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ルネ・コロvsペーター・ホフマン [オペラ歌手]

マスコミをはじめ、世間は、対立する大物という図式が大好きなようです。人気者同士がお互いに無関心だったり、ごく普通の人間関係を保っていたりするのは全然おもしろくないというわけです。お互いにライバル意識むき出しという感じで、熱くなっていてほしいのでしょう。

1980年代、90年代、音楽関係の出版物は、いわゆる三大テノールに対して、ルネ・コロ、ペーター・ホフマン、ジークフリート・イェルザレムをワーグナー三大テノールと称していました。本家三大テノールはその後、共にコンサートをするなど、ある意味実体を伴うことになりましたが、ワーグナーのほうは単に活躍時期に重なる部分があったというだけのことでしょう。

年齢的には、コロ(1937年生)、イェルザレム(1940年生)、ホフマン(1944年生)の順で、三人共ドイツ人。あの戦争によって様々な分野で壊滅状態のドイツにやっと登場したドイツ人テノールというところでしょうか。

☆コロは、祖父は著名なオペレッタ作曲家、父も作詞作曲家、キャバレー経営者として有名でした。コロはごく若いころからアメリカのビッグ・バンド・ミュージックにのめりこみ、オランダでダンス・バンドの演奏に加わったのが最初の仕事。1957年に出したロック・シングルHello, Mary Louが大ヒット。ドイツのポピュラー界の注目の的となり、一夜にして十代の少女たちのアイドルに。このシングルは、125,000枚売り上げます。父のキャバレーに出演していた1958年ころ、彼の声にクラシック歌手としての素質を見たピアニストの勧めで、個人教授で声楽の勉強を開始、1965年にオペラ歌手としてデビューしました。地方の二つの劇場で専属のリリック・テノールとして四年間過ごします。職業的飛躍の年は1969年で、バイロイト音楽祭に「さまよえるオランダ人」の舵取り役で出演、注目されました。参照:Hello, Mary Lou(ユーチューブ)

☆ホフマンは、21歳ごろからドイツ国防軍パラシュート部隊に所属するかたわら、個人教授で声楽の勉強を開始、除隊後の音楽大学時代を経て、1972年やはり地方の劇場の専属歌手としてデビューしました。詳細とその後の経緯はこちらへどうぞ。

 ルネ・コロとペーター・ホフマンは、ドイツのマスコミにとって格好の標的で、いわゆる『歌手戦争』がでっちあげられていたということです。コロ側からの情報は得られていませんが、ホフマンの伝記にあるように、歌手自身はこの『歌手戦争』には興味も関心もなかったというのがほんとうのところでしょう。ホフマンの伝記にはコロの名前が数回登場します。例えば、ホフマンはバイロイトでの最初の住居を、ルネ・コロから譲ってもらったとか、コロは1977年オートバイの事故で八ヶ月間キャリアを中断する羽目になったペーター・ホフマンの代役としてロンドンの「魔弾の射手」のマックスを、1984年にも足をひどく捻挫したホフマンに変わってチューリッヒで「マイスタージンガー」のシュトルツィングを引き受けたとか。そして、ホフマンは、インタビューでコロについて質問されて、こう答えています。

「私たちは、親しくなるには、あまりにも違っています。コロの公演に関しては、せいぜいゲネプロに行くぐらいです。そして、その時彼が見事に歌えば、一人前にうらやましいと思います。歌手戦争ですか? 何のために? なにしろ、私たちは、自分たちの専門分野において、世界中で、ほとんど一人ぼっちという状態なのですから・・・」(ペーター・ホフマン)

「コロは偉大です。ということは、私も同じです。それでも、完璧なヘルデンテノールとしてのみ存在してくれないかと言われても、そういうことは拒否します。彼も同じでしょう」(ペーター・ホフマン)

