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オペラ歌手でロック歌手-1 [2003年刊伝記]

オペラ歌手でロック歌手に、矛盾なし ・・・1

 「オペラに対する情熱にもかかわらず、ロックミュージックを全く忘れたわけではなかった。なんと言っても、私はこの音楽と共に育ったのだし、バンドで歌っていたこともあったのだ。私は、いわゆるクラシック音楽(ersten Musik)を専門職とする者が、ポピュラー音楽(娯楽音楽Unterhaltungs-Musik)を楽しむのはよくないという考えは持っていない。この逆も同様である。ポピュラー音楽の大物をオペラハウスで見かけることもよくある。例えば、ニューヨークのワルキューレの公演で、アニー・レノックスに出会った。ロックミュージシャンで、クラシック・ファンであることを『公表』している人も大勢いる。ミック・ジャガーもそのひとりだ。あるパーティーで彼と一緒になったとき、新聞記者とテレビ関係者が私たちのところに殺到した。私は、ミックを、翌日の私の『パルジファル』に誘ったが、『パルジファル』は、オペラの中では、あんまり好きじゃないと言うことだった。テレビを見る人は、ミック・ジャガーのような人物はオペラに興味をもつなんてことはあるはずがないと、信じている。ところが、彼はそのあとも続けてこう言ったものだ。読書もとても好きだし、モーツァルトのオペラを見るのも好きだよ。
 ビートルズやストーンズその他の良質のロックミュージックやポップミュージックと共に成長した、私と同世代の多くのオペラファンは、オペラ以外の音楽も高く評価している。私はかなり前から、ロックミュージックを再開することを本気で考えていたが、仕事に追われて計画を進める時間はなかった。そんなある日のことだ。当時CBSソニーの制作マネージャーで、後にソニーの社長になった友人のヨッヘン・ロイシュナーが、弟と一緒になんとこのことについて話すために、赤ワインを一本持って夜遅くに訪ねてきた。ヨッヘンが私の目下の予定を聞くので、弟のフリッツが、またすぐオペラハウスからオペラハウスへの移動になるが、今は一時的にニューヨークに滞在しているのだと、説明した。ヨッヘンは身を乗り出して、『ペーターは、ずっと前のことにしても、ビートルズその他のロックミュージックをやっていたわけだから、適性があるにちがいない・・・』と言った。その後、ニューヨークから家に戻ってみると、机の上に正式な企画書が置いてあった。ロックのレコードをつくりたいという気持ちになったが、例えばチャートに載るというようなだいそれたことは期待していなかった。とにかく楽しかった。ベルリン・ドイツ・オペラ・オーケストラのメンバーとロックミュージシャンたちと録音している間に、音楽はどんどん力強くボリュームいっぱいになっていった。怪物『ロック・クラシック』が生まれた。」

momo10rck.jpg「ロック・クラシック」は1982年に発売された。レコード録音とミキシングが済んでから、ペーター・ホフマンは、弟のフリッツとヨッヘン・ロイシュナー、それからもう一人の友人とスイスの山小屋で、1週間のハイキング休暇を過ごした。豪華なホテルもインタビューも対談もない代わりに、ただただ生きる喜びがあった。4人の男たちは毎日強行軍して、夕方には完璧に疲れ果てて自分たちの山小屋に戻り、主にチーズホンデュと乾燥牛肉と新鮮な牛乳と赤ワインで栄養補給して、自然を満喫した。「ロック・クラシック」の発売日にはじめて、スイス山岳地帯の隔絶された世界に再び「文明社会」からの連絡が入ってきた。ペーター・ホフマンの話では、だれ一人として、その週のその日には、その後に起こったようなことは夢想だにしていなかった。まずヨッヘン・ロイシュナーが、大いに期待したからではなく、むしろ仕事上義務的に、CBSに電話をかけた。「ホフマンの『ロック・クラシック』、確か今日が発売日だが、どんな具合ですか。スイス滞在中に、2、3枚かそこらなら、我々が売るから、すぐ送ってくれませんか」彼は答えを待っていたが、青ざめて、黙って受話器を置いた。しばらくしてからやっと彼は口を開いた。「信じられないよ。今日、間違いなく2000枚売れたなんて。たった1日でだぞ。クラシック・レコードだったら、最終的にそれだけ売れれば多いほうだ。」翌日には、4500枚だった。さらにその翌日には二倍近かった。数日後には、売り上げは、ヨッヘン・ロイシュナーがうれしさのあまり躍り上がって「村へ繰り出して、赤ワインで乾杯だ。数日で31000枚も売れたんだ」と、叫ぶほどのすごい枚数になった。この分野ではプロのヨッヘン・ロイシュナーにとっては、思いがけない予想外の成功だった。ペーター・ホフマンのほうは全く無感動にヨッヘン・ロイシュナーを見やって質問した。「それって多いのか」それに対して、ヨッヘン・ロイシュナーは信じられないといった様子で頭を振りながら答えた。「じゃ、何だって言うんだ。多いかどうか、聞いてみろよ。お若いの、君は、我々が合計3万枚の売り上げで、もうお祭気分で祝っていることを知らないんだ。それが数日の売り上げなんだよ」

 スイスから戻って、三日目、フランクフルトから、もうすぐ「ゴールド」だという報告が届いた。その二日後、金ぴかのレコードに相応しいお祝いを催した。その後も祝賀パーティーの機会がさらに続いた。国外での売れ行きによって「ゴールド」の上にさらに「プラチナ」が続き、その後は、「ダブル・プラチナ」だった・・・売り上げ枚数はほとんど200万枚に達した。「ロック・クラシック」は、13週間続けて、売り上げチャート第1位だった。こんなことはだれも計算していなかった。制作者も共演者もこの企画に特別の期待を持ってとりかかったわけではなかったし、販売戦略を練り上げ、展開したわけでもなかった。全員の一致した意見は「楽しいことだから、とにかくやってみよう。1万枚は売りたいものだが、それだけ売れたらすばらしい」 というものだった。  この成功は1年以上続いた。ロックやポップスのレコードはふつう1年もたたないうちに終わってしまうことが多いのだが、「ロック・クラシック」は、20年後の今も、1年におよそ3000枚が売れている。
 このアルバムが「プラチナ」を獲得したとき、フリッツ・ホフマンは、関係者一同と友人たちを招いて、フランクフルト芸術家地下酒場の奇妙な丸天井の一室で、大パーティーを催した。大勢の芸術家仲間も招待した。約半分は、秘書から音響技術者にいたるCBSの社員だったが、全部で250人が集まった。巨大な音楽設備を背にディスク・ジョッキーが力一杯しゃべっていた。それに、種々雑多な人々が雑然と寄り集まった会場は、色とりどりで、はちきれそうな雰囲気だった。CBSの社員には、ペーター・ホフマンとフリッツ・ホフマンからのプレゼントとして「ペーター・ホフマン、ロック・クラシック、プラチナ、CBS」と書かれた銀色のステッカーを巻き付けたスパークリング・ワインが贈られた。
 その晩は、エージェントのマレク・リーバーベルクも出席していて、ただちにペーター・ホフマンの演奏旅行に関する取り決めがなされたが、オペラの舞台契約が多数あったため、この計画は1984年の春にはじめて実現することになった。1983年に、ペーター・ホフマンはこのアルバムに対して、その年の「ゴールデン・ヨーロッパ賞」、ラジオ・ルクセンブルグから「名誉獅子賞」、クラッシクとポップス両方における優れた歌手に贈られる「ゴールデン・バンビ賞」を受賞した。
 そのタイトルが示しているように、「ロック・クラシック」には、1960年代と70年代にヒットしたレコードの曲が並んでいた。それらは当時14歳から40歳の間の年齢のほとんどの人が無意識にメロディーを口笛で吹くことができるような曲だった。ペーター・ホフマンの「大声」に加えて、大半がオーケストラ伴奏をつけられた歌の、伝統的な装いのメロディーが新鮮だった。確かにその間をぬって時折、エレキギターやシンセサイザーやドラムの音がガチャガチャと聞こえてくるのだが、全体的な響き、特に序奏部分はクラッシク・ファンに合わせてつくられていた。「セイリング」の序奏を聴くと、追っ手から逃れ、最後の力をふりしぼって、やっとのことでフンディングの家に逃げ込む、ペーター・ホフマンのジークムントの姿を無意識に思い浮かべてしまう。歌唱に関しては、多くのポップス評論家が、ペーター・ホフマンには、ロックシンガーに絶対不可欠な「崩れた雰囲気」や、「下腹部から生じる」「下品な」響きと音色が欠けていると、繰り返し非難した。ペーター・ホフマンはまさに「しわがれた」声を持ち合わせていなかったというのは、もちろん間違いではない。これは、彼の「セイリング」における歌唱を、オリジナルであるロッド・スチュワートの「ごわごわした」感じの歌と比べれば、すぐにわかる。かといって、「オペラのよう」には全然きこえない。むしろ、歌の性格に合わせて、声のボリュームを落としている。それに、部分的には、非常に低い音域で歌っている。ただし、その他の点では、およそロックやポップスを歌うべき方法ではない。我々は、まさに1980年代に、声の生理的な限界内で感動するのではなく、電気的な手段によって支えられて低く力強く響く声をたくさん聞くことができるようになった。非常に美しいと思われたビー・ジーズの裏声も、おそらく1982年にはもうそんなに注目されなかったのではないだろうか。評論家の非難にもかかわらず、1982年「ロック・クラシック」は市場の隙間を満たしただけでなく、時代精神をも的確にとらえていた。これ以外にこのアルバムの信じ難い成功の説明がつかない。当時を覚えている人なら、あのレコードを買ったのが、30歳以上の改宗オペラ・ファンだけではなかったことを知っているはずだ。クラシック音楽に慣れ親しんでいる聴き手は、最初の歌『朝日のあたる家』の導入部ではまだうきうきした気分で、ワーグナー的な音の中にポップスのメロディーを期待して楽しめるかもしれないが、その後に続く、雷雨のようなエレキ・ギターによって、耳ががんがんすることになる。ディスコに詳しいティーンエージャーもまた、『ロック・クラシック』をレコード・プレーヤーに載せるか、徐々に普及しつつあった次世代ウォークマンにカセットを入れて、ボタンを押した。オペラのテノールがロックミュージックを一体どのように歌うのかという好奇心がひとつの動機だろうが、唯一好奇心だけがこの現象を生んだとは思えない。1982年のチャートが映し出しているドイツの音楽状況を観察すると、ペーター・ホフマン・サウンドが完全に比類のないものであり、なぜか突出していたことが明らかになる。当時のドイツ人はペーター・ホフマンのほかには何をきいていたのだろうか。1982 年は、ニコルが『少しの平和』でシュラガー・グランプリその他の賞を勝ち取った年だった。ローランド・カイザーがすぐあとに続いていた。ゴットリーブ・ヴェンデハルスは、ドイツ人の楽しみを担当していたわけだが、フランク・ツァンダーが歌った歌で、『そう、私たちがみんな天使なら』にかわってヒット・チャート入りした『ぴかぴかのポロネーズ』は、ドイツの歴史に残る「アヒル・ダンス」だった。ポップスの分野では、アバが新曲の最新アルバムを発表したが、その結果、グループは解散してしまった。その前にすでに、ボニー・エムがチャートから消えたことが、それ以前の10年間支配的だった陽気だが単調なディスコ・ミュージックの終わりを告げていた。人々はその後も踊っていたが、基本的に、技巧的で冷淡な印象を与える純粋な合成音の響きをことさらに追求するようになっていた。当時すでに一般的に「新しいドイツの波」と呼ばれていた現象が、その年にはまさにひたひたと押し寄せる波のようにドイツ全体を覆いつつあった。すなわち『アクセルを踏んで、楽しもう』とか『ダ、ダ、ダ』のような、スピードのある攻撃的なリズム、刺激的で、時には不自然で、時には皮肉っぽい、単純というか無意味な歌詞の音楽である。だから、スパイダー・マーフィー・ギャングの『甘い生活』もこの年に成功したレコードだった。その中の『封鎖地区のスキャンダル』という歌はすでにシングルで、決定的なヒットになっていた。徹底的にドイツ語の歌詞を追求しようと努力して、ケルン方言で歌ったグループ、BAPや、シュラガーからロックへ転向したペーター・マッファイが、ヒット・チャートを征服した。
 『ロック・クラシック』が成功した理由は、合成音の響きやディスコで踊る人々や「新しいドイツの波」の小生意気な音が嫌いな人たちがロックとポップスの響きに浸りつつ静かに楽しみたいという音楽的欲求に応えたということだったのは間違いない。また、同時に豊かでロマンチックな音が、このレコードから空間に広がって聞こえることだ。1980年代のポップスは合成音が効果的につかわれ、時には非人間的な感じがしたのも確かだが、常に緊張感あふれるものだった。反響の多い電気的な音響効果と歌が、オーケストラにも劣らない強烈なサウンドを生みだした。オーケストラの響きは、生でも合成音でも、1970年代からすでにポピュラー音楽で聴かれた。1980年には、ペーター・ホフマンも非常に高く評価しているピンク・フロイドが、そのアルバム『ザ・ウォール』によって、17週の間、ドイツのレコード・チャートにのっていた。元ビートルズのポール・マッカートニーのアルバム『タグ・オブ・ウォー』のタイトルソングでもオーケストラの響きを聴くことができる。ロイヤル・フィルハーモニー・オーケストラは、アルバム『クラシック・ディスコ』で、クラシックのオーケストラ・サウンドとポップ・ミュージックの結合を試みた。だから『ロック・クラシック』の音楽は、この点では、突出した現象ではなかった。それにもかかわらず特別の地位を獲得したのは、ひとえにその演奏ゆえだったと言える。このレコードでは、大音響のロックが鳴り響くが、ぜいたくな技術的サポートを必要としない声で歌われるホフマンの歌は実に美しい。このロック・レコードの成功で、彼の人気は爆発的に高まった。それとともに、まさにマスメディアそのものへの登場、すなわちテレビ出演が増えた。ホフマンはこの時から、もともと彼に興味をもっていたオペラ・ファンやクラシック・ファンだけではなく、幅広い人々に「知られる」ことになった。『ロック・クラシック』の発売と同じ年、オペラとロックの歌手として、「ホフマンの夢」と題した番組に出演する機会を得た。オペラやミュージカル、そしてポピュラーの曲目が次々と唐突に登場するという構成は、当時としては普通ではなかった。
 1980年代において、テレビというメディアは、まさに娯楽音楽の分野で重要な地位を占めていたから、ペーター・ホフマンがポピュラー歌手としてこの番組に出たことはまさに時代の流れに乗ったものであることは明らかである。しかし、同時に、ポピュラーとクラシックの結合に関して、先駆的仕事を成し遂げたとも言える。

