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厳格な完全主義者カラヤン [人々]

2003年発行の伝記から引用の続きです。

「カラヤンは徹底した完全主義者だった。彼は演出をし、指揮をし、車や飛行機だけでなく、とりわけ、スタジオでのレコード録音や、後にはテレビ録画などにも、新しい技術を意欲的に取り入れた。しかし、細切れにして録音すること、つまり、まずオーケストラを録音して、それから歌手の声を入れるというようなことは拒否した。総合的な響きの一体感を求めた。つまり、彼には、絶対的な静寂、まったく邪魔のはいらない、完璧な集中が必要だった。

椅子がぎしぎしきしんだり、何かが落ちたり、オペラには何らかの雑音はつきもので、それほど不快なものではないし、ほとんど誰も気付かないが、レコード録音の場合は別だ。どんな小さな雑音でもいちいち聞こえてしまう。Richard Wagner: Parsifal『パルジファル』のレコード録音は集中的に行われた。これは後にCDにもなったが、大成功で、1981年には最高のレコード賞である『グラミー賞』を受けた。私のキャリアにおいて多くの賞や表彰を得たが、『グラミー賞』は殊更誇りに思う。

 ヘルベルト・フォン・カラヤンとの出会いは、強烈な印象が残った。カラヤンは、全くだれよりも特別な人だった。人を魅了する強烈な個性だった。自分自身にも厳しかったが、共に仕事をする相手に対しても、同じ厳しさを要求するところがあった。

オーケストラはカラヤンを大いに尊敬していた。ベルリン・フィルはたいていカラヤンの唇の動きか、視線だけで、カラヤンの意図を知った。しかし、それでもたまには勘違いもあったのを思い出す。カラヤンが、いつものようにとても静かに、オーケストラが、始めるべき、完璧な弱音の箇所である小節を言った。ホルン奏者たちが、勘違いして、雷のような大音響を出してしまった。自分たちの間違いに気がついて、どっと笑った。カラヤンは微笑をかみ殺した。口元をほんのちょっとぴくぴくさせただけで、言った。
『みなさん、あなたがたは自分自身を笑っているわけです。どうぞご存分に』こうして、彼は再びオーケストラを意のままに操った。

 いつか別のとき、理解上の問題がおこって、楽団員がまちまちの場所をひきはじめたとき、カラヤンは指揮棒を置いて、『このオーケストラは基礎ができていない』という言葉を残して、部屋を出て行った。楽団員は動揺し、ドイツ・グラモフォンの社員はショックを受けた。およそ30分の休憩になった。だれもカラヤンに話しかける勇気をもたなかった。カラヤンは録音調整室に閉じこもっていた。もちろんベルリン・フィルは第一級のオーケストラであるが、この中断によって、楽団員に、次のように気づかせ、意欲をもたせようと思ったのであると、彼は説明した。すなわち、楽団員は、今よりもっと最善をつくしうること、カラヤンは、楽団員からあらゆる可能性を引出しうること、楽団員は、更に成長しうることを、知らせようとしたというわけだった。なんと厳格なことか。

楽団員は怒りで椅子からずり落ちそうになったが、髪の毛の先端まで、『こんどこそ彼に目にもの見せてやる』という思いで意欲満々になってしまったと、ホルン奏者のひとりが後に認めている。このようにして、カラヤンは目的を達したのだった。

 カラヤンは実際、とても孤独な人だった。ポルシェに乗り、ジェット機で飛び回る指揮者、豪華ヨットに乗る上流階級というイメージは間違っている。こういう生活は、彼の家族のものにすぎない。彼自身は確信的仏教徒として相当厳格に戒律を守って生活していた。朝5時から1時間泳ぐのが常であった。ホテルに滞在している場合は、このためにプールとその近辺に4時半から6時半までは完全に邪魔されずに張り付いていた。彼は瞑想し、ヨガに没頭し、沈黙をまもり、心を休め、集中力を養っていた。彼は自分の仕事のために、つまり音楽のために生きていた。クナッパーブッシュやフルトヴェングラーよりもさらに、無比無類のオーケストラ監督だった。彼がオーケストラから引き出したものは、まさに魔法そのもので、彼の才能は非の打ちどころがなかった。」(ペーター・ホフマン)
続く

参考:ヘルベルト・フォン・カラヤン(Karajan, Herbert von)1908.04.05-1989.07.16 [オーストリア]


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