「1979年が1980年に変わるころ、ドイツの雑誌のホフマンに対する関心の高まり第一陣は収束に向った。プレーボーイ誌は、1979年11月号にこの歌手をこう紹介した。
『実際、この百年、少なくとも高いC(ハ音)に届くヘルデン役では、有名なドイツ人テノールは、マックス・ローレンツとヴォルフガング・ヴィントガッセンの二人しかいない。そして、その後継者としてふさわしいのは、ルネ・コロのようにみえた。新たな本命はペーター・ホフマンだ。彼は、高度の能力を要求される競技スポーツの訓練を受けた、肩幅63センチの青年で、音響的な能力に加えて、テレビ画面に登場するのに必要な身体表現ができる素質をも備えている』

☆イェルザレムは、いわゆる後期中等教育から学校で音楽を専門に学んだようです。大学卒業後、バスーン奏者としてオーケストラ団員になります。おじの一人がオペラ歌手だったそうですし、本人としてはほんとうは声楽をやりたかったのかもしれません。オーケストラ団員として自立したあと、趣味で声楽のレッスンを受けていました。この間の詳細とその後の経緯はこちらへどうぞ。
1976年、シュツットガルト歌劇場と契約しました。ホフマンも1975年から同じ劇場と専属契約を結んでいますから、ここで二人は面識を持った可能性が高いと思います。1977年にはバイロイト音楽祭にデビューしました。シェロー演出「ラインの黄金」のフローと「トリスタンとイゾルデ」の若い水夫です。その後、バイロイトだけでなく、他の劇場でも、ホフマンとダブルキャストだったことが少なくないようです。1983年からの「ニーベルンクの指環」(ショルティ指揮、ホール演出)では、ホフマンがジークムント役を断り、イェルザレムは「説得されて」この役を引き受け、いわゆる重い役へと移行していきます。ホフマンが1990年にバイロイトを去り、難病でオペラの舞台に立てなくなるとともに、イェルザレムは完全にホフマンの代りになったと言えると思います。

 イェルザレムとの関わりでは、こんな挿話があります。ホフマンのキャンセル時の行動はルネ・コロとは正反対と言えるでしょう。
 1979年、朝起きたら声が出ない状態に陥って、バイロイトのローエングリンの最終日をキャンセルする羽目になったとき、劇場に行って、公演の前と幕間に、代役のジークフリート・イェルザレムを指導したという話は知る人ぞ知るというところだそうです。
 1983年の伝記の著者は、「こういう直前のキャンセルは相当に心苦しいから、そういう日は、全く単純に祝祭劇場には現れたくないものだろう。しかし、ペーター・ホフマンは劇場にやって来た。彼の物事にたいする責任感が非常に強いことがわかる。そして、代役の歌手に舞台上の立ち位置や演技的動きを説明するのを助手任せにせず、開幕前と休憩時間の間、その都度、その役を代役のテノール仲間に、自分自身で、積極的にかかわり、納得のいくように、はっきりと説明した。自分で歌えないときも、なお彼にとって『彼の』役は非常に価値があったから、責任を持って次の人に伝えようとしたのだった。こういう観客に対するサービスの類は、大部分は、観客は知る由もないのだ。だから、その夜の公演で、二人のローエングリンが公演の成功に貢献していたこともまただれも知らない。」と書いています。
 それでも、このキャンセルは大いに非難されたということです。
「1979年バイロイトの『ローエングリン』の公演で、朝目が覚めたら、全然声が出なかった。一晩中窓が開いていて、八月の終りに、予期せぬひどい寒さになった。熱い風呂に、首が蟹のように赤くなるまでつかった後は、まだ期待していたが・・・しかし、声は全く回復しなかった。病気だというのは、非常に心苦しかった。
 このキャンセルが、世間で、あんなに否定的に言われた理由が、私には全然わからない。まず第一に、おそらくは、観客は予定通りの歌手を期待しているという理由だろう。期待が裏切られたのだ。」(ペーター・ホフマン)
 ついでに言うと、1987年バイロイト音楽祭開幕のトリスタンは、代役を見つけることができなかったため、インフルエンザによる発熱と吐き気と闘いながら出演。確実にやれるし、キャンセル嫌い、献身的に100%以上のものを提供しようとするのだから、経営陣にも観客にもホフマンが好まれるのは自然なことでした。
 また、1977年6月、交通事故で大けがをし、休業を余儀なくされますが、入院中もしょっちゅう出歩いていたホフマン、7月の終りのゲネプロの期間にはバイロイトに顔を出していたという話です。
「私はまさに歌うために存在しているのであって、さぼるためにいるのではない」というのがホフマンの信条というところでしょう。


