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ある女性評論家のホフマン@トリスタン論あるいは讃(5)3幕 [PH]

前の記事、ある女性評論家のホフマン@トリスタン論あるいは讃(4)2幕 のつづき、いよいよ最後の幕、三幕です。解説が長いので、2回に分けます。

トリスタンは、二幕の終わりに自らメロートの刃に身を投げ出し、意識不明の重体で、三幕をむかえます。そして、意識回復後、息を引き取るまで、従者クルヴェナルが口を挟むにしても、ほとんど一人で延々と歌い続けなければなりません。その間、およそ40分。一幕、特に二幕でも、さんざん、激しく歌った後ですし、ここでほんとうに死にそうになってしまう歌手も少なくないようです。

ちなみに三幕の演奏時間はおよそ73分、二幕が77分、一幕は前奏曲(十数分)を入れて、80分ほどです。三幕のイゾルデは50分過ぎて登場、例の有名な「愛の死」を歌って幕となります。

以下、1986年と1987年のバイロイト音楽祭公演ラジオ放送に基づいて、書かれています。歌詞と音楽について多少勘違いではないかと思われる記述もあります。

参考に載せたのは1986年のラジオ放送からの抜粋ですが、音はそれほどいいとは言えないようです。トリスタン:ペーター・ホフマン、クルヴェナル:エッケハルト・ヴラシハ、イゾルデ:ジャニーヌ・アルトマイヤー、バレンボイム指揮
     

 三幕、どのすばらしいトリスタンにとってもそうでなければならないように、ホフマンも、そのもっとも優れた舞台を創り上げる。 残酷な肉体的苦痛に正気を失い狂乱しながらも、失われることのない詩情あふれる思いによって、最終的に美しく昇華するトリスタンが描き出される。 ヴィッカーズやトーマスと同じように、ホフマンも肉体的苦痛を、激しく現実的な感じでみせつけることができる。しかし、彼らと違うのは、彼はこの残酷な苦痛の描写に奇妙な美しさを醸すことができるということだ。すなわち、そのうっとりさせられる魅力は、英雄性が、退廃度を多少しのいでいること、より純粋な王国に対する肯定的な思いのほうが、否定すべき情欲より、多少まさっていることにある。
  
  
 ホフマンはDie alte Weiseを、疲れ果て意気消沈した呈で、暗い、静かな、ものうい音色で始める。Wo war ich? Wo bin ich?(私はどこにいたのだ。ここはどこなのだ)は、茫然自失、鈍く、抑揚のない単調さで歌われるが、Meine Herde(私の領民)では、混乱しつつも、多少意識が回復した感じだ。

Wie kam ich her?(どうやって来たのか)には、消え入りそうな生命のぞっとするほど陰うつなはかなさが感じられ、このトリスタンは死の体験からゆっくりと回復しながら、目にしたものを途切れ途切れに思い起こす。
Ich weiss es anders, doch kann ich dir nicht sagen(私は違うように思うが、話すことはできない)は、最弱音ではじまり、肉体から分離したような、死んだ人のような音色がDie Sonne sah'ich nicht(私は太陽を見なかった)の不吉な前兆となる落ち着いて憂うつな気分へと沈んでいく。

Ur-Vergessen(究極の忘却)の弱音のフレーズには、透明な悟りがある。そして、weitem Reich der welter Nacht(世界の夜のはるかな王国に)の最弱音を超えるほどの超弱音は、厳かな畏敬の念を呈する。

そのイメージがどんどんと高まっていき、Isolden scheit(イゾルデが輝いてそこに見える)で、ついに力強い調子で声になってほとばしる。

それから、Verfluchter Tag mit deinem Schein(光り輝く、ねたみぶかい昼)で、自己を引き裂く苦しみに至る。そこは、呪いそのものが広く広がっていくような響きで歌われる。

次に来るのは、墓場のように陰うつで、悲哀に満ちた、自責の念にさいなまれるBrennt sie Ewig diese Leuchte(この光は永遠に光り続けるのだろうか)だが、これは、優しく穏やかな旋律、Ach, Isolde, suesse Holde(ああ、美しく、たおやかなイゾルデ)へ、そして、半分の声mezza voceの、子どものように無邪気なwenn wird es Nacht im Haus?(ここはいつ夜がくるのか)へと変化していく。 このように、ホフマンは最初の死から目覚めてからの一連の独白を、驚くほどの無邪気さと純粋さで、再び死に向かいあって、締めくくる。

