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ある女性評論家のホフマン@ポピュラー音楽論あるいは讃 続き2 [PH]

以下、主として、1988年に発売されたアルバム「モニュメント」について述べられています。このアルバムでは、クラシック音楽の原曲が編曲されて歌われています。去年だったか、平原綾香の「ジュピター」が日本でも話題になりました。急にあちこちで耳に入ったものですが、その曲も含まれています。
関連記事:アルバム:モニュメント 1988年


   ペーター・ホフマンはその最初の六つのポピュラー・アルバムのひとつひとつにおいて、自分の時代の歌をクラシックにしようと考えている。その七番目にリリースしたモニュメントで、ある意味、初期の試みではレコードのB面的に見なされている基本路線に真っ向から取り組んでいる。モニュメントでは、原曲に、現代的表現法で作られた変奏曲を移植して、クラシック音楽を大衆化しようとする。その結果、音楽的にも歌詞的にも革命的な融合を果たした、激しく鋭い議論を呼ぶアルバムができあがった。

古いクラシック音楽を新しいやり方でする、ホフマンの演奏は、単に、編曲してポップスらしい詩を付け加えた以上のものを生み出している。実際のところ、それらは全く新しい創造的表現形式になっている。前時代の音楽は新しい曲--- 主題の変奏曲と言ってもいい  ---を書くために、 役立つ主題を与える素材として求められている。つまり、モーツァルトのバッハ変奏曲と同じように有効であるし、ホフマンのクラシック・ポップスの全ての作品と同じように音楽的に刺激的である。時に、これらの変奏曲は、忠実に演奏されるクラシック作品に、たとえば、古いアリアに技巧的で、新鮮なカデンツァを付け加えるという形を取っている。

また、時には、旋律と歌詞の両方を含めての聴覚的次元を増幅させるために音楽に詩を加えたりもする。多くは、原曲に対する良心的態度によって、原曲に非常に忠実でありながら、同時に原曲から根本的に逸脱している。人当たりのよい穏健なクロスオーバー・ポップスでは、決してない。イージー・リスニング的クラシック音楽でもない。そうではなくて、時代を超えたテーマを扱った独特の再創造作品であり、生きているクラシック音楽の、ホフマンによる定義を、まさに耳で確認できる形で示しているアルバムだといえよう。


  このアルバムに収録された八つの歌は、すべて愛に関係があり、それが重層的に表現される。神聖な愛、人間的な愛、喜びにあふれた愛、悲しい愛、個人的な愛もあれば、集団的な愛もある。ホフマンは様式感のある、めくるめくような声で、独自性の非常に強い、凝縮度の高いアルバムのうちのひとつと認められる作品を創り上げている。そこにはすばらしいメッセージが一貫して込められている。すなわち、ベートーベンの「人間は互いに愛し合うべきものだ」という言葉に含まれるメッセージである。

しかし、そこにはまた、型破りの選曲から生まれる卓越した音楽的一貫性が存在する。電子楽器と伝統的な楽器が、現代的オーケストラとして融合している。複数の声楽的スタイルも混ぜ合わされて驚くべき調和をみせる。音楽的正確さと果敢な再創造が併置されている。

モニュメントは、敬虔であると同時に聖像破壊的である。伝統に敬意を払う一方で、伝統に反逆している。鋭いレーザー光線で音楽間の壁を粉砕している。晴れやかに輝かしく、コンサート会場を良い音楽はひとつの言葉を歌うというペーター・ホフマンの信念を強烈に証明するように、深い感動で満たす。


  レコードでは、前にも述べたように、さらにトスカとリゴレットのアリアのための巧みに考案されたカデンツァに加えて、ベートーベンの喜びの歌とバーンスタインのサムウェアの新たな編曲も歌っている。