8331.jpg 「テレビの『ホフマンの夢』という番組では、クラシック音楽とポピュラー音楽を一緒に歌った。台本は自分で書いた。自分の考えを実行に移す機会を得ることができてうれしかった。ペーター・アレクサンダーの多種多様な番組から、スポーツスタジオまで、多くのテレビ出演を通して、至るところに顔を出し、重要なテレビ関係者たちと知り合うことができたことが、私自身のショーを可能にした。のちに妻になるデボラ・サッソンは、このショーでは、ゲスト役で、デュエットの相手を務めた。プッチーニ作曲の『トスカ』のアリアや、バーンスタイン作曲の『マリア』から、『太陽はもう輝かない』まで、幅広く多彩に歌うことができた。オペラ、ミュージカル、ポピュラー音楽によるコントラストのきわだったすばらしいプログラムが夢と現実が交錯する愛の物語にちりばめられていた。これが、ショーを牽引する一貫した主題だった。こういう種類のショーはまったくもって好ましくないと思われたから、もちろん、批判も多かった。しかし、人は伝統的なものだけでは満足できず、必ず別の新しいものが後継者として登場する。突然何かどんな基準にも当てはまらない新しい、創造的なことをせずにはいられないものだ。私に来た手紙の山が証明していることだが、多くの人々は私のやり方に賛成してくれた。wagnervhs.jpgその少し前に撮り終えていたもうひとつのテレビ番組は、1984 年に放送された、トニー・パルマー監督、リチャード・バートン主演、コジマ役がヴァネッサ・レッドグレーブの連続テレビ映画『リヒャルト・ワーグナー』で、私はワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の最初のトリスタン歌手、シュノール・フォン・カロルスフェルトを演じた。立派な俳優たちのそばで仕事ができるなんて、とにかくわくわくした。何もかもがすばらしかった。セットも衣装も物語の時代に合った様式で、本当にその時代に戻ったように感じられた。それに、リチャード・バートンだ。私の人生において多分二度とないことだろうが、リチャード・バートンがこんなに近くにいて、ワーグナーとしての彼を抱擁したとき、一瞬、実際はリチャード・バートンだということを忘れたような感じだった。彼の演技はとにかくそれほど説得力があった。私は、シュノールの『大きさ』を実現するためにお腹に分厚いクッションを結び付けられて、黒い髪のかつらとひげなどという余計なものを付けられたので、ちょっと見たら、ほとんど私だとは分からなくなった。弟のフリッツは、私が演じたシュノールの執事役をやった。リチャード・バートンは、個性的で、彼の低いがらがら声と物凄いウィスキーの消費量が印象的だった。ほとんどすべてのウェールズ人同様、リチャード・バートンも音楽が大好きだったが、約半年もあった長い撮影期間のあとには、ワーグナーが大嫌いになったそうだ。とにかくうんざりしてしまったのだ。私のほうは彼との短い撮影期間中、わくわくしっぱなしで、ほんとうにリヒャルト・ワーグナーと話したり、仕事をしたりしているような気分だった。バートンは私の歌と俳優としての才能について、お世辞を言ってくれたが、私の専門的な助言も求めた。ある日、ある場面の演技についてあれこれ思い悩んだあげく、私にその問題を話した。『指揮をしなければならいのだが、できないのだ。グランドピアノの前に座って、自分の「トリスタン」を初めて聴いて、指揮をするわけだが、全くどうしていいかわからないのだ』私はその場面を思い浮かべて、考えを述べた。『はじめてトリスタンの音楽を聴いた時、ワーグナーは魅了されて、すぐに指揮しようと手をあげたでしょうけど、そういうちょっとした暗示的な動きをしただけで、魅せられたように歌手の声に耳を傾けていたのではないでしょうか』彼は感激してほっとしたように『そうだ。私のやるべきことが、今、わかった。ペーターのお陰だ』と言った。
 映画のセットでの仕事は、今までオペラの世界で慣れていたのとは、もちろん全く違っていたが、はるかに気楽だった。撮影中はたいていまわりに人垣が出来ていた。私たちが歌のけいこをするシーンを撮る場合、とにかく少しずつ変化させていかなければならなかった。私はヴォカリーゼのあと、トリスタンを数小節歌ったり、そのままエルヴィスに移行したりした。とてもおもしろかった。シュノールの扮装をした私は高らかに響き渡る声を出す必要はなかった。シュノール夫人のマルヴィーナを演じ、イゾルデを歌ったギネス・ジョーンズも、大いに楽しんでいた。」

8388.jpg オペラの舞台に関しても、1982年は頂点だった。いわゆる「百年記念パルジファル」のタイトルロールを演じた。これはバイロイト音楽祭開催百年祭記念の「舞台祝祭劇」で、ゲッツ・フリードリヒ演出、ジェームズ・レヴァイン指揮で、上演された。ペーター・ホフマンにとっては、ゲッツ・フリードリヒとのパルジファルは、1976年のシュッツットガルトでの演出のとき以来で、今回は、愚か者のパルジファルと最後の幕での成長したパルジファルとの対比が以前にまして強調されていた。この演出と以前の演出に対する批評には、「若い」「生き生きした」「若々しい」ということばが、繰返し、出てくる。ということは、この「若々しさ」は、金髪の、体格のよい、巻き毛の若者が、舞台に登場するやいなや、自動的に生じたものではなく、むしろ自分の役に対する歌手の徹底的な取り組みの結果生まれたと考えるべきだ。この結果が、いかに評論家と観客を納得させたか、「南ドイツ新聞」のヨアヒム・カイザーの記事を見てみよう。

 「一幕と二幕における主役に対するゲッツ・フリードリヒの演技指導はみごとだった。ペーター・ホフマンは、フリードリヒの演出によって、魅力的で、若く、生き生きとしたパルジファルであるばかりでなく、まったくの「愚か者」であるにもかかわらず、高貴で気性の激しい、宿命を背負った若者に見えた。すなわち、一言でいえば、理想のパルジファルである」

 1980年代において、どれだけ多くの人が、ペーター・ホフマンをパルジファル役と同一視していたかを、ローズマリー・クリーアは1985年に出版された「パルジファル、救済者を救済するとは」と題する本において、機知に富んだやり方で示している。この本の中で、ローズマリー・クリーアはワーグナーの「舞台祝祭劇」の世界における男性優位を批判的かつユーモラスに扱っている。この本の中で、クリングゾールとパルジファルの戦いの場面は、次のように記述されている。

 「表面的に見れば、毎回のパルジファル上演において、この場面はまさにもっともはらはらどきどきする瞬間である。クリングゾールが、パルジファルに向けて、槍を力いっぱい投げつけるとき、観客は、技術的にうまくいかなくて、槍がどかこへ飛んでいって見えなくなってしまうか、こんどこそペーター・ホフマンがスポーツ選手としては絶好調ではなくて、飛んできた槍を捕らえ損ねるのではないかとかたずをのんで見守っていた」

 ところで、1982 年のバイロイトの夏、ホフマンは、『パルジファル』の仕事に没頭したが、「外界」に一歩出たとたん、今までの音楽祭とは全く違う新たな雰囲気に直面させられることになった。

 「『ロック・クラシック』の成功が、バイロイトまで追いかけてきた。それまではオペラなどというもののことは全く念頭になく、ワーグナーのオペラの一場面にさえ耳を傾けたこともなかった人々が突然、リヒャルト・ワーグナーに興味を持ったのだ。この騒ぎはヴォルフガング・ワーグナーをも少なからず巻込んだが、彼はとても好意的にとらえていた。例えば、彼の秘書が話したところによると、彼女の娘が『ロック・クラシック』がすごく気にいって、ペーター・ホフマンのロック・コンサートに行くのが大好きになったということだ。実のところ、彼女の娘どころか、あとで白状したことだが、彼女自身もまた大喜びでその場に居合わせたのだった。
 私自身も多少の変化は避けられなかった。午後3時前には祝祭劇場にいなければならなかったが、そのころには、午後2時には到着するようにした。そうしなければ、大勢の人垣を車で通り抜けることができないに決まっていた。そこにはレコードのジャケットを手にした200人もの人々が、サインを求めて、集まっていることがよくあった。そういうとき、私は『サインしながら』楽屋の入口まで進んだものだ。公演のあともまた同じようだった。同僚たちがとっくに食卓についてオードブルを楽しんでいるのに、私はそのあと1時間もサインをし続けていた。これは、多くのファンが音楽祭のチケットを持たずに、ただ私に会って、サインをもらい、もしかしたら一言、二言私と言葉を交わせるかもしれないという目的だけで、遠方からやってきている証拠だった。歌手としてその能力を提供するだけで、祝祭劇場の外のことにはほとんど無関心な同僚たちにとって、こんな状況は決して気持ちのよいことではなかった。そこにねたみの気持ちが生じるのも、全くもって当然のことだ。
 大勢のファンを置き去りにして、レストランの同僚たちのところに現れることに成功した場合は、ビールと素敵な食事を楽しんだ。数時間もの公演のあとでは、実際兵糧攻めにあっていたようなもので、徹底的にすきっ腹だったし、ローエングリンのときもパルジファルのときも、睡眠不足だったし、気分転換するためには、更に、同僚との気楽なおしゃべりも必要だった。バイロイト音楽祭の期間中、このレストランのメニューはマイスタージンガー・シチューとか、パルジファルのフランス風シチューとか、クリングゾール・カツといった具合に、全部ワーグナーの作品にちなんだものになっている。このレストランのオーナーは、タブーという感覚を持ち合わせておらず、その想像力の前には国境など存在しなかった。多くのファンがそうだったわけではないが、私がたまには静かに食事をしたいのだということを、なかなか理解しないファンもいた。だから、私の食事がやっとテーブルに置かれたときでさえ、感じのよい紳士が微笑みながら、私の皿とトリスタン・ステーキを一切れ突き刺したフォークの間に、突然プログラムの冊子を突き出して、『ホフマンさん、お邪魔でしょうか。みなさん、すばらしかったです。サインをお願いします』と言ったりするのだった。開けた口の直前で、一口の肉は皿に逆戻りというわけだ。私も彼同様に努めて感じ良く、『いいえ、もちろん邪魔だなんてことはありませんが、今はとにかく何か食べさせていただきたいものです。気にいっていただけてうれしいです』と答えた。彼はサインを獲得し、私はあまりにも大勢の人が彼のまねをするようにならないことを願った。さっき口に入り損ねた一口のトリスタン・ステーキはやっと二度目のチャンスを得た。誤解のないように言うと、私は、ファンが好きだし、ファンを失いたくはない。ただ時には私の身にもなって、一人になりたいときもあるのだということを理解してほしいと思う。

 この年のもうひとつのクライマックスはサンフランシスコでの『ローエングリン』だった。これは、ほんとうに、特別に上出来の上演で、心から誇りに思っている。この『ローエングリン』はラジオで中継放送され、幸運なことにその録音が私の手元にある。
 私は次第に世界中の大オペラ・ハウスとなじみになっていって、前の年にはミラノのスカラ座に『ローエングリン』でデビューしたし、この年には、同じ役でパリでも歌ったが、今度はモスクワのボリショイ劇場の番が来た。ハンブルク国立歌劇場のメンバーと一緒に、これもまた『ローエングリン』で客演した。これはこのオペラのモスクワ初演だった。練習が始まるときに、ちょっとした事件があった。いつものように普段着を着て劇場に行ったところ、舞台入口の守衛に何かうさんくさい奴と思われたようだった。ジーンズと革ジャンのぼさぼさの長い金髪の若い男が入ろうとしているが、こいつは入れるべきではない。というわけで、守衛は私の立ち入りを拒否したが、私が行きたいところはどこか知りたがっているようだった。私はペーター・ホフマンという名前で、ここでローエングリンを歌う予定なのだと守衛にわからせようと頑張った。残念ながら、意志の疎通は困難なことが明白だった。守衛は、ここで歌うべき男がそんな物を身につけているとは想像もできないという様子で、何度も私の革ジャンを指さした。やっと苦境を切り抜ける方法を思いついた。私は大声で少し歌って、守衛を納得させた。
 この客演が成功のうちに終わったばかりで、まだモスクワに滞在中のとき、チューリッヒから、『ホフマンさん、お願いがあります。明日、こちらでローエングリンを歌ってもらえませんか』という緊急出演依頼の電話が入った。もちろん歌うことができた。チューリッヒならいつでも喜んで歌いたかった。そこの同僚たちもオペラに造詣の深い観客もとても好きだったが、困ったことにひとつだけ問題があった。モスクワからの飛行機の変更だ。当時のソビエト連邦の方針では、そういうことはきちんと決められていて変更は難しい。実際のところ、ボリショイ劇場で重要な地位を占めていた人が、チューリッヒに向けて飛ぶことができるように特別に尽力してくれたおかげで、すべてうまくいった。翌日の午後、かろうじてなんとか間に合う時間にチューリッヒに到着した。みんなすでにひどく興奮していた。彼らは『やれやれ、助かりました。ほんとに、お待ちしていました。急いで、急いでください。全て準備してあります』などと私に向って叫んだ。私は、『あわてないでください』と熱心な舞台助手を押しとどめた。『ゆっくりしても同じですよ。舞台に行く前に、まずシャワーを浴びなくては』と言うと、『とんでもないです。観客はもう入っているんですよ』と、ぎょっとした感じの答えが返ってきた。私は、『それでは、ちょっとだけ待たせておいていくださいませんか。なんとかしてください。私はまずシャワーを浴びますから』と言って、譲らなかった。前の夜はほとんど眠っていなかったので、舞台に出る前に、少しの時間、せめてシャワーでも浴びて、気分をさわやかにしないではいられなかった。その後、私は舞台へ急ぎ、ベストを尽くした」
 この時の『ローエングリン』に対する観客の熱狂ときわめて肯定的批評という結果は、このような困難な状況においてもやり遂げるというペーター・ホフマンの強いプロ意識を示している。

