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ダブルキャリアに関する質問と回答 [PH]

同じ質問をしつこく繰り返すのは、マスコミ、あるいはジャーナリストの習性のようです。ペーター・ホフマンに対しても、そのポピュラー活動に関して、いくつかの質問がしつこく繰り返されます。頻繁で、しつこかった主なものは次の二つだったようです。

ホフマンの声はポピュラー音楽を歌うには、大きすぎるのに、何故そういうことをするのか?

「これに対して、私はそのようには考えていないのだと答えた。
いずれにせよロックやポピュラー音楽では、マイクを使うのだから、声の大きさは絶対条件ではない。声が小さければ、技術者が大きくするし、声が大きければ、これも技術者が適正に音量を調節するのだ。適正な調節を遂行することだけが重要なのだ。

それとは逆に、オペラの舞台では、せっかくの最高の声もほとんど聞こえないようでは、役に立たないのだから、まず第一に声の美しさと並んで、個性的な声の魅力を引出すためには、声の大きさが重要なのだ。クラシックの分野には、すばらしく美しいが、舞台で歌うには小さいという声の歌手も多いが、その場合、レコードで歌ったり、映画で演奏したりしている。

私はオペラが好きだが、この分野では格別創造的なことはできないという感じがしている。もちろん演技や歌唱において十分に個性を発揮することはできるが、私の前に、すでに何百人もの人が歌ってきたことを、指揮者や演出家が望むように歌わなければならない。

ポップスの舞台ならすべて私が望むように形作られるのがすばらしい。バンドが何をどう演奏するか、舞台装置、照明、私の身振り等々、全部、自分で決める。そして私が好きなアルバムを収録する場合、その中で、例えば、『アイボリー・マン』でのように、いくつかのアイデアを実現することもできる。そして、ツアーで成功すれば、再びオペラの仕事に、一生懸命、情熱的に取り組みたいという気持ちになる。」

声のために不安を感じたことはないのか?

「この点に関してちょっと振り返ってみると、およそ歌手ならだれでも声に関して不安を抱えているものだが、私はそのことを表に出さなかった。とりわけ自分にそういう不安をあえて吹き込まないようにしていた。

クラシック音楽か、ポピュラー音楽かは関係ない。『トリスタン』はいつも声にとっては難儀な役だが、それに対して、マイクを使って歌われ、自分の判断で声の音量を絞ることができるポピュラー音楽は害があるなど、全くあり得ないことだ。

しかし、どちらの場合も気管支炎にはなりうる。不安があるから、そう思い込むのだと思う。リューベックで新人としてタミーノを歌わないわけにはいかなかったときは、一週間病気だったが、かまわずやり遂げた。こういうわけで、さあ、もう余分なことは考えず、舞台に立って、とにかく歌うのだと自分自身に言い聞かせたら、うまくいった。まさに心理的なものだ。

当然のことだが、ウィルス性の気管支炎にかかって、声帯が炎症をおこしたら、どんな歌手でも、舞台に立つことは、ほとんど無理か、絶対不可能だと思う。出演が『ほとんど』不可能な状態の場合は、歌うべきか否かの決定は大問題だ。歌ったら、必然的にいつものようには歌えなくて、観客を大いにがっかりさせたうえ、評論家は容赦のない攻撃に出る。キャンセルした場合も、事態は実際まったく変わらない。私はこういう状況で、たびたび歌って、何と言っても自分が望むように歌えなくて、あとになって後悔した。声帯はその負担でますます炎症がひどくなっているというわけで、さらにひどく傷ついた。ショルティ指揮による『フィデリオ』の録音も、数回の上演も、気管支炎じゃなかったら、もっとよくできていただろう。加えて、気管支炎が慢性化して、決断が鈍ることもある。こういうことはけっこうよくある。今までで、一番大変だったのは、ワーグナーの演奏旅行を病気のために全部キャンセルして、しばらく入院しなければならなかったときだ。会場は借りてあって、全席完売で、オーケストラとも契約済み、とんでもない事態だった。歌手もまたまさしくただの人間だということだ。」


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