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YUKI

イェルザレムに関しては詳しく分からないのですが、ルネ・コロとホフマンって環境が違ってそうですねぇ?!
ルネ・コロって音楽一家って感じなんですねぇ?!
しかしホフマンは軍に入ってたのは音楽を学ぶ学費を稼ぐ為にだったんでしたっけ?
凄く努力家って感じがします。

似たレパートリーを持つ歌手は互いにライバルってよく言われているようですねぇ?!
競い合ってお互いに磨きをかける為に熱くなって欲しいってところでしょうかねぇ?(^_^)
by YUKI (2006-07-29 15:06) 

TARO

私の分野(?)だとデヴィーアvsグルベローヴァですかね。
ワグナーのように一つのオペラに複数の同じ声種の歌手が出る作品と違って、イタリア・オペラのプリマドンナだと歌手同士の接点はあまりないかと思いますが、周囲がライヴァル視したくなるんでしょうね。
by TARO (2006-07-30 02:14) 

euridice

>歌手同士の接点はあまりない
一緒に舞台にのることはない歌手をライバル視するんですね。
コロとホフマンの場合、マスコミで「歌手戦争」を盛り上げていたときは、ボクシングまがいの表現で煽っていたらしいです。
by euridice (2006-07-31 07:54) 

たか

ホフマンとコロは確かに性格は両極端のようですね。でも私は2人の共通点もあると思っていて、それはクラシック以外の音楽も歌っているということです。コロはもともとオペレッタやポピュラー音楽を歌っていましたし、ホフマンはロックのツアーもやりました。コロやホフマンの歌が時に色っぽいのはそういう多様な歌い口を身につけているからだと私は思っています。
ただコロはオペレッタを歌ってからオペラを歌ったのに対して、ホフマンはオペラで成功した後にロックを歌ったので一部の批評家から批判されました。あれは日本だけでの現象だったのかそれとも欧米でもそうだったのでしょうか? 
私は実はホフマンのロックは結構好きで、「ペーターホフマン2」に入っているホフマン原案のロックシンフォニー「アイボリーマン」はロック史に残る名曲だと信じています(^^;
by たか (2006-08-02 22:56) 

euridice

>あれは日本だけの現象
というより、ドイツ発のようですね。コロも言ってますが、かの地、特に批評界は、ポピュラーからクラッシック音楽へは芸術的上昇、逆は転落と考える傾向が強い(強かった?)そうです。ホフマンは、そういうことを承知のうえで、あえてやったわけです。コロは上昇したかったのかしら^^? 

パーキンソンという難病が割り込んだことで、ホフマンの果敢な挑戦が、ある意味、中途で雲散霧消してしまったのが惜しいと思いますが、そういう人生の悲劇性があるからこそ、飽きずにファンでいられるのかもしれません。

>ホフマンのロック
はじめはおそるおそる聴きましたが、私も気に入ってます。「アイボリーマン」いいですね^^!
by euridice (2006-08-03 07:27) 

たか

ドイツでも批判されたのですね。かわいそうに....
ロックツアーの際に音響設備の故障で音が出なくなった時もホフマンはマイクなしで絶唱したそうで、どんな時もベストをつくす生真面目さがホフマンの真骨頂だと思います。
by たか (2006-08-03 22:22) 

euridice

伝記によれば、オペラの経営陣、指揮者をはじめとするクラシック関係者と大半の観客とは問題なかったようです。例えば、ポピュラー活動が原因で干されるなんてことはなかったわけです。一部評論家とワーグナー狂が熱心に攻撃を繰り返していたみたいです。実力行使も辞さなかったそうです。脅迫状を送りつけたり、悪意によるブーイングをやったり。普通のオペラファンとしては、オペラの出演回数が明らかに減った(W.ワーグナーによれば、およそ三分の一になった)のが、一番の不満の種でしょう。
by euridice (2006-08-04 06:09) 

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