pic83-64-66.jpg 1983年2月13日、ヴェネチアのフェニーチェ座で、リヒャルト・ワーグナーの没後百年にちなんだ『パルジファル』が上演され、ペーター・ホフマンは、タイトルロールとして契約していた。この公演は特別な雰囲気のうちに開催された。ワーグナーが愛したヴェネチアは、厳かな気分が支配的だった。ちょうどカーニバルで、客席は、カーニバル用の扮装のみごとな衣装の観客でいっぱいだった。この時の演出は、特に印象的な体験としてペーター・ホフマンの記憶に焼き付いているが、その理由はその絵画的強烈さのためだけではない。二幕のクリングゾールのエロチックな魔法の庭で、ホフマンは、まるでクリングゾールの大きなマントから出てきたように見える裸の若者たちと戦わなければならなかった。シェローの下における極度に肉体を酷使する仕事以来、かなり慣れていたにもかかわらず、訓練を積んだスポーツマンの彼も、この場面では相当汗をかいた。舞台上に裸体を出すことは、当時、演劇においてはすでに広く行われていたが、オペラの舞台ではまだ何か大胆できわどいことと見なされていた。それでも、クリングゾールの手下たちだけが、唯一『衣装なし』で登場したわけではなかった。ペーター・ホフマンはあまりにもたくさんの裸に直面して、なんだか落ち着かなかった。裸の花の乙女たちに取り囲まれ、しつこく迫られている歌手の写真が、新聞に載った。ちなみに、相手役はゲイル・ギルモアで、非常に魅力的なクンドリーとして、彼の記憶に残っているということだ。
phrwagner.jpg その後まもなくして、イヴァン・フィッシャー指揮でシュツットガルト放送交響楽団と『ペーター・ホフマン、リヒャルト・ワーグナーを歌う』のレコード録音をした。このレコードでは、舞台で歌っていない『ジークフリート』と『タンホイザー』からの抜粋も聴ける。この録音はクラシックのレコードとしては今日にいたるまで例外的によく売れている。

 オペラの舞台上とテレビ番組の中以外の世界に関して言うと、彼は、私生活を世間に知られずにやっていくことが、そのころにはひどく困難になっていることを、たびたび意識させられていた。

heiraten.jpg 「8月に、まだバイロイト音楽祭の期間中だったが、アメリカ人歌手のデボラ・サッソンとの結婚が、マスコミ、特に大衆紙で、センセーショナルに取上げられた。最初の妻アンネとは、もう以前に、静かに、合意の上で離婚していた。アンネとは職業上の理由による別居のせいで、離ればなれの生活が長かった。彼女は、子どもたちの世話に没頭したいという理由で、めったに客演に同行しなかった。それから、そのあとは、彼女も、女優として、また、歌手として芸術家の道を歩んでいた。私たちは今も定期的に連絡をとっており、以前と変わらず、よく理解しあっている。
 結婚がこれほどの騒ぎを引き起こせるとは、この時まで想像できなかった。それは『今年の結婚』として、ゴシップ報道のあらゆるジャーナリズムを通過していった。私たちは一緒にテレビ番組に招待され、私たちの生活はもはや、およそ公開でしか行えないといった具合だった。私たちの家の前には、巨大な望遠レンズを持ったリポーターが立っていた。時には車の屋根の上に立っていることさえあった。私たちは高いフェンスや生け垣で、やっとのことでほんの少しのプライバシーを守ることしかできなかった。
 あまりにも集中的に公共の興味の対象にされた場合、不愉快な現象が伴うことは避けがたい。つまり、脚光の別の側面である。この夏、一人の恐喝者が騒ぎを引き起こした。
 毎日届く大量の郵便を開けていたフリッツが百万マルクを要求した手紙を見つけた。要求に応じなければ、二度と歌えないようしてやる。警察に知らせたら、後悔することになるから、注意するようにとあった。その手紙は、タイプライターで書かれていて、中央局で投函されていた。もっともなことだが、フリッツは当然ショックを受けた。どうするべきか。私は音楽祭の期間中で、常に大勢の人々に取り囲まれていて、相当の危険にさらされていた。私に知らせる前に、弟は警察に行った。用心のため、所轄の警察でもなく、バイロイトでもなく、数キロ以上離れたヴァイデンへ行った。警察はこのことをきわめて重大に受け止めた。手紙はただちに連邦犯罪局へ調査のために送られた。私たちとしては、さしあたり十分に注意する必要があったが、これといった動きはなかった。その後、『あなたは間違ったことをした。警察に行くなとはっきりと警告した。その結果に関しては、あなた自身に責任がある』と書かれた二度目の手紙が届いた。恐喝者はどこから警察へ行ったことを知ったのだろうか。だれかが絶えず私たちを見張っていたのだろうか。ここで、フリッツも私と家族みんなに知らせないわけにはいかなかった。けれども、すでに、私たちを守る手段は整えられていた。二通目の手紙も当然警察に届け、その結果、警備員が派遣された。更に拳銃携帯許可を申請することになった。以来、常にピストルを携帯した上、祝祭劇場へ行くときには、常に道順を変更するように要請された。絶え間なく私を見張っていて、何とかして危害を加えることしか考えていないかもしれないようなだれかが、その辺にいると思うだけで不安な気分だった。続いて、いつ、どこで現金を手渡すかを正確に指示した手紙が届いた。警察の保護のもとで、すべての要求に応じるふりをした。見せかけの現金引き渡しによって、恐喝者は逮捕された。彼は実際のところあまりにも単純だった。自身、現金を預けさせたホテルのロビーにいた。警察はこの男がまだ他にも数人の有名人、とりわけハッケタール教授を、恐喝していたことをつかんでいた。更に彼には類似の不法行為の前科があった。警察に届けるなという警告の手紙も、とにかく口からでまかせのめくらめっぽうのやり方だが、いずれにしても、警察に届ければ、だれでも不安になるわけだ。この男は、この後、2、3年刑務所の独房で代償を払わなくてはならぬことになった。
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世界をまわって [2003年刊伝記]

世界をまわって~ローエングリン、フロレスタン、そして、初めてのトリスタン
 1976年のバイロイト初シーズンの成功によって、ペーター・ホフマンのキャリアは決定的なものになった。ジークムント役でも、パルジファル役でも、観客と批評家を納得させ、ジークムント役はその後の客演の中心的な存在になった。
1977年にパリ・オペラ座にこの役でデビューしたほか、至るところでこの役を求められた。シュツットガルト歌劇場との契約履行に加えて、ひっきりなしの客演で、ほとんど一年中ひたすら『ワルキューレ』を歌った。

 運が悪ければ、ペーター・ホフマンのキャリアは早期終了もありえたという事態がおこったのは、バイロイト音楽祭、2年目の舞台に立とうという時だった。バイクでの大事故は彼に9か月の強制休暇をとらせるという結果をもたらした。

 「それは1977年6月11日で、私にとって二回目のバイロイト音楽祭の練習が始まる前日だった。このことは、おそらく一生忘れないだろう。バイクでのひどい事故だったが、私の守護の天使はきわめて注意深かったに違いない。そうでなければ、ひょっとしたら、それが私の最後の日になっていたかもしれなかった。ハノーファーの近くの高速道路駐車場で、一台の警察車両が一方通行を猛スピードで逆走してきた。避けられず、私は数メートル吹き飛ばされた。命は助かったが、重傷を負った。最もひどかったのは左あしの怪我だった。大腿部も下肢も文字どおり粉々だった。あのころいったい何度手術したかわからない。すくなく見積もっても12回以上だ。医者たちが足の切断について話していたときは、ショックだった。それには猛烈に抵抗した。私は生きたいという強い意志を持っていたし、どんなことでも我慢する覚悟があった。しかし、足を手放すのは、嫌だった。そんなことは問題外だった。私は戦った。金属板とボルトをはめ込んでもらい、ほとんど奇跡のような、すばらしい早さで回復して、一年もたたないうちに舞台にたつという快挙を成し遂げた。医者たちはほとんど信じられない様子だった。まだ固定用の添え木と膝を曲げるためのレバー付きの足を支える補助具が必要だったが、1978年2月の終わりに、ロンドンの『魔弾の射手』で、マックスを歌うことができた。私のパリのエージェントは相当数の上演をキャンセルした。保険会社は長期間の支払いを余儀なくされた。私ははやく働きたかった。夏にはバイロイトで再び歌ったが、練習の休みのときに、骨の破片を足から引き抜いた。それは、途方もない苦痛だったが、私の楽観主義も手伝って、下肢の開いたままだった傷口の感染も徐々に治っていった。」

memo30.jpg まだ完治というわけではなかったので、客演は次のことにして、最初のレコード録音を引き受けた。パミーナにキリ・テ・カナワ、夜の女王にエディタ・グルベローヴァ、ザラストロにクルト・モルという、アラン・ロンバール指揮によるモーツァルトの『魔笛』である。その後、続いて、主なものをあげると、ジークムントとしてコヴェント・ガーデンとシュツットガルトにポネル演出で、ローエングリンとして、ハンブルクとミュンヘン、フロレスタンとしてウィーン、パルジファルとしてミラノに出演した。

memo29.jpg バイロイトでは1979年にゲッツ・フリードリヒ演出のローエングリンを歌ったが、これは、このオペラの基準となった演出であり、歌手の個性を完璧に刻印したローエングリン役を可能にした演出であった。

 「聖杯騎士をついに人間的に表現することができた。彼はエルザを不当な告発から守るだけではなく、彼女を愛してもいるのだ。花嫁の部屋でエルザはローエングリンに『問い』を発し、ローエングリンは怒りをあらわにする。そして、聖杯に召還されて、別れを告げなければならないとき、ローエグリンには深い悲しみが見てとれる。」

 圧倒的多数の批評が、ローエングリン役の演技的転換も歌唱的転換も賞賛した。彼の声の叙情性に関してそれまではむしろ懐疑的な態度を示している批評家もあったが、ペーター・ホフマンは聖杯物語を柔らかくカンタービレをきかせた響きで歌い、このような批評家を納得させた。オルフェウス誌は、この役の性格転換を論評して的確にその特徴を描写した。

 「タイトルの英雄役、ペーター・ホフマンが演じたのは、従来通りの天から遣わされた奇跡の人ではなく、男性的な大天使ミカエルだった。彼は、『異質』な人間であるエルザが驚きながら手で触って調べるに任せたあと、彼女ために喜んで戦うだけでなく、彼女を愛して、彼女と結婚して留まろうとするのだ。あっと驚く役づくりということだ。叙情的であると同時に劇的な瞬間のために、スリムで強靱な声を駆使することが、歌手にゆだねられ、彼は、巧みなテクニックに支えられて、説得力をもって演じきったが、それにつけても、プレミエでの多くの批評が、『危険なバリトンの音色』を非難した理由がいまもって不可解である。バリトンの音色こそが、結局のところワーグナー・テノールには、ふさわしいだけでなく、この役においては、ワーグナー・テノールを、無味乾燥な無菌状態からまさに解放するのである。」
memo03.jpg 3年後この「ローエングリン」はテレビ収録されて、ワーグナー没後百年の1983年に放送された。オペラがこんなにもたくさんの視聴者をテレビ画面の前にひきつけたのはめずらしいことだった。同年の4月にペーター・ホフマンはローエングリンの演技に対して「バンビ賞」を受賞した。ホフマンも当然この録画については、特にオペラの公演がテレビ視聴者に異例な大成功のうちに受け入れられたということを、今日にいたるまで誇らしく思っている。
 ペーター・ホフマンは、ごく短期間の間に、特にジークムント、パルジファル、ローエングリンという三人の登場人物と同一視されるようになっていたが、ワーグナーの役しか求められなかったわけでは決してない。ヨーロッパ中で客演したレパートリーにはワーグナーの諸役だけでなく、それとは著しく対照的なものを含まれていた。例えば1979年にはハンブルク国立歌劇場で、リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」で、バッカスを、さらにまた、ファンにはおなじみの「フィデリオ」のフロレスタンを歌った。
 1980年には、合衆国での出演が加わった。ロサンゼルスでの演奏会形式の「ワルキューレ」である。オザワ・セイジ指揮、ジェシー・ノーマンのジークリンデだった。練習のとき、予想外のことがおこった。

 「私はいつものようにジークムントで、ジェシー・ノーマンはジークリンデを歌った。演奏会形式の上演では、普通の舞台上演のような衣装やかつらやメーキャップをする必要はもちろんない。練習のとき、ジークリンデが 『小川に私は自分の姿を移して見た。そしていま、再び私は気づいた。かつて池の面から浮かび出た、私の姿をいまあなたに見る』と歌う場所になったとき、私たちははっと気がついた。たくましく色の黒いジェシーと私は、互いに見つめあって、我慢できず噴き出した。兄妹という感じがするなんて絶対あり得ない。オザワ氏が怪訝そうに私たちを見た。私たちが説明すると、彼も笑ってしまった。ジェシーは、目から涙を流して笑いころげて、なかなかおさまらなかった。その時からが、一苦労だった。この場所に来ると、噴き出さないために、三人とも、互いに見ないようにしたほうがよいということになった、だから、みんな、固い表情で、前方だけをにらんでいた。この場面を冷静に耐え抜くのは、かなりの努力が必要だった。」

 人気と共に、客演の数も増えた。そうした仕事は、いちいち時間的にも運営的にも多大の労力を要するものだ。契約の申し出を調査し、契約に関する交渉をし、日時と移動の計画をたてること等々。歌手にはそういった利害にかかわる事を管理運営するための時間がないし、そんなことより、むしろ可能な限りのベストコンディションで歌うことに集中したいものだ。ペーター・ホフマンの場合、当然こういう仕事は、大手の有名なエージェントがやっていた。だが、職業生活が時間調整に相当に左右される場合、より個人的なマネージャーを望むようにならない人はいないだろう。