 二番目の独白は、言葉と音の狂気に満ちた奔流だ。Isolde kommt! Isold naht!(イゾルデが来る。 イゾルデが近づく)、が、彼の口からほとばしるとき、しばしば美しさと耳障りな粗いざらつき感が見事に融合した音色が効果をあげている。

O treue!(おお、なんという誠実さ)は、雄大でゆるぎない。クルヴェナルの友情に対する喜びにあふれた賛歌は、熱っぽい愛の表現だ。それは、das kannst du nicht leiden(あなたは、私の苦しみを体験することはできない)の、抑え難い極限の苦しみに縁取られている。ホフマンは、現実的に体力が消耗してくずおれる瀬戸際が訪れるときには、その声が弱まり、引いていくにまかせ、再びエネルギーを補給する。

イゾルデの船を幻覚のうちに見て叫ぶDort streicht es am Riff! das Schiff!(船が座礁しそうだ、ほら、あの船が)は、苦痛に満ちて耳障りに響く。鋼のように引き延ばされる旋律、疲れきってあえぐ最後の言葉、 Kurvenal, siehst du es nicht?(クルヴェナル、おまえには見えないのか?)のうちに、声を使い尽くす

   三番目の独白で、ホフマンはトリスタンの高まる疲労困憊ぶりと譫妄状態をみせてくれるが、それは疲労困憊というものを徹底的に究明して見せているのであって、声の弱さではない。

最後の官能的な一節、sehnen und sterben(憧れて、死ぬ)を長く引き延ばすとき、彼の愛からエロティシズムが完全に失われたことが、表現される。

この後に続く、Sehnen! Sehnen!(あこがれる、あこがれる)は、悲哀と自責の念に満ちた、魂の苦悩の雄大かつ激烈な爆発だ。そして、この後、彼の思いは、アイルランドの乙女に対する甘くせつない気持ちへと戻っていく。はかなく傷つきやすい愛とあこがれの気持ちが再び死を目前にした幻覚の中に忍び込んでくる。

ホフマンのトリスタンは、あの薬を呪う直前、幸せなころを身を切られるようなせつなさで思い起こす。Der Trank! Der Trank!(あの飲み物)の下降する叫びは、幻覚のもうろうとした状態を貫いて響き、この苦悩の人を、苦痛に満ちた現実の世界へと呼び戻す。

この独白の最後の三分の一の、狂乱し、疲れ果て、うわ言へと移行しつつ、ホフマンはO dieser Sonne sengender Strahl(おお、この燃えるような太陽)を、怒りに満ちた非難の調子で、未来をはっきり見ているように歌う。彼はわめきちらし、口ぎたない言葉を吐き出し、犬のように歯をむいてうなり、金切り声でさけび、歌う。そうやって、彼の運命を定めた神々に対して死に物狂いの非難を浴びせる。

最後の力を振り絞って、Verflucht sei fuerchtbarer Trank!(かの飲み物よ、のろわれてあれ)を、砕け散りそうな強さで叫ぶと、あたかもおおかた緊張から解放されたかのように、次の節、 Verflucht wer dich gebraut(その薬を作った者こそのろわれよ)で、沈みこむように声の調子をおとし、力尽きて、気を失って倒れたとたんに、その声は、虚無のうちに消え果てる。(つづく)


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コメント 2

佐々木真樹

解説だけでもう声が頭の中に響いて止まりません。
(実は音楽ファイルは開かないことにしています。ホフマンのトリスタンはへたに開けると仕事が手につかなくなる,質の悪いパンドラの箱なのです・・・・)
by 佐々木真樹 (2005-11-22 21:17) 

euridice

この文章をきっかけに、このオペラを聴いてみようなんて人、いるかどうか疑問ですけど、知ってて読むと、なかなか的をついてて、極論すれば、音楽を読んでるって感じがしないでもない・・ですね^^; 
by euridice (2005-11-24 07:49) 

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