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歌手対演出家 P.ホフマンが揉めた演出家 [人々]

ペーター・ホフマンが「ひどく揉めた」演出家はアヒム・フライアー(1934年〜 ベルリン) ごく最近も、この人のベルリン・ドイツ・オペラのサロメは「ぶっ飛び演出」だったそうです。サロメのベールの踊りの場面は、登場人物全員が手をひらひらさせながら踊りまくったとか、サロメは最後にバラバラにされてしまうとか・・・ ちなみにこの公演、ヘロデ王はルネ・コロ。
(左の写真はペーター・ホフマンのマックス@魔弾の射手、ウィーン国立歌劇場)

ペーター・ホフマンが、シュトゥットガルト歌劇場と1975年から五年の専属契約をしたとき、「生まれながらのマックス」をアンサンブル・メンバーとして持つことができたのだからということで、「魔弾の射手」もレパートリー公演として期待されたという話。彼がボヘミア生まれのドイツ人であることがその根拠なのでしょうか。
なにはともあれ、ドイツのオペラですから、「魔弾の射手」のマックスは、ヴッパータール歌劇場専属時代のジャンカルロ・デル・モナコ演出公演をはじめ、キャリアのごく初期から、何度も演じでいます。それなのに、映像はもちろん録音も残っていないのが本当に残念です。

ジャンカルロ・デル・モナコとは気が合ってとても親しくなり、彼の父、マリオ・デル・モナコとも個人的に知り合うことになります。関連記事

そして、「ひどく揉めた」のはシュトゥットガルトでのアヒム・フライアー新演出「魔弾の射手」でのこと。
左の写真は1983年再演時の舞台映像

ホフマンが嫌った理由は、「彼の演出はもっぱら指図で、演出意図がわからなかった」こと。
具体的には「左手を伸ばして、そのアリアの前半が終ったら、ゆっくり戻して、右腕を伸ばしてください」といった調子の指示のみで、はじめは「冗談」かと思ったそうです。歌手としては、操り人形のような動作をしながら、それを個性で満たしつつ、歌うなどと言うのは出来ない相談だと言うわけです。何であれ理由もわからずにただ黙って命令通りに動けというのは、全然納得できず協力する気にならないというわけです。

演出家は「身振り語彙と神の救済に対する敬虔な感謝の念の素朴な表現として南ドイツ地域に今日まで生きている奉献画の比喩的な言葉を使用する」のだから、彼の「身振り語彙」によって、舞台を「絵」にしたいということらしいです。しかし、歌手としては、「絵であるべきなら、どうやって歌うのか?」となります。

かつて、学校で、クリスマスにタブローと言って、キリスト誕生の馬小屋を再現するお芝居をやりましたが、これは静止劇というか、全然動きもしなければ、もちろんしゃべらず、歌わず。まさに人間の身体を使った絵でした。

ホフマンは、専属契約中で、指定された役をそんなに簡単には拒否することはできなかったので、直近の全然人気のない五つのレパートリー公演と引換えにこの「魔弾の射手」のプレミエをやっとのことで歌わずに済ませたのだそうです。とにかく、同意していないということを劇場に示したかったわけです。その後、演出には反対でもちゃんとやろうという気になって、二日目以降は出演。怒りを観客にぶつけるのは正しくないことにきまっているから、いちいち茶化したくなるような所作も含めて、まじめにやったのでした。

この演出、1983年のおそらく再演時のものが映像化されていて、こういう話を知らないとき、私もテレビで観ました。人形劇仕立てだなと思ったものです。ホフマン自身もこの演出を成功だと思った人も多いと言っていますが、確かに、色彩的にも美しいし、なんというか素朴な感じのする舞台です。

ペーター・ホフマンがこの演出に非常に抵抗があったのは:
演出家は「もっぱら指図」し、歌手に「創造させなかった」こと。そして、この演出家の「身振り分類」は「内面から生じたもの」ではなく、さらには「さあ、それを個性で満たしてください」と要求したのは、演技者にちょっと多めに責任を転嫁しているわけで、卑劣で、恥知らずであり、おまけに操り人形的動作をしながら歌うなどとんでもない。とにかく「目立つことだけが目的」の演出としか思えなかったということです。


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コメント 3

TARO

映像化というのはカタリーナ・リゲンツァがアガーテを歌っているものでしょうか?見ていないのですがホフマンが出演してるんでしたか。

アヒム・フライアーの演出は日本公演の「魔笛」をみましたが、それはとても面白かったです。あとベルリンのベルクハウス演出の「セビリャの理髪師」も日本で上演されましたが(スウィトナー指揮)、舞台装置をアヒムが担当していましたね。
by TARO (2005-06-06 23:14) 

ヴァラリン

>演出家は「もっぱら指図」し、歌手に「創造させなかった」こと。そして、この演出家の「身振り分類」は「内面から生じたもの」ではなく・・

ここが重要ですよね。
基本的に、演出自体は何でも有りだと思っていますし、奇妙キテレツな演出でも、歌手の表現がこちらに伝わってくるような様式感を持って、ピシッと動きが決まれば、別に設定はどうだっていい・・と思います。演出を生かすも殺すも、歌手次第・・でしょう。

気持ちの高揚感を表現する為の手段が『演技や歌の表現』であり、それは指示されて表現されるべきものではないと思います。解釈上の問題でもあるでしょう。
また、そういう指示でしか表現できないようでは、歌手の方に甘えがあるというか、そこまで役を突き詰めていないということになるでしょうね。

演出家が出すぎて、歌手に必要以上の動きを求め、その為に歌唱がおろそかになる・・という意見もよく目にしますけど、果たしてそうでしょうか?
本当に実力のあるプロの歌手ならば、特に現代の先端舞台では折込済みなのではないかしら?

『内面からの感情の高まりもなく、楽譜の通りに歌った、演出家の指示通りに動いた』だけでは、聴衆の感動は得られないでしょう。少なくとも私は、そういう歌手の演技歌唱では、満足できないと思います。そういうのは、何となく嗅覚が働くというか・・『あ、これはちょっと私には合わないみたい』と、感じますもの。

この演出、そういえば途中までしか見ていなかったのは、何となくそういう『生気のなさ』を感じ取ったのかもしれません(^^;
ホフマンのような、表現に重きを置いている歌手にとっては、こううい演出家との仕事が最もやりにくかった・・というのは、何となく理解できる気がします。

長々と失礼しましたm(__)m
by ヴァラリン (2005-06-06 23:14) 

euridice

TAROさん
>カタリーナ・リゲンツァがアガーテ
ですが、マックスは、残念ながら、ホフマンではなくて、トニ・クレーマーという人(写真)です。ホフマンは専属契約中(1975-1980)に新演出で出演したのでしょう。映像は1983年ですから、後の再演時のものでしょう。

>Achim Freyer
へぇ.......日本でもおなじみの演出家(舞台装置家)さんなんですね。

ヴァラリンさん
たくさんコメントありがとうございます^^
そうですね。とにかく共に創り上げるというやり方を好む歌手だということじゃないかしら。
by euridice (2005-06-06 23:50) 

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