 「1980年、弟のフリッツにマネージメントを任せた。彼は自分の仕事を下積みからはじめていた。自分で音楽を学び、英国で語学の勉強を修了し、その後、私の当時のパリのエージェントで、オペラ界の多くの有名な芸術家たちのエージェントを務めていたヒルパート博士のところで2年実地に職業訓練を積んでいた。私にとっては、私が完全に信頼できるだれかが、膨大な仕事の依頼と契約を心得て、いつも私のためだけに働いてくれるのはすばらしいことだったし、フリッツにとっても、私のためにだけ働くのはとても快適だった。私たちはバイロイトでルネ・コロの住まいを譲ってもらって、弟はそこで後方の仕事を管理した。それからすこししてから、25キロ離れたシェーンロイトの田舎に小さな城館を見つけた。それはまさに私の希望にぴったりだった。そこを買って、いろいろ増築したり、改築したりの改修をし、最終的には申し分のない場所になった。フリッツが上の階に住んで、事務所を構えたが、後には、地所内の別棟に移った。だんだんに『ありとあらゆる種類の動物たち』が集まってきた。犬、馬、黒鳥、アヒル、クジャク・・・行方不明になったものもいる」

 フリッツ・ホフマンは兄のためにたゆまず働いた。契約を結び、演奏旅行を準備運営し、旅行中もめったに側を離れなかった。ペーター・ホフマンがこの方法で得た、運営面と人間面にかかわるサポートは、彼のキャリアに欠かせない常に感謝すべき要素になった。

 「最初のアメリカ公演ではマーラーの『大地の歌』を歌うことになった。コンサートの3日前、練習のために到着したが声が出なくなってしまった。おそらく時差の関係だと思うが、途方に暮れた。ドイツを離れる前はとても調子がよかったのだ。風邪もひいていなかったし、体調も問題なかったが、声が出ないのはどうしようもなかった。そういう事情ではないのに、二晩休みなく働き続けたような気分だった。私は、歌いも、話しもしないようにした。ゲネプロの前に『出来ますか』と聞かれて、『もうよくなったと思います』と答えた。ゲネプロはとてもうまくいったので、関係者一同ほっと胸をなでおろし、目前に迫った初日に向けて仕事を進めた。私にとって叙情的な部分に困難はなかったし、幸いにも最初の日も順調だった。その後は、いつも時差が声をいためる可能性があることを考慮して、十分な余裕を持って旅行するようにしている。だから、1980年のローエングリンでのニューヨーク、メトロポリタン歌劇場デビューは、とても感動的な経験で、大成功だった。続いて3月には、はじめてウィーン国立歌劇場でフロレスタンを歌った。ウィーンでのベートーベンの『フィデリオ』は、その後も常にすばらしかった。ウィーンの聴衆はとても専門的だ。これは役に集中して正面から徹底的に取り組み、感情を込めて演奏する歌手にとっては、調子がいい場合には、すばらしい環境である。私はウィーンで歌うのが好きだ。
memo07.jpg その前に、ゲオルグ・ショルティの指揮で『フィデリオ』のレコード録音をした。これは初のデジタル録音だった。ヒルデガルド・ベーレンスがレオノーレ、ハンス・ゾーティンがロッコ、テオ・アダムがドン・ピッツァッロを歌った。オーケストラは160人、コントラバス16台の巨大編成の、すばらしいシカゴ・シンフォニー・オーケストラだった。残念なことに、私はかなり以前から、気管支炎で、相当期間、全快しなかったため、声帯の炎症を抱えたまま歌った。従って、録音も100パーセント満足できるものではなかった。

   レコードの仕事の開始にあたって、歌手はその時々の役に対する考えを言葉で表現すように求められる。この役は後に頻繁に様々な演出で歌ったが、私の考えは変わらなかった。
 私の考えでは、フロレスタンは受動的な英雄だ。彼は行動のあらゆる可能性と、その結果、生きるに値する生活の全てを奪われている。彼には、考える自由だけが残されている。これによって、慰めを見い出せると信じている。飢えと渇きに加えて肉体の衰弱が彼に激しい妄想をもたらす。彼はレオノーレが見えたと思い、失神することによって解放される。
 かろうじて生きているだけで、『影のように漂う』男に対して、休息をとった健康な歌手に全力を出し切ることを要求する、あのようなアリアを作曲するベートーベンは本当に耳が聞こえなかったに違いないと、歌手として、思うことがある。もしくは、あのアリアの終わりに、テノールが本当に疲れ果ててへとへとになれば、つまりそれが、たいていの場合、自分の意図を達成することになると、ベートーベンは思ったのかもしれない。
 生き延びようとする強い意志は、歌手としてにしろ、役者としてにしろ、少なくともどのフロレスタンにとっても最大の美徳であるとするべきだ。
 彼をして2年にわたる耐えがたい牢獄生活を生き延びさせたものは何だったのだろう。それは身の潔白を明らかにすることに対する希望であり、それはまた、政治的信念の故に牢獄にある者と犯罪者の違いを発見することでもあると思う。このテーマは疲れるだろうし、私たちの時代にこのオペラのような夫婦愛は感動をよばないかもしれないが、政治犯が存在し、『邪悪な臣下を急ぎ排除しようとする』国家がある限り、このオペラがある限り、フロレスタンという役は、今日的であるし、このオペラは生き残ると思う。」
 ウィーンでの『フィデリオ』のすぐ後、時期的に接近して、二つの『パルジファル』が続いた。ザルツブルグ復活祭音楽祭における聖金曜日の出演のあと、シュツットガルトでは復活の主日の公演、復活祭の月曜日には再びザルツブルグに戻った。

   ザルツブルグ復活祭音楽祭の契約で、はじめて、ヘルベルト・フォン・カラヤンと共に仕事をした。この上演において、ペーター・ホフマンは、タイトルロールを、徹頭徹尾演劇的に描ききった。それは当然、1975年のパルジファル・デビュー、ヴォルフガング・ワーグナーとの1年後のバイロイト、シュツットガルトでのゲッツ・フリードリヒなどでつちかうことができた経験が役に立っていた。声に関しても、卓越したものを示した。1974年にすでにヴォルフガング・ヴィントガッセンの後継者としての可能性を言われたが、今回はヴォルフガング・ヴィントガッセンではなく、別の偉大な先輩と比較されるほどだった。オルフェウス誌は、ザルツブルグの『パルジファル』について、次のように評した。

 「ペーター・ホフマンはタイトルロールを体現した。テノール仲間で彼をしのぐことができる歌手はおそらくいない。彼の『救い主よ。救済者よ。恩寵の主よ』は、ヘルゲ・ロスヴェンゲの夢のような舞台を彷佛とさせ、彼が本来的な響きとして有している開放的なテノールに加えて、コジマ・ワーグナーが明確に要求した『バリトン的傾向のある』声によってはもちろん、これ以外の面でも人々を魅了した。つまり、この役は、パルジファルが予定されていた王権に至るまでの、苦悩に満ちた成長過程をスムーズに展開していくべきものであるという、役に対する確固たる認識がもたらしたものである。そして、私たちは、この作品が『アンフォルタス』ではなく、『パルジファル』と名付けられた所以を、ついに理解したのだった。」

memo06.jpg カラヤンのこのオペラのレコードもまた高い評価を受けて、1981年、「グラミー賞」を受賞した。
 カラヤンの多くの仕事仲間たちと同様、ペーター・ホフマンもまた、芸術的な共同作業における集中力といかにも大家らしいカラヤンの個性に深い感銘を受けた。

   「この契約は、ヘルベルト・フォン・カラヤンのオーディションからはじまった。実際のところ私はオーディションの必要な時代は過ぎていたが、カラヤンはもちろん特別だった。それでも、私としてはオーディションを回避しようと試みた。私がベルリンで歌うときに、カラヤンもベルリンにいれば、私の公演に来てもらいたいという提案をした。残念ながら、これは時期的にまったく都合がつかないということが判明した。その代わり、カラヤンが『気楽に親しくやりたい』とのコメントを添えて、私をザルツブルグに招待するという形で、会うことになった。これはもちろん好意によるもので、そんなに気楽にというわけにはいかない。とにもかくにも、カラヤンの前で、オーディションを受けることに変わりはない。そこで、ついに私はカラヤンの前で舞台に立ち、カラヤンは、私に何を歌いたいか質問した。『パルジファルをお聴きになりたいと思いますが、どうでしょうか』と、私は聞き返した。カラヤンはうなずいた。『アンフォルタス、あの傷・・のところはどうですか』という提案に対して、カラヤンは頭を振って、『いや、あそこは、あなたが歌えることはわかっています』と、全く別のところを求めた。三幕の表情豊かな静かな部分を聴きたいという。『かつて私にほほえみかけた草花がしぼみいくのを私は見たが、彼らも救いにあこがれるのではあるまいか。あなたの涙も恵みの露となったのだ。あなたは泣いている ・・・ご覧なさい、野原は微笑んでるのだ』これで全部だった。カラヤンは満足して、その後、ホテルの部屋に招待してくれ、およそ何気ない感じでいろいろ質問した。『ところで、ただひとつの武器が・・・のところはどのように歌うことになるだろうか』『歌ってみるのが一番でしょう』『よろしい。私が伴奏しよう』カラヤンは、ピアノの前に座って、私たちはいろいろな場面を十分に検討した。彼は自分の想像通りだったようで、全て気に入ったようだった。それから、急にバタンとピアノのふたを閉じて言った。『じゃ、復活祭を楽しみにしているよ』このようにして、私は、ザルツブルグ復活祭音楽祭とそれに関連したレコード録音の契約を結んだのだった。

 カラヤンは徹底した完全主義者だった。彼は演出をし、指揮をし、車や飛行機だけでなく、とりわけ、スタジオでのレコード録音や、後にはテレビ録画などにも、新しい技術を意欲的に取り入れた。しかし、細切れにして録音すること、つまり、まずオーケストラを録音して、それから歌手の声を入れるというようなことは拒否した。彼は、総合的な響きの一体感を求めた。つまり、彼には、絶対的な静寂、まったく邪魔のはいらない、完璧な集中が必要だった。椅子がぎしぎしきしんだり、何かが落ちたり、オペラには何らかの雑音はつきもので、それほど不快なものではないし、ほとんど誰も気付かないが、レコード録音の場合は別だ。どんな小さな雑音でもいちいち聞こえてしまう。『パルジファル』のレコード録音は集中的に行われた。これは後にCDにもなったが、大成功で、1981年には最高のレコード賞である『グラミー賞』を受けた。私のキャリアにおいて多くの賞や表彰を得たが、『グラミー賞』は殊更誇りに思う。
 ヘルベルト・フォン・カラヤンとの出会いは、強烈な印象が残った。カラヤンは、全くだれよりも特別な人だった。人を魅了する強烈な個性だった。自分自身にも厳しかったが、共に仕事をする相手に対しても、同じ厳しさを要求するところがあった。オーケストラはカラヤンを大いに尊敬していた。ベルリン・フィルはたいていカラヤンの唇の動きか、視線だけで、カラヤンの意図を知った。しかし、それでもたまには勘違いもあったのを思い出す。カラヤンが、いつものようにとても静かに、オーケストラが、始めるべき、完璧な弱音の箇所である小節を言った。ホルン奏者たちが、勘違いして、雷のような大音響を出してしまった。自分たちの間違いに気がついて、どっと笑った。カラヤンは微笑をかみ殺した。口元をほんのちょっとぴくぴくさせただけで、言った。『みなさん、あなたがたは自分自身を笑っているわけです。どうぞご存分に』こうして、彼は再びオーケストラを意のままに操った。
 いつか別のとき、理解上の問題がおこって、楽団員がまちまちの場所をひきはじめたとき、カラヤンは指揮棒を置いて、『このオーケストラは基礎ができていない』という言葉を残して、部屋を出て行った。不確実さが楽団員を動揺させ、ドイツ・グラモフォンの社員にショックを与えることになった。およそ30分の休憩になった。だれもカラヤンに話しかける勇気をもたなかった。カラヤンは録音調整室に閉じこもっていたが、もちろんベルリン・フィルは第一級のオーケストラであるが、この中断によって、楽団員に、次のように気づかせ、意欲をもたせようと思ったのであると説明した。すなわち、楽団員は、今よりもっと最善をつくしうること、カラヤンは、楽団員からあらゆる可能性を引出しうること、楽団員は、更に成長しうることを、知らせようとしたというわけだった。なんと厳格なことか。楽団員は怒りで椅子からずり落ちそうになったが、髪の毛の先端まで、『こんどこそ彼に目にもの見せてやる』という思いで意欲満々になってしまったと、ホルン奏者のひとりが後に認めている。このようにして、カラヤンは目的を達したのだった。
 カラヤンは実際、とても孤独な人だった。ポルシェに乗り、ジェット機で飛び回る指揮者、豪華ヨットに乗る上流階級というイメージは間違っている。こういう生活は、彼の家族のものにすぎない。彼自身は確信的仏教徒で、相当厳格に戒律を守って生活していた。朝5時から1時間泳ぐのが常であった。ホテルに滞在している場合は、このためにプールとその近辺に4時半から6時半までは完全に邪魔されずに張り付いていた。彼は瞑想し、ヨガに没頭し、沈黙をまもり、心を休め、集中力を養っていた。彼は自分の仕事のために、つまり音楽のために生きていた。クナッパーブッシュやフルトヴェングラーよりもさらに、無比無類のオーケストラ監督だった。彼がオーケストラから引き出したものは、まさに魔法そのもので、彼の才能は非の打ちどころがなかった。気に入った歌手たちとはすばらしい共同作業をした。準備ができていなかったり、プロらしからぬところが見られたりした場合は別だった。そんな場合は猛烈に不快きわまりないといったふうに振る舞うことがあった。物凄い影響力を持っていた。あの小さな、ほっそりした男が公演ともなると、巨人になった。しかしまた彼の冷たい態度が不安を引き起こしたようにも思われる。文字どおり蛇が一睨みで金縛りにしながら、それを楽しんでいるといった具合に、じっと見られて、声が出なくなった女声歌手が何人もいた。 だから、彼は自分の後ろに歌手を立たせて、ベルリン・フィルに紹介したものだった。彼が特に好んで一緒に仕事をし、人間的にも非常に気に入っていたソリストたちとは、気楽に、非常に親しくつきあった。私の車に乗せたとき、ポピュラー音楽も好きかどうか質問したところ、『良いポップスなら・・・』というこたえだった。私は、反応やいかにとわくわくしながら、ピンク・フロイドの『ザ・ウオール』のカセットを差し込んだ。彼はすぐに足を上下にゆらして、拍子をとっていた。車の中というプライベートな空間では、よく笑ったり、ふざけたりしたが、目つきでバイロイトより好きだと言っていた。『ザルツブルグ侯』は、『バイロイト侯』に関するジョークを言うのが好きだった。どちらもが相手方の小さな物語をきくのを楽しんでいた。後に、ロックの演奏旅行中に、カラヤンに電話をかけたところ、技術狂の彼としては、どの程度のPPA(スピーカーの能力)を携えて旅行しているのか、すぐにも知りたいので、ぜひとも夜にコンサートに立ち寄りたいと言うことだった。カラヤンはポップ・コンサートにおけるあらゆる機械設備に非常に興味をもっていた。私は彼に『帽子をかぶってひげをつけて』潜入してはどうかと提案したが、残念なことに、彼は敗血症にかかって、緊急入院を余儀なくされてしまった。
 カラヤンは、前にも話したように、非常に孤独な人だったせいか、ポップ・コンサートに招待されるというような状況を楽しんでいた。確かに常に大勢に取り囲まれていたが、その人々は彼を完全に高みに祭り上げていた。大勢の中でのひとりぼっちだ。人々は彼のために車のドアを勢いよく開け、楽譜や青色のコートを持ってさしあげる。しかし、尊敬するあまり、常に距離を置いて接していた。いつか練習のとき、足を滑らせて転倒したことがあったが、だれもあえて近付いて手を貸そうとはしなかった。彼は自分でユーモアに紛らして、私たちの前に座り込んで、涙を流して笑っていた。その後、クルト・モルと私は手を差し出して、彼を助け起こした。『彼の』大勢の取り巻きはそんなことさえあえてする勇気を持たなかった。
memo05.jpg 私たちはかなり頻繁に一緒に仕事をしたが、いつもとても素晴らしかった。カラヤンの希望で、1984年に発売された『さまよえるオランダ人』の録音でエリックまでも歌った。エリックという人物には全く共感できなかったので、この役はいつも断っていた。舞台に飛び出して、『ゼンダ、言ってくれ、私はいったいどうしたらよいのだ』と叫ぶ男とはいったい何だろうか。理解できない。そこで、私は声によってだが、エリックを、捨てられた恋人ではなく、ゼンタのことを心配する友だちとして表現しようと試みた。エリックはゼンタを愛していて、間違いから守りたいのだ。しかし、やはり舞台ではこの役は歌いたいとは思わない。  カラヤンとの最後の仕事は、『ローエングリン』だった。カラヤンはすでに非常に体調が悪かった。途方もない苦痛を抱えていたにちがいない。催眠状態にあるような印象だったし、スポットライトのせいだったのか、それとも何か別の理由だったのか、わからなかったが、とても奇妙に見えた。いずれにせよ、奇妙な感じの暗い影に囲まれた白眼が、ほんとうに無気味に見えた。それから間もなくカラヤンは亡くなった。」