第九交響曲の音楽で、ホフマンはよりゆっくりしたテンポと英語の歌詞を選択して、聖歌的単純さを優先するために、ベートーベンのオーケストレーションの壮大さをある程度放棄している。彼の本物のテノールの声は合唱が喜びに満ちて舞い上がるのを数回に渡って助長する。ルバートをかけるわずかな機会を楽しみ、確かな、オペラ的高音で締めくくる。歌唱スタイルは、フォーク的聖歌からクラシックのコンサート・アリアまでの広がりの中で展開され、木管楽器群による純粋な昔の音楽の響きを強調するキーボードとパーカッションの混合的な楽器使いは、時代を超えた人間の兄弟愛を歌い上げる説得力あふれる新しい曲を生み出している。

バーンスタインのサムウェアで、ペーター・ホフマンは、シンセサイザーのクレッシェンドと重いパーカッションで前奏を始め、place for us(私たちの場所)のイメージが想起されるときに、彼のピンと張った鋼のようなヴォーカル・ラインが、やっと穏やかに静まるという方法を採っている。豊で、まろやかな音色を、時にセクシーな黒人的響きに結びつけ、ゆっくりとしたテンポから、快活で激しいテンポへと変化する。非常に正確に精巧に造形された、心から納得できる願いを伝えようとして、彼が生み出すジャズ的なリズムと滑らかなレガートのリズムが交互にアクセントをつけて雄大に響く。


このレコードにはまたクラッシック音楽にポピュラーの詩をつけた三つの曲が入っている。なかでも最も強い印象を与えるのが、ホルスト作曲のThe Planets(惑星)から、木星の部分の最初の二つの動機に詩をつけたJoybringer/Sunrise(快楽の神〜木星)だ。ホフマンの最初の動機では、シンコペーションによって、二番目の動機では、対照的にゆっくりとした抒情的なテンポをとることによって、音楽的に明らかに変化が生じている。この希望への情熱的なメッセージのために、ホフマンは光沢のある朗々とした音色を当てている。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番のアダージョの主題では、E.Carmen の詩、All By Myselfで、壊れた関係と失われた時が、鼻にかかったバラードとして、歌われる。

ホフマンにかかると、歌い手、つまり語り手が、痛切な感動を呼ぶ、実在の、孤独な老人として実際にそこに浮き上がって見えるように、歌は、効果的に性格づけて表現される。その低く太く、セクシーで、悲しげな、完璧なSprechgesang(話すように歌うこと)の抑揚は、人間の感情の思いつく限りの微妙に変化する色合いを生み出しており、だれもが納得してしまう。

ショパンのプレリュード第20番ハ短調による、Barry ManilowのCould It Be Magicでは、ホフマンのロマンチックな声が、楽器群の醸し出す旋律の連続性を維持している。ここでは、キーボードとギター伴奏から、伝統的オーケストラ編成までの楽器が用いられ、キーボードとギター伴奏によるフォーク・バラードから、伝統的オーケストラ編成によるロマンチックなジャズのテンポまでの、変化に富んだ強弱感を生み出している。そして、そこに旋律のはっきりした声の流れが重なる。この曲でも、すべての曲と同じように、ホフマンの、考え抜かれた対照的なスタイルの選択の仕方はこのアルバムを貫く思想を強化している。


モニュメント で、ペーター・ホフマンは、彼の好みのテーマを響かせるための、わくわくするような刺激的な新しいカギを発見した。すなわち、ポピュラー音楽とクラシック音楽の区分は人為的なものであること、音楽のすばらしい傑作、名曲は時代を超越していること、「クラッシック音楽」は聖遺物ではなく、生きている、さまざまな形で演奏されうる芸術作品であること、演奏家はこのソロ・リサイタルのような適切な場において、実験的なことをする権利があること、つまり、当然、独創的でなければならないが、聴衆に対して、挑戦的に新しいものを示し、進むべき新たな方向を探り、新たに鍛え直した音楽言語で彼らと交歓する権利があるということだ。

