフロイドの大ファンだった。そして、ロンドンでその忘れがたいコンサートの前にバンドのメンバー全員と個人的な知り合になったときは、最高だった。

* * *


目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人
ナッシュビル&グレイスランド
ナミビア:楽しい旅行
ペーター・ホフマンの部屋
ゲストブックから
表紙と目次
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