 1980年は、規則的な客演の繰返しで過ぎて行った。ペーター・ホフマンは、主要オペラ・ハウスを巡って、『彼の』役である、ジークムント、パルジファル、ローエングリン、マックス、フロレスタンを歌った。彼の名前は、すでに専門誌に載り、音楽雑誌やオペラ雑誌、文芸欄に頻繁に登場するようになっていたが、今度は『普通の』新聞までが彼に注目した。

 「プレイボーイ、ペントハウス、オーディオ、ステルン、ブンテ その他、いわゆる大衆紙がオペラ歌手としての私に飛びついただけでなく、私を絹のスカーフを巻いて咳払いしている太ったテノールとは違うタイプとして書き立てた。私がオペラの前にロックをやったことや、バイクに乗るのがすきなことが発見され、私の私生活の中に、相当苦労しなくては入手できないような、新聞記事に適していることを見つけようという試みがなされた。おもしろいことが手に入らない場合は、何かをでっちあげることさえした。例えば、一枚の写真を思い出す。何の根拠もない写真だったが、私が、角のついたドイツの鉄かぶとをかぶって、バイクに乗っていた。新聞に『ホフマンはオペラ・ハウスへ行く途中、彼を止めた警官を横柄にも無視してパリを通り抜けていった』などといきなり書かれた。こういう全くのでっちあげには、唖然として言うべき言葉もなかった。
 こういうとき怒って公式に取り消すべきだろうか。書くにまかせるしかないと私は思う。その話が好都合な場合、彼らは冷静にそれをやっている。話題になるのも仕事のうちだと考えることにしている。訴訟したとしても何の効果もない。」

 同様に、ペーター・ホフマンにとって、国境を越えての数えきれないほどの旅行も『仕事』の一部だった。それは時に非常に不都合な出来事につながることもあった。

 「パリでの演奏会形式の『パルジファル』のあと、パリの大勢の著名人たちとのレセプションとパーティーが催された。パリ駐在ドイツ大使も私の隣席だった。私たちは楽しいおしゃべりで盛り上がった。別れるとき、大使は私に『フランスで何か問題がおこったら、気楽にお電話ください』と書いた名刺をくれた。翌朝、さっそく問題がおこった。このコンサートの前にイギリスに行っていたのだが、イギリスでは、マンチェスターとコヴェントガーデンで『ローエングリン』を8公演歌った。いつものようにギャラは全て現金で支払われていた。そして、それを持って、パリにやってきたわけだ。空港で税関の係官がなにか課税品を持っていないかと質問したので、いいえと答えた。係官は私を上から下までじろじろ見てカバンを開けるようにと言った。あれまあ。カバンの中からお札があふれ出た。しかもなんとも沢山ではないか。実際、資格証明のために十分にちがいないはずの契約書を持っていたにもかかわらず、それではだめなようだった。私は逮捕されて、服を脱いで裸にならなければならなかったうえ、厳しい尋問を受けさせられた。紙幣は、通し番号がつけられているかが重要だと言うわけで、それを調べるために、五つの大きなテーブルの上に並べられた。完全なチェック体制がしかれた。午前10時に大使に連絡をとろうと試みたが、留守だった。私は、空港に緊急に電話をかけてくれるよう、大使への伝言を頼んだ。いつか電話してくれるに違いなかった。午後8時、悪夢のような出来事は終わって、私は正直に稼いだお金と共に家へ向って飛び立つことを許された。」

 トリスタンは間違いなく、オペラ作品のうちで、最高に難しく、テノールにとってもっとも恐ろしい役である。単にいくつかのパッセージにおいて最大限の力を出すために声を制御すればいいのではなく、声の強度を失わずに長大な三つの幕を乗り切るべく、力を適切に配分することが重要なのである。このトリスタン役を、ペーター・ホフマンは、1986年に初めて舞台で歌ったのだが、すでに1980年と1981年に、コンサート形式で一幕ずつ演奏するという機会を得ていた。これはとりもなおさず、レナート・バーンスタインと共にやっていくということにほかならなかったにしても、きわめて難しい役を一歩一歩身につけていくためには、最良の条件であった。参加者は、イゾルデのヒルデガルド・ベーレンスをはじめ、イヴォンヌ・ミントン、ベルント・ヴァイクル、ハンス・ゾーティン、及びバイエルン放送交響楽団であった。 

tristanb.jpg 「それから、レナート・バーンスタイン指揮下、ミュンヘンのヘラクレスホールで、最初のトリスタンをやった。私が史上最年少のトリスタンだったので、バーンスタインは私のことを『The Kid』と呼んだ。トリスタンは殺人的に難しい役だ。陰気で、長く激しい紆余曲折があり、圧迫感がある。声にとっては拷問みたいなものだ。ヒルデガルド・ベーレンスがイゾルデを歌ったが、三幕を一幕ずつ分けて、半年ごとの間隔をおいて上演し、同時にテレビで世界中に放映し、レコード録音もした。レニーが求めたのはこういうことだった。つまり、全部が感銘を与え、すばらしく進行すればするほど、レニーは一層立派になるというわけだ。それにしても、レニーは私たち歌手に、ものすごく多くのことを要求した。彼は何か全く特別のことを達成しようと望んでいて、そのためには、私たちの可能性を限界までとことん追求しようとした。レニーは、練習のときには、私たちからより多くを引き出すために、良い雰囲気をつくろうと努力した。私たちはしばらくの間、カナリア諸島にある ジュトウス・フランツ氏の家で仕事をした。レニーはいつも機嫌がよく、陽気なアメリカ人気質を振りまいて、失敗などは当然あるはずもないことで、まるで全てが気楽に軽々と進んでいるかのように振る舞っていた。しかし、彼のこういう外見の裏には、だれよりもすばらしくだれよりも真剣な音楽家が潜んでいた。私はこれまで多くの優秀な指揮者と一緒にすばらしい仕事をしてきた。彼らの優れた能力を低く評価するつもりは全くないが、それにもかかわらず、正直に言って、カラヤンとバーンスタインは、はるかに超越していたと言わざるを得ない。レニーは「トリスタン」を極端に遅いテンポで指揮した。彼は長い弱音のフレーズを聴きたがったが、声が弱い印象を与えてはいけないのであるから、非常に難しい無謀な企てだった。『トリスタン』では、声と共に激しい感情が生じることが不可欠だ。私たち歌手はこういう点においては俳優をしのぐ可能性を持っている。声の響きと音色によって、感情や気分を伝えようとする。例えば、一幕でトリスタンが登場する場面では、トリスタンはきわめて無愛想でなければならない。彼は、貴族的で、優雅である。そして、イゾルデへの愛を知られるのを避けている。真実の感情も優雅な上品さもすべては声の中に存在しなければならない。彼は杯を飲みほそうとするが、イゾルデは、彼と共に死ぬために、それを彼から奪い取る。それから、突然その飲み物の効果が現れてくるときの、オーケストラによるすばらしい瞬間が来る。そしてトリスタンが、『イゾルデ』と歌うときには、その場面のはじめの制御された音色とは、まったく違った響きがなければならない。ワーグナーの楽譜のこの場面には 『あふれるように』と書かれている。二幕の『ああ、降りて来い』のところは、きわめて抑制して、非常にゆっくりと、やわらかく歌われなければならない。ここは、すべてが息の制御にかかっている。デュエットの頂点は絶頂感である。ここは舞台では、現実におこっていることを、ただ暗示的にほのめかすことができるだけなので、往々にして退屈な印象を与える。
 愛の飲み物を飲んだあと、トリスタンは何がおこったのかまったく分からない。彼は恐ろしい間違いがおこってしまったと感じるが、それが一体どんなことなのかわからない。だからこそ、トリスタンの裏切りに対するマルケ王の嘆きに対して彼は次のように答える。『王よ、それを申し上げることはできません。そして、お尋ねの答えをあなたが知ることは決してありますまい』ここで、『トリスタンのおもうのは日の光のささぬ国』という、このオペラの中でも一番すばらしい音楽になる。彼は自分が死んで太陽の輝くことのない国へ行くことを知っている。

 第二幕はとても叙情的に歌われなければならないし、音域もかなり高いので、難しい。第三幕は、切り抜けるべき演奏上の難関が多い。『幸せに、気高く、柔和に、イゾルデが海の上を渡ってくるのが見えないか』のところを、バーンスタインは、オーケストラに極端にゆっくりと演奏させて、私には、ここを一息で歌うように求めた。これまで、トリスタン歌手は皆、ここは、三度は息つぎをしないとして、すくなくとも二呼吸で歌っている。一息というのは、私には不可能に思われた。『そうしてくれ。せめて、試してみてくれ。私のためにやってくれ』とバーンスタインはしつこくせがんだ。彼は私に重要な助言をしてくれた。私はフェリーニの映画のこと、つまり、夢の中のように、非常にゆっくりとした音楽から、そのあと、だんだん軽やかになっていく、からっぽの部屋の中でなっているワルツを、思い描くべきだと言うのだが、彼の言うことは正しかった。このフレーズは8分の6拍子だから、ワルツの調子なのだった。私は彼の思っていることを理解した。そして、そのあと、ほんとうにそれをライブの舞台でやり遂げた。
memo04.jpg しかし、この一息のスラーの終わりには、あまりの負担に目玉が飛び出しそうだった。今でも、ここのところをCDで聴くたびに、私の力業に感心し唖然とさせられる。上演の直前でさえ、できることなら、すべてを大喜びで投げ出してしまいたいような気分だっただけに、なおさら強い印象を受けるわけだ。関係者全員疲れ果ててくたくただった。第三幕のための短い練習は、アメリカで行われたが、私たちは時差と気候の変化に悩まされた。ヒルデガルド・ベーレンスはひどい風邪をひいて、舞台で咳きこむほどだった。そして、さらに、テレビ放映とレコード録音の技術陣のせいで落ち着かなかった。神経がむき出しという感じだったが、最終的にはすべてうまくいった。レニーは大喜びで、出会う人ごとに、だれかれなく、次々と抱き締め、キスした。そして、繰返し賞賛されるのを、心から楽しんでいた。」2018年7月、バーンスタイン指揮、演奏会形式の「トリスタンとイゾルデ」TV放送が正式にDVD、ブルーレイで発売されました。
ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(演奏会) (Wagner : Tristan und Isolde / Leonard Bernstein | Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks) [Blu-ray] [Live] [輸入盤] [日本語帯・解説付]



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マリエンバートからバイロイトまで-3 [2003年刊伝記]