演奏会を開いて、聴衆を自らのロックとポップスに巻き込む彼の才能は、その一挙手一投足が、人を惹き付ける。それは彼がオペラで行うコミュニケーションと同じだ。三度のツアーでは、二時間半のショーを行ったが、照明と音響デザインは技術的に感嘆させられるもので、楽器の演奏者と合唱を歌う歌手の選択においても音楽的に非常に優れており、演出も振り付けもダイナミックで、趣味のよいものだった。同時代の多くのロック歌手たちと違って、ホフマンの最大の魅力は音楽的価値にある。すなわち、その感動を呼び起こす声と彼の編曲と伴奏の優秀さである。そのプログラムは目新しい企画とか、おしゃべりではなく、あくまでも歌が中心になっている。彼の舞台は直接的取り組み、つまり、あれこれ言い訳せずに、私たちの時代の歌であると彼が信じる「新しい音楽」を提供する者としての歌手独自の方法である。

ホフマンのロックは、この歌手の音楽的人格の重要な要素のひとつである。そのロックに、彼はオペラの舞台で学んだ技術を一部持ち込んでいる。すなわち、歌詞に対する鋭敏な感覚、聴き手の感情に訴える朗唱の鋭さ、演劇的な信憑性、そして、豊かな広がりをもった並み外れた声。彼は、ロックから、オペラに、彼のコミュニケーション・スタイルにある親密感、現実の世界との関連性、現代性をもたらす。彼は、両方の分野で、聴衆を獲得している。彼は、聴衆の聴くものに対する好みの幅を広げ、聴衆の音楽的固定観念を破壊し、あらゆるジャンルの質の高い作品に対する、聴衆の鋭い感性に気づかせる。

ホフマンはロックのせいで声をだめにすると主張する偏狭な人たちは、否定し難い証拠によって正直な判断をしているのではなく、自分たちが達成できるかもしれない予言能力を信じる必要にかられているにすぎない。

16年以上にわたって、自らの声で職業経験を積んで来ており、自分の声にある天賦の才能を大事にしている、テノール自身こそ、その声の使い方を決定する資格があるし、少なくとも歌を歌わない評論家よりは、はるかに適任であることは間違いない。そして、彼はこう主張する。『ロックでは、ストレートな旋律だけが歌われます。しばらくこれをやるのは、歌の練習のようなものです。』

そして、確かに、ジェイムズ・レヴァインのような、非常に立派な音楽の専門家の見解こそが、このつまらない議論においては、重視されるべきだろう。指揮者は1982年にこう言った。

『ロックとペーター・ホフマンに関する限り、彼の技術は確実でゆるぎない状態なので、ロックをやっても問題ないと思う。ロックが彼の声を駄目にするという考えは間違っている・・・ ロックではマイクを使うのだから。静かに穏やかに歌うことができる。そうすることは容易なことだ・・・ 彼は何であれ自分のすることを自分で決めるだけの知性を備えている・・・』 

ホフマンはロックを歌うことによって高尚な文化を貶めている、と主張する伝統主義者は、彼が20世紀のクラッシク音楽に含まれる歌唱文学を保存し普及させるために果たした重大な歴史的貢献を見落としている。

ルドルフ・ビング(ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場総裁)はかつてこんな皮肉を言った。世界的に優れた歌手たちはブルー・ジーンズがなかなか似合わない。しかし、ペーター・ホフマンにとっては、ジーンズが似合うかということは全く難しい問題ではない。むしろ、時代遅れのテノール的固定観念に合わせることのほうが難題だ。彼は自分自身と折り合いをつけて、うまくやっていくためには、常に聴き手に挑戦的に問いかけ続ける必要があるのだ。そのレパートリー、ライフスタイル、そしてキャリア、どれをとっても、彼が非常に大事にしている音楽の目標に忠実であり続けている。つまり、こういうことだ。『音楽の意義は、人と人の間に、世代間に橋を架けられるということだと、私は確信している。これこそが私が歌う理由である。』(おわり)


関連記事:
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カントリー・ミュージック
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Cecilia

とても考えさせられる記事でした。
内容がとても濃いので一読しただけで簡単なコメントをするのが憚られる感じです。

ホフマンをより深く知りたくなる記事だと思います。
by Cecilia (2008-03-24 09:20) 

euridice

Ceciliaさん
長いうえに稚拙な訳で読みにくいのを、読んでくださり、
ありがとうございます。

↓原書です。
http://www.geocities.jp/euridiceneedsahero/needah00.html

by euridice (2008-03-24 14:31) 

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