「自分の人生が、おそらく音楽に関連して、 何か特別なものになるような気がしていた」
~マリエンバートからバイロイトまで ・・・3


 歌手のキャリアの開始は慎重を要する。勉強が終わった時点での声は、まだ十分に完成しているとはとうてい言えず、若い歌手に対して提示される諸役や、専門教育の課程で得られた『声種』に純粋に理論的に配慮された諸役に対して、十分に機が熟しているわけではない。舞台での経験を積むこと、つまり、確実に繰返し舞台に立って、重要な役での絶え間ない訓練を通して準備をすることが重要である。ペーター・ホフマンは、学業修了直後に参加した最初のコンクールですでに大喝采を博していた。オペラ・ハウスからの依頼がすぐに舞い込んできたが、自分の声の適性をとても正確に把握していたので、最初の契約には非常に慎重だった。

 「エージェントが何か提示してくれるのを待っている間に、ウィーンでコンクールに参加した。エリザベス・シュヴァルツコップ、マックス・ローレンツ、ジェス・トーマスなどの著名人が審査員だった。歌曲とアリアの二部にわけて行われたが、まずはじめは非公開で、次は専門知識のあるウィーンの聴衆を前にしての公開だった。『魔弾の射手』からマックスのアリアを歌った第一部のあと、マックス・ローレンツに絶賛された。若いころの記憶が呼び覚まされたということだった。その時の経験では、はじめは心配だったが、舞台に立つやいなや、突然全く軽々と歌えた。審査員たちは、第二部では、シューベルトの歌曲と『ワルキューレ』から『冬の嵐』を選んだ。この初のワーグナー演奏は、初の『ブラボー』も私にもたらした。そしてこれは私には本物の成功であった。もっとも、このコンクールでは、優勝しなかったのだが、そのことは、聴衆と、それから新聞をも、相当に憤慨させた。その後ウィーンのエージェントから仕事の話があったが、何度も断ったものだから、エージェントは気分を害した。しかし、私としては、自分のやりたいことはよくわかっていたし、殊にやりたくないことはなおさらだった。ベルンでのオペレッタ、これは私のやりたいことではなかった。『トロヴァトーレ』のマンリーコは、イタリア語が十分でなかった。それから、ウルムでのオテロもあったが、時期尚早と感じていた。そのころには、アメリカのジェス・トーマスからの寛大な送金があっても、お金が底をついてきていた。
 そんなとき、リューベックでの魔笛のタミーノの話が来た。古いカブト虫型のフォルクスワーゲンは、またもや故障したので、オーディションを受けるために、カールスルーエからリューベックまで、相当の区間を、ヒッチハイクした。
 リューベックには、私以外にすでに8人のアメリカ人がオーディションを受けにやってきていた。私はタミーノ、フロレスタン、マックス、ドン・ホセと、それから、ジークムントも選んだ。とても驚かれた。『えっ、ジークムントができますか』皆が聴きたがったので、『冬の嵐』と『父は私に刀を約束した』を歌って、出演契約を結んでもらえた。ほんとうにうれしかった。もっともシーズン中だったので、契約はちょっとあいまいで、出演の確約はなかったが、各出演につき700マルクと旅費を支払ってくれることになった。私にとっては大成功だった。
 1972年、私は、全く気楽に初シーズンを迎えた。キャリア開始はやはりタミーノを歌うことになったが、いきなり水の中にほうりこまれて、泳ぎを覚えるようなものだった。やり遂げ、さらに前進しなければ、始まる前にキャリアは終わりになってしまう。舞台での仕事に対する感性を失わずに、劇場での生活に持ち込まれるあらゆる卑劣なことに対しては鈍感にならなくてはいけないということがわかった。更に、どんなにすばらしい学位をいくつも持っていても、音楽学校を出たときには、基礎的な知識を有しているにすぎないということにも気がついた。もちろん、集中的に役の研究を済ませてあるということは、役に立つが、舞台に立って、これらの役を歌うということは全く別のことである。私の考えでは、芸術家の本質とは、歌うことに加えて、舞台で存在感を示すことだ。やはりここでもまたスポーツマン時代の経験が役に立っている。なぜなら、そのころに自分の身体を扱うこと、つまり、人々が見ている前で、自然に身体を動かすことを覚えたからだ。こういう基礎の上に、舞台で役に生きる能力が開発されたのだ。自信や強い神経やコンディションを保つことなどもスポーツによって養われた。今、目の前の舞台の上にいる若いテノールが本当のオペラの舞台に初登場だとは、リューベックの観客はもちろん知らなかった。私の経験と基礎が、初舞台をこなせるものだったことが示されたわけだ。タミーノという重要かつ難しい役は成功した。
 やがて家族を呼ぶために森の中のまるで魔女の家のようなよしぶき屋根の家を借りた。リューベック市立劇場には2シーズン留まって、モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』のネロから、『イドメネオ』のタイトルロール、『こうもり』のアルフレートなど、重要な役ばかりを、幅広く歌った。『ファウスト』のタイトルロールでは、ハイCのあるアリア『私は奇妙な不安を感じている』を歌った。この不安は現実のもので、この高音に対するものだ。多くの場合ある種の離れ業によってしか達成できないほど難しい音だ。
 もうひとつの『びくびくもの』といえば、『こうもり』の上演のときのことだった。私は、ロザリンデを誘惑するイタリア人テノール、アルフレート役だった。普通ならこの愛の場面は、刑務所長(Gefaengnisdirektor)のフランクがロザリンデの夫を逮捕するために突然姿を現して中断される。通常はそうなのだが、この時はそうはならなかった。『とんでもない 喜び ・・・ 』と、歌いながら、私は、あこがれの、ロザリンデに抱きつき、フランクの登場を待った。ところが、何も起こらない。フランクが来ない。私は飛び起きて、ドアのところへ走って行って、叫んだ。『誰か来たようだ』 だめだ。誰も来ない。私たちは、更に続けていちゃついた。今度はロザリンデが唐突に叫んだ。『やっぱり、誰か来たわ』それでも、だめだった。その間、客席はしんと静まりかえって、みんな次に起こることを今や遅しと待っていた。でも、やっぱり何も起こらない。私の額には汗が浮かんでいたが、それは歌ったせいだけではなかった。とにかく舞台からひっこむべきかどうか、検討しはじめたとき、ついにフランクがやってきて、事態は最後の仕上げへと進んだ。『失礼します。フランクと申します。受胎監督です』と、すばらしいアメリカ訛りで叫んだ。この同僚はセカンド・キャストだったので、この時までまだ舞台に出たことがなかった。彼は裏舞台の小さな隙間のある扇形のスタビライザーの中に迷いこんでいたのだった。この言い間違いは、練習のとき私たちが彼にやったいたずらが原因だった。彼のメモに『受胎監督 Empfaengnisdirektor』と書いたのだ。あの時客席にわきおこった大爆笑は後にも先にもまったく体験したことのないほどのものだった。劇場中が笑いの渦だった。その後も『こうもり』は、アイゼンシュタイン役だったが、ズービン・メータの指揮のコヴェントガーデンや、サンフランシスコなどで、何度か、歌った。
 リューベックでのもうひとつの失敗も忘れられない。『イドメネオ』のタイトルロールで、両腕を広げた王様然とした姿勢で舞台に立って、『クレタよ、なんと輝かしく明るく喜びに満ちた未来があることか』と、歌うべきところだった。ところが、そのフレーズがいっこうに思い浮かばないどころか、頭の中が真っ白な状態なのだ。頭がからっぽになった。要するに歌詞が出てこなくて立ち往生というものだ。オーケストラ・ピットでは指揮者が冷や汗をかきながら、導入部の和音をチェンバロで何度も繰返し演奏して、私に何度も出だしを示していたし、プロンプターはプロンプター・ボックスから腰まで身体を突き出していたが、私だけが完全に何もわからない状態だったのだ。ところが、突然、私の頭の封鎖が解けて歌詞が戻ってきて、先へ進むことができた。そして、不思議なことに、数人の同僚しか、一体どうしたのかとは尋ねなかった。客席にはほとんど気がつかれなかったようだった。
 リューベック時代にすでにさまざまな客演をこなしていた。最初はルートヴィヒブルク音楽祭でタミーノを歌った。その1年後突然ルートヴィヒブルクの総監督からフィデリオのフロレスタン役を5日間歌えるかどうかという電話がかかってきた。『すごい。5日間とは』と思った。私は窮地に立たされた気分だった。というのは、その役はもちろん知っていたが、できなかったからだ。私は総監督にそう話したが、監督は『ルートヴィヒブルクで初演の5日間歌えますか。どうですか』と繰返すだけだった。私は『やりたいことはやる』という自分のモットーを心に浮かべて、承諾の返事をした。このオペラ全曲をカセットに収録し、ピアノ用スコアを入手して、リューベックからルートヴィヒブルクまでの長旅でこの役を覚えた。ルートヴィヒブルクに到着したときには、最後の仕上げを残すのみだった。ちなみにおもしろい演出だった。フロレスタンは地下牢ではなくて、巨大な十字架が鎖でくくり付けられたベルリンの壁を表すような有刺鉄線付きの壁の前にいるのだ。短い準備期間にもかかわらず、万事きわめて順調だった。すばらしいフロレスタン・デビューだったと言えると思う。
 バーゼルではヴォツェックに客演した。私は粗暴な人間である鼓手長を歌った。彼は肉体的魅力でマリーを意のままにしており、ひどく冷酷に扱うのだ。この人物に対しては、おそらく十分な距離を保って、その人物像を投影したのだが、私の演技に対してよい批評を得た。演技と同様に音楽的にもまさに挑戦だった。
 まだリューベックの専属中のある日、エージェントが、バイロイトから、ゲッツ・フリードリヒが関心を示しており、オーディションのことで問い合わせがあった、と知らせてきた。感激だった。バイロイトこそ、まさに私の大きな夢だった。1973年8月、音楽祭の間に、オーディションの期日が決まり、私はパルジファルとローエングリンを歌った。 バイロイトではずっと前に計画がたてられるので、その後とりあえず待機しなければならない。
 1974年、ヴッパータールの専属としての仕事がはじまった。ここで、すでに身につけていたレパートリーを深めた。とりわけ『カルメン』のドン・ホセ、それから、ジャンカルロ・デル・モナコの『青い』演出の『魔弾の射手』のマックスなどだ。そして、『魔弾の射手』では、いつも何か思いがけないことが起こるということを知った。それはヴッパータールだけでなく、その後の上演でも確認された。それはいつも同じ場面で、つまり有名な魔弾をつかっての射撃試験がおこなわれるときに、おこるのだった。銃声が早すぎるか、遅すぎるか、時には全然音がしないのだ。ハンブルクでは、音がしなかった。舞台助手はそういう場合のために代わりの銃を用意していたが、彼とコンタクトをとろうと必死になっている私に全然反応しない。 カスパールは繰返しさっさと撃つようにと要請する。その時、この苦境を切り抜けるのに、いいことを思いついた。空を狙って、大声で『パンッ』と叫んだのだ。客は驚き、喜び、物語は先へ進むことができた。
 ジャンカルロ・デル・モナコとの仕事はとてもおもしろかった。私たちはお互いに非常によく理解し合えた。ヴッパータール時代のあともときどき会っていた。そのことを通じて、うれしいことに、ある日、彼の父である偉大なマリオ・デル・モナコを訪問することが可能になった。
 声楽の勉強のはじめに、多くの偉大な歌手たちのレコードを買った。その中には、ラウリッツ・メルヒオールや、フランコ・コレッリ等々の古い録音があったが、全てにまさってそびえ立っていたのが正真正銘のオテロ、マリオ・デル・モナコだった。デル・モナコは、ヴェネチアの近くのプールとぶどう園付きの宮殿のような家に住んでいた。ところで、デル・モナコと個人的に知り合ったわけだが、私たちは初対面からお互いに好感をもった。彼は病気で、1973年に舞台から引退し、ここの自宅に引っ込んでいた。 週に二度人工透析をしなければならなかったが、病院に行きたくないので、自宅の一室に必要な器具を備えていた。 そのような治療のあとでは、彼はいつもエネルギーにあふれていた。だから、私が訪問したときも元気いっぱいだった。彼は歌って、変わらぬ偉大な声を披露してくれたし、自然だが、好ましくない音をたてることによって、その声をいかにほとんど乱暴とも言えるやり方で訓練したかを見せてくれた。彼は母音を形をととのえてはっきりと叫んだ。音域を変えて、また同じことをした。 彼は私に、本来、訓練できるのは、声帯そのものではなく、その周辺の筋肉だけであると説明した。試してみるとしたら、この苦痛のあとは、まずはまた声帯を休めなければならなかったから、公演の直前はだめだ。デル・モナコの監督の下、1週間やってみたが、私の声は前と同じだった。
 デル・モナコは、私と一緒に歌うのを楽しんだ。例えば、私たちは彼の友だちのところで一緒にプッチーニの『西部の娘』のアリアで、力いっぱい高いBを響かせたりしたものだ。この時ばかりは、人々は私を『マエストロ』と呼んだということは、相当の大声だったにもかかわらず、おそらく美しかったようだ。彼が大きな帽子をかぶり、白いスカーフをして、白のロールスロイス・カブリオレに乗って、町を行くと、まるで絵から抜け出たように見えたし、人々は彼をまるで『王様』のように扱った。人々は彼に遠くから手を振ってあいさつしたが、あいさつを返すのは彼の沽券にかかわることだった。 一度オテロの怒りの発作に遭遇した。何が問題だったのかわからないが、彼が大声で周囲に怒鳴り散らすのが聞こえた。そのあと、彼は高級な庭の備品をプールに投げ込んだ。そういうときは、しばらく近付かないほうがいい。彼はオテロのようにふるまったのではない。彼はオテロなのだ。 時には、晴れた空から力強い高音を雷のようにとどろかせたが、その力と物凄い音量にもかかわらず、その音色は美しかった。彼はそのきわめて健康的な自負心を、あるイタリアのテレビ放送で証明している。そこで『弱音では歌えないというのは本当ですか』と尋ねられて、『ミケランジェロもミニアチュールで有名になったのではありません』とこたえ、また、『ライバルはいますか』という質問に対しては、『みんな死にました』と断固言い放った。デル・モナコ訪問は、非常に感銘深い体験だった。

 ヴッパータールに話を戻そう。ここで私ははじめてのジークムントを歌った。私は非常によく準備していた。もう5年も前から、この役で契約する場合に備えて、この役の勉強をはじめていた。それでも、すぐに決定的な成功を得られるなどとは思いもしなかった。 
 突如として、重要なオペラ劇場の有名な監督たちが、私を見、私の声を聴くために、わざわざ自らヴッパータールを訪れた。パリからリーバーマン、ハンブルクからはエヴァーディング、ウィーンからも、バイロイトからもやってきた。シュトットガルト歌劇場は、5年契約を提示したし、客演依頼は山のようで、私はノーザン・ウェストファーレン州の若い芸術家のための奨励賞を受けた。批評を読んだとき、はじめは開いた口がふさがらなかった。本当に自分のことが書いてあるのだろうかと思った。しかし、すぐに、これは、私のキャリアが始まったということなのだと思った。」

 ペーター・ホフマンにノーザン・ウェストファーレン州奨励賞を与えた審査委員会は、決定理由を次のように述べている。「ペーター・ホフマンはすばらしい才能をもったヘルデン・テノール、そして、このめったにない声域の素質がある。みごとな発声技術が完璧にマスターされた役と結合し、歌唱的にも、演劇的にも、同じように 深い感銘を与える芸術的な表現を実現している。現在の業績は、芸術家としてのホフマン氏の成功ととりわけその声域における成長につながることに大きな期待がもたれることを証明している」
 オルフェウス誌は、1974/75年のシーズンに関して、「ヴッパータールにおける『ワルキューレ』でのジークムント及び、ドルトムントにおける『ラインの黄金』でのローゲのペーター・ホフマンを最高の後継者として絶賛したい。ペーター・ホフマンは、ユーゲントリッヒャー・ヘルデンテノールに成長した。彼は、ほとんど人を得られないワーグナー・テノールの役に、声と外見によって、運命づけられているということだ。彼のこれまでの成果と成長は、大きな期待を抱かせるものである」と書いた。
 ラインポストの批評家もまた、ペーター・ホフマンをヴッパータールの『ワルキューレ』で見て、その声が全ての声域において、「きわめて安定しており、基本的にロブスト」であり、「鋼のような」ほのかなきらめきを持つこと。将来的には「ジークフリート・テノール」に成長するだろうとして、彼を、1950、60年代に議論の余地のないワーグナー・テノールとみなされ、1970年までバイロイト音楽祭に頻繁に登場して、最近亡くなったヴォルフガング・ヴィントガッセンの「後継者たりうる者」と呼んでいる。

 オペラワールド誌は、1975年ドルトムントにおけるペーター・ホフマン初のローゲについて、「ペーター・ホフマンは言ってみれば一夜にしてセンセーションを巻き起こした。雄大な声と輝かしいテクニック(わずか30歳にして、舞台で初のローゲ)をもったユーゲントリッヒャー・ヘルデンテノールである彼はこわいほどの悠然とした態度と抜け目のなさを備えたこの役を究極の微妙なニュアンスをもって演じきった」と評した。

 「キャリアがはじまると共に稼げるようにもなった。これは、相当収入の少なかった時代のあとでは、とても大事なことだった。 私のエージェントは本当に熱心に客演契約を世話してくれたが、全てのことには当然ながら二つの側面があるもので、仕事が多ければ多いほど、それだけストレスも大きくなるという結果につながる。 このことを、私はじきに実感させられることになった。ボルドーとトウールーズで、なんと6公演もワルキューレを歌うことになったが、1公演につき4000マルクというまさにぜひとも稼ぎたい大金を支払うということなので、とても喜んだものだ。もちろんヴッパータールの契約も果さなければならかったので、かなり厳しいことになった。『魔弾の射手』のマックスを歌って、その公演のすぐあと、ケルン中央駅へ私を運んでくれる隣人の車に飛び乗る。それで、かろうじてパリ行きの夜行列車に間に合うというわけだ。公演のあと、化粧を落とす暇は、ましてやないから、顔面に青い色を塗りたくったままで、列車に乗り込む。なんとかそいつを取り除かなければならないが、ま、いいじゃないかと、食堂車でコニャックに手を伸ばした。それはまるで火のように燃えて、次の瞬間には私の顔はもはや青くはなく、ザリガニのように赤くなった。パリに着くとタクシーで市内を通り抜けて空港に向う。そこから、ボルドーへ。ボルドーにだいたい正午に到着して、午後2時に公演だった。眠っていなくても、すばらしい公演になった。その後、翌日の夜にはヴッパータールで『カルメン』のドン・ホセを歌うというわけで、逆方向に、まったく同じ行程を繰り返す。これを何度かやったあと、ストレスの報いが来た。公演中に、突然全てがぼやけて見えた。劇場全体が回って、私は一方によろめいたが、その時はすぐにバランスを取り戻した。完璧に疲労困ぱいしていた。血液循環がとどこおり、私の身体は警戒警報を発していたのだ。二度とこのような無理はすまいと決心した。 こうなると、一日か二日の休みでは、休養するためには絶対に不十分だから。時々は休暇を楽しむことにしようと思ったが、そのとき、ウィーン国立歌劇場から16だったか17公演だったかの客演契約が届き、すばらしい決心は水の泡になってしまった・・・」

 シュツットガルトの専属になる前、1974/75年のシーズンに、オペラワールド誌がペーター・ホフマンにインタビューしている。「オペラの舞台に立って3年で、このように注目されるのはどんな感じですか」という質問に対して、ホフマンは、「あまりにも性急にことが進むのは、ちょっと不安を感じます。時々目が覚めたら全部夢だったということになるのではないかと思います。学生時代シュツットガルト歌劇場の周りをぶらついたり、公演を見て、感動したりしたものです。いつかここで歌えたらと思いました。それが、いよいよ、そこでパルジファルに取り組むことになったわけです。パルジファルは私が希望した役です。それが現実になるなんて、すばらしいことではありませんか」と答えた。
 「 本当にすべてをなかなか把握しきれなかった」とペーター・ホフマンは当時を振り返る。「物事が全部勝手に進んでいた。 私は3年の間に、前にも話した『ポッペアの戴冠』のネロ役や、さらに、難しいけど興味深い役だったクレーブスの『真の勇者』をはじめ、すでに定番のレパートリーをほかにも、自分のものにしていた。 私はいつも沢山の『はじめての仲間』である同僚や指揮者といっしょに仕事をするようになった。デュッセルドルフの『ワルキューレ』では、カール・リッダーブッシュ、シュツットガルトではビルギット・ニルソンがいた。なんとあの偉大なビルギット・ニルソンが私のジークリンデだったのだ。私は物凄く興奮した。」

 ペーター・ホフマンがまだ客演として出演した1975年のシュツットガルトの『ワルキューレ』のあと、クルト・ホノルカは、シュツットガルト・ニュースで 、ほとんど常套的といえるやり方で、ヴォルフガング・ヴィントガッセンとのありきたりの比較を試みたが、演技ということに関しては、明らかにペーター・ホフマンの優位を認めた。こういう評価をする批評家はひとりではなかった。最も初期の批評においてすでに再三再四指摘されたペーター・ホフマンの演技力の度重なる強調のされかたは特徴的である。

 「すらりとした体格、陸上競技で鍛えたたくましさ、視覚的にも若い英雄であると信じることができる。彼は、1940年代のヴォルフガング・ヴィントガッセンを彷佛とさせるが、この偉大な先輩より、今日すでに、演技的な動きははるかに達者である。彼のテノールとしての声はまぶしいほどの輝きはないが、声域のバランスとその暗く低く柔らかい響きは抜きん出ている。これはワーグナー歌手にとっては非常に重要なことだ。今回の初パルジファルに加えて、来年の3月にここでまた同じ役を歌うことになっているが、今から楽しみである。 そして今度は、アンサンブルの中にまさに生まれながらのマックスがいるわけだ。『魔弾の射手』もまたいつか劇場のレパートリーに入れるべきときが来ることが期待される」

 ヴィントガッセンは1945年から1972年までシュツットガルト・オペラのアンサンブル・メンバーだったのだから、彼との比較は、シュツットガルトの批評家にとってはすぐ頭に浮かぶことだった。ようするに、シュツットガルトとの5年契約で、ペーター・ホフマンは『偉大な先輩』の足跡をたどるべく、今またさらなる一歩を踏み出したのだった。それにまた、後のキャリアに関しても、この二人の歌手の間には、ある種の類似点が存在する。つまり、ヴィントガッセンは音楽祭が再会された1951年に、ペーター・ホフマンは1976年に、二人ともバイロイトでのキャリアの開始時にパルジファルを歌ったのだった。

 「それから、バイロイトに呼ばれた。オーディションから2年後、私は1976年のシーズンの契約に署名した。
 私はピエール・ブーレーズ指揮によるパトリス・シェローの新演出『リング』で、ジークムントを歌うことになっていた。さらに、バイロイトの歴史の中で最年少のパルジファルとして、『パルジファル』のタイトルロールの契約もしていた。バイロイトとの初契約のこの時期は、危篤状態だった父に、このことを、まだ話すことができたということでも、私にとって、非常に重要だった。父は長い時間を昏睡に似た状態で過ごしていたが、私が訪ねたときは、完全に意識があった。大のワーグナー・ファンの父に、来年バイロイトで歌うことになったと言うと、父は『いい加減なことを言っているんじゃないのか』とたずねた。 私は父にそれがまさに事実であることを保証し信じてもらうことができた。父はとても喜んでくれた。それから14日後、父は亡くなった。 父にバイロイトの舞台を見てもらえたら、どんなによかっただろう。残念なことに、父には一度しか私の舞台をみてもらえなかった。しかも、それは『ヴォツェック』での野蛮な鼓手長役だった。」

 ペーター・ホフマンは、『リング』に出演したが、その演出は始まる前からすでに激しい論争を巻き起こしていた。これは、 ヴォルフガング・ワーグナーが音楽監督としてピエール・ブーレーズ、演出にパトリス・シェローと契約したことによって引き起こされた。ブーレーズは前衛音楽の旗手で、全てのオペラ・ハウスを粉砕するべきだという主張で似非革命家として悪名高かったし、シェローのほうは、『左翼』的な過去をもつ演劇人であり且つ映画人で、オペラ演出家として全く認められていなかった。 このワーグナー解釈のいくつかの神聖な伝統と縁を切った演出は物凄いスキャンダルだった。 シェローは『リング』の物語を時代性のない寓話として祭り上げるのではなく、完全に細部まで19世紀市民社会の話として扱った。この演出では神々もまた読みかえられ、権力と財産を巡る闘争に、全く人間的に巻込まれていく様が描かれた。舞台は、流れるようなひだのある衣服を身に付けた崇高な存在ではなく、ブルジョワの利益代表に占拠された。フロックコートを着たヴォータンはこの演出のロゴマークになった。今では、当時人々が加熱していたことが、とっくに演出の型になっていて、スキャンダルを追体験するのはもはや困難だ。 もちろんバイロイトでではないが、シェロー以前にすでに、資本主義批判を際立たせる『リング』を試みるような演出が行われていたのだから、なおさらだ。シェローが 映画の美学を確信的よりどころにして創造した舞台上の情景は、物語の進行と感情描写に小劇場的なレベルに達するほどの繊細さを求めることによって生まれた、生命の躍動感と舞台を貫く官能性と同様に、今でも強い感銘を与える。人物の動きは常に音楽が表す出来事と一致し、連動している。人物は、もったいぶった姿勢でじっと立っているのではなく、実際に、あちこちと走り回り、床を転げ回る。これは音楽の放つ荘厳なオーラと無礼にも矛盾していると、多くの人が思ったが、大多数はこの演出のそんな側面を率直に受け止めた。
  初期の騒ぎには関係なく、ペーター・ホフマンは、この演出にぴったり当てはまり、観客の熱狂ぶりはどんどん大きくなったが、それは、演出家の指示に、相互の関連性もなく場当たり的かつ盲目的に従うのではなく、その時々の動機と感情を徹底的に検討し、役を追体験して理解し、自信をもって実行に移す彼の努力によるものでもあった。

 「シェローはバイロイトにとって思いがけない幸運だった。練習は非常に中身の濃いもので、私たち歌手が学んだだけではなかった。周知のように演劇畑から来た、この若い演出家もまた、練習を通して、私たちから多くの刺激を受けた。はじまる前からすでに外部から多くの批判があった。死すべき人間がどうやって神々を演じることができるというのか。 そんなことはこの演出ではどうでもいいことだったが、新聞から、初期の自信のなさが一掃された後では、熱狂はますます増すばかりだった。私にとってシェローのリングは前人未到のものである。」

 練習では歌手は演技に対していつもと違うことをたくさん要求された。動作のテンポと集中度はよく訓練されたスポーツマンであるペーター・ホフマンにさえ、大いに汗をかかせた。おまけに、歌わなければならないのだ。さらに加えて、バイロイトの新人にとって、デビューの緊張があった。「音楽的なこと以外」のストレスもまた大きかった。

 「練習期間中、祝祭劇場は私を多少かいかぶっていたようだ。私は、と言えば、バイロイトで実際に歌うということを理解できず、夢か現実かわからなかった。 プレミエが近づいたときにやっとそれが現実であることを理解したようなわけだ。私のアドレナリン量の増大はすでに明確だった。祝祭劇場への道でもう興奮していた。私はアーティストたちのたまり場である『聖ステファン』で夕食の予約をしておこうと思って、向い側に車を止め、道の真ん中まで走って、残りの半分を横切るために、車が途切れるのを待っていた。 私の後ろにいたドライバーはこれが気にいらなかったので、私のすぐ後ろに迫って、スピードをあげ、あっという間に私に衝突した。その男は車からどなった。そこをどけ。 どかないんなら、待ってろよ。男は本気で殴りかからんばかりだった。私は生来とりわけ臆病というのではないので、言い返した。それなら、かかってこい。しかし、すぐうしろにパトカーが走っているのが見えた。偶然か運命だったのか。いずれにせよ、警官はその男に説教し、私は我が道を行くことができた。そうこうするうちに、そのせいで、道が渋滞し、前に進まないものだから、すっかり遅くなってしまった。祝祭劇場はすでにパニックになっていた。私の衣装係は窓から外をのぞきながら立って待っていたが、私がやっと到着すると、即座にヴォルフガング・ワーグナーに電話をかけた。来ました。そして、ほっと一息ついた。化粧する時間はほとんどなかったが、どっちみちシェローは化粧を全く重視していなかった。歌のけいこは、今までもずっとそれが好きで、そうしてきたことだが、車の中で、ちゃんとしてあった。しかし、舞台に出る前の最後の数秒間は・・・、と言えば、『今、誰かがスピードの出る車にエンジンをかけたままドアの前に待っていてくれたら、即それで消えることができるのに』という考えが、頭の中をよぎった。尤も、それは漠然とした思いにすぎなかった。」

 奇妙なことに、ワルキューレのプレミエのあと、すぐには批評が出なかった。どうやらどう批評すべきか自信がなかったようだ。最初に沈黙を破ったのは、北バイエルン・クリーアのエーリッヒ ラップルだった。ワルハラの家庭内紛争という見出しで、シェローによる新演出『ワルキューレ』のプレミエについて、その上演の印象を次のようにまとめた。

 「幸運にも組み上げられた華麗な若い声によるソリストたちのアンサンブルの輝かしい成果とフランス人の新演出に対する客席における激しい意見の衝突が『ワルキューレ』のプレミエを特徴づけていた。皮肉をきかせた陽気な喜劇、19世紀的な衣装による異様な仮装劇『ラインの黄金』の後、『リング』の第一夜の『ワルキューレ』では、解決困難な様々の問題が浮かびあがった。(略)財産として若い妻を手に入れた粗暴だが身なりのよい家長と、財産も名前もない反逆者ジークムントとの対比が、舞台を優れたものにしている。力強く、渋みのある、密度の濃いバスのマッティ・サルミネンは歌唱でも演技でも迫真のフンディングだった。一方、ジークリンデのハネローレ・ボーデ(ジャニーヌ・アルトマイヤーの前のいくつかの上演で歌った)とバイロイト初登場のペーター・ホフマンのジークムントはウェルズング兄妹を感動的な情熱をもって演じた。優れたバリトンの声を基礎に持ち、輝かしく、強靱で、力強いホフマンのテノールは、アンサンブルにとって、本物の幸運な発見である。(略)とくに若い二人の演技は、ジークムントとジークリンデが身を投げ出し、抱き合い、愛撫するとき、オペラにつきもののうわべだけの所作を忘れさせた。シェローは二人によって圧倒的な愛の場を具現した。」

 他の批評家も全員一致で、ウェルズング兄妹を演じたハネローレ・ボーデとペーター・ホフマンの声楽面と演劇面での成果を賞賛したが、ペーター・ホフマンに対して、客席は熱狂的な大喝采を贈り、彼はこのシーズンの一大発見として祝福された。1976 年にスキャンダルを巻き起こしたものが遅くとも1980年には古典になり、フィルムに記録され、テレビで放映するに値するものと認められた。

 「シェロー・リングはのちにテレビ用に録画された。練習のときにすでにカメラチームが入っていて、誰かが、隠し撮り放送のために、私にいっぱいくわせようと思いついた。彼らはあの剣、ノートウングをトネリコの木の背後にしっかりとねじで取り付けたので、私は引き抜くことができなかった。私は力いっぱいがんばったが、『動かない』と言わざるをえなかった。更に続けて『ウェルズングのジークムントを、女よ、あなたは見ているのだ。花嫁への贈物として剣を贈るぞ』と歌った。そして、いつもは剣を握っているのだが、この時は、とにかくトネリコを指し示して、先を続けることができたというわけだ。
 あとでそのビデオをじっくりと見たが、ジークムントの死の場面では、本当にショックを受けた。自分自身が死ぬのを見るのは、奇妙な感じがするものだった。マッティ・サルミネンのフンディングが何度も槍で私を突き刺すのを見ていたら、フンディングが私の上に崩れ落ちてきたときの痛みを改めて感じた。どっしりと重い歌手が、あの時、ほんとうに私の上に落ちてきたときには、まるで肋骨を全部折られてしまったような感じがした。」

 パルジファルでバイロイトに登場したときには、ペーター・ホフマンはすでに三つの異なった演出でこの役の経験を積んでいた。1976 年の春、3週間のうちに、ヴッパータール、ハンブルク、シュツットガルトの劇場のプレミエで、歌ったので、新聞は彼を「ドイツ連邦パルジファル」と呼んだ。シュツットガルトにおけるゲッツ・フリードリヒとの仕事は、忘れられない経験になった。彼の考えでは、この演出では「愚か者」の成長過程、自然児が、知を得て、同情する力を備えた人間に、そして責任を自覚した王へと成長する過程が繊細な動きを通して、ことさらに浮き彫りにされた。シュツットガルトの演出に対する批評を引用しよう。

 「ホフマンはゲッツ・フリードリヒの演出概念を間違いなく満たしており、演出に合わせた動きと高い集中度は、先輩をしのいでいた。(ハンブルクで同時に全く別の演出のパルジファルを演じたホフマンは、フリードリヒとは少ししか練習できなかっただけになおさら驚かされる。このことは彼の役者としての天分を明らかに証明している)彼は目に見える、正真正銘の若々しいパルジファルだ。その衝動的な、それにもかかわらず、コントロールされていないのではない、とっさの動きにも説得力があった。さらに、歌もまた、若さにあふれ、熟練の域に達していた」

 ペーター・ホフマンは、演出家のヴォルフガング・ワーグナーと気が合った。ヴォルフガング・ワーグナーは、練習のときに歌手がもちこむ意見に対して心を開いてよく耳を傾けた。

 「バイロイトでパルジファルを歌わせてもらえるのは、若いテノールにとって夢が実現することだ。ヴォルフガング・ワーグナーの演出で、共に仕事をするのは喜びだった。最高のチーム、最高の仲間たちだった。グレネマンツを歌ったハンス・ゾーティンとは、初対面からよく理解し合えた。最初の練習の前の夕方、私たちは一緒にビールを一杯やっていたが、彼がきいた。『もうパルジファル入門、きいたか』『いや、入門って何』と私は聞き返した。彼は『えっ じゃあ、よくきけよ』と言って、翌日、私が耳にし、体験するであろうことを説明してくれた。そして、聞いたとおりのことが起こった。ヴォルフガング・ワーグナーは、機嫌よく、チームに私を紹介した。『みなさんの新しい仲間のホフマンです。パルジファルを歌います。パルジファルをすでに歌ったことがありますか』 私は内心いったい何なんだと思った。なぜならば、彼は、私がヴッパータールでもハンブルクでもシュツットガルトでも、順ぐりに、パルジファルを歌って、それで『ドイツ連邦パルジファル』と呼ばれていることを間違いなく知っていたからだ。そして、それからが、ほとんどハンス・ゾーティンが予言した言葉どおりの入門となった。『要するに、無知で、ばかな、純粋の、ドイツのばかな愚か者。彼はそこにただ立っていてびっくりしているのだ。ずっとびっくりしているのだ。それから、白鳥、神聖な動物だ。血、驚愕、それから、うしろから合唱団が登場する・・・そして、いよいよはじまりだ』 ヴォルフガング・ワーグナーは実務家だった。彼のやり方は、多くの前置きはなしで、練習がはじまるだけに、いっそう活気に満ちていた。彼は各場面を共に演じ、体験して、その考えを実行に移したが、私たち自身の創造性も是非とも一緒に取り込もうとした。私にとって彼との仕事はわくわくするような体験だった。殊に、ヴッパータール、ハンブルク、シュツットガルトで、6週間の間に3種類の様式の異なる興味深い演出でパルジファルのプレミエを経験した後のバイロイトこそは、まさにクライマックスだった。」
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マリエンバートからバイロイトまで-2 [2003年刊伝記]

「自分の人生が、おそらく音楽に関連して、 何か特別なものになるような気がしていた」
~マリエンバートからバイロイトまで ・・・2


 この時期に、今までにもたびたび話したことだが、こんなことがあった。そのころ、私のオペラ・コレクションに、『フィデリオ』が欠けていた。近くで上演されなかったので、このオペラを見るチャンスがなかなかなかったのだ。それがやっとかなえられることになった。カールスルーエで『フィデリオ』が上演されることになったのだ。チケットを手に入れ、その晩を楽しみにしていた。いつものようにそのために準備をした。そして、兵舎のシャワーで、石鹸を塗りたくって立っていたとき、思いもかけず、突然、水が止まった。しかたなく、石鹸の泡をタオルで拭き取り、髪に残った泡は、水筒のお茶ですすいで、服を着て、オペラに行った。しかし、全く耐え難かった。身体中、べとべとしていたので、当然あちこちむずがゆくて、何度もかかずにはいられなかった。不愉快になった隣の席の人は、ついにがまんできず私に静かにすわっているように言った。おそらく私に何か害虫がついていると思っただろうし、べとべとの髪では、さらに気味悪く見えたにちがいない。休憩時間に洗面所で洗って、ずっと気持ちよくなった。それで、私も隣席の人もやっとこころおきなく上演を楽しむことができたというわけだ。
 別の時だが、週末でダルムシュタットの家にいたとき、高校のスタジアムで、友人のミオに会ってスポーツをした。彼に『ところで、ホフマン物語って、知ってるか』ときいてみた。それに対して、彼はからかうように『当たり前さ』と、にやりと笑った。もちろん彼は、f がひとつの、つまり私の苗字のことを言っていたのだった。『そこに行ければいいのだが・・・』と私。『行くって、どうやって』『きょう、カールスルーエのオペラ劇場で、ホフマン物語が上演されるんだ。1時半開演だよ』彼はやっと理解した。『じゃ、大急ぎだ』私たちは大急ぎで出発したが、その後も、彼と一緒にたくさんのオペラに出かけた。

 妻の父は、バス歌手だったが、クラーゲンフルトで大学教授をしていた。いつか妻と一緒に訪ねたとき、私の歌をきいて、とても感激して、専門教育をうけるように促し、良い声楽の先生にきいてもらうよう勧めた。そして、私にいくつかのオペラのアリアを準備するように求めた。義父は、私の部隊の近くでは、誰が適当だろうかと熟考したすえ、バート・ベルクツァーベルンから車でたったの30分の距離にあるカールスルーエ歌劇場の女性歌手を選定した。そこで、私は義父の紹介状を持って、フランポーニ夫人のところへ行った。そして、夫人自身は教えていないことがわかった。しかし夫人は知人の声楽教師、エミー・ザイバーリッヒにきいてもらえるように手配し、当日は同行してくれた。今でもこの重要な日のことは、とてもよく覚えている。
 何を歌うつもりかという慎重な質問に対して、『さまよえるオランダ人』を歌うと答えたとき、二人の婦人は、驚いて眉をつりあげた。『期限は切れた。幾度目かの7年がまた過ぎ去った・・・』私が大声で力任せに歌ったので、二人は心配そうだった。『そんなに大きな声で歌わなくてもいいです』と、エミー・ザイバーリッヒ先生が言ったので、私は『大きな声で歌ったらよくないのですか』と尋ねた。先生は、『いいえ、悪くはないですが、声を永久にだめにしてしまいますよ』と、笑った。先生はもっとききたがったので、『鏡のアリア』と『闘牛士の歌』を歌った。二人とも明らかに深い感銘をうけていた。私はエミー・ザイバーリッヒ先生にいたって率直に質問した。『今、私の歌をきいて、専門教育を受ける意味があると思われますか。歌でやっていけるでしょうか。私には家族があって、稼がなければならないのです』 答えはすぐに返ってきた。『そういう人がいるとすれば、それはあなたでしょう』このときから、私はさらなる前進のために、あらゆる努力をしようと決心した。先生は喜んで私に教える用意があると言明し、数日後、それは始まった。当時、私たちは、私はバリトンかバスだと思っていた。エミー・ザイバーリッヒ先生にはひとかたならぬ恩がある。先生は確信をもって、私に大きな才能があることを認め、ずいぶんと長い期間、十分なお金がない私のために、ただで教えてくれた。

 私は、いかにして音が発生するか、すなわち、空気が振動して移動することを学んだ。声帯を振動させうるに十分な力を持つことが、怒鳴ることなく、できるだけ多くの響きが観客席まで届くような美しい音を生むための前提条件である。声帯が自由に振動すればするほど、大量の空気が振動して、声はますます大きくなる。
 ところで、延々と繰返される発声練習とヴォカリーゼから成る初期の勉強は、とりわけわくわくするようなものではなかった。小さな歌にさえ、猛烈にあこがれたし、何度も、もうだめだという気分に陥ったものだ。喉の部分に声を感じなくなったからだ。しかし、逆だったのだ。テクニックを獲得したことで、万事軽快に勢いよく流れていたのだ。的確な感覚によって生徒を導き、生徒の可能性を認識して、声を少しずつ作り上げて行き、再三再四訪れるスランプをじょうずにつかみ、それを克服すること、これこそが良い教師の本質である。エミー・ザイバーリッヒ先生は、このことを非常によく理解していて、くりかえしやってくる困難な段階も、興味をもてるようにしてくれた。」

  ペーター・ホフマンが、プロの歌手になるという望みをかためただけでなく、いつかバリトンではなく、テノールとして舞台に立つという可能性を具体的に眼前に描くきっかけになった体験は、1967年のバイロイトにおけるジェス・トーマスとの出会いだった。ジェス・トーマスも、かってエミー・ザイバーリッヒ先生の生徒だった。1927年生まれのアメリカ人テノールで1950年代にヨーロッパでのキャリアを開始していた。とりわけワーグナー歌手として名を成し、1980年代のはじめまで、ウィーンとバイロイトを中心に、タンホイザーから、パルジファルにいたるまでの重要な役で登場した。フロレスタン、ラダメス、カヴァラドッシ等々の他の多くの役でも、世界中の人々を熱狂させ、その役者としての才能と、印象的な舞台姿で観客を魅了した。

 1967年のバイロイト音楽祭の期間中、ジェス・トーマスは、かつての先生に、一緒にいくつかのパッセージを検討したいので、できるだけはやく来てほしいと頼んだ。エミー・ザイバーリッヒ先生は、バイロイトまで一番はやく行く方法を、熟考した末、まったくわくわくするような、運転手の仕事をペーター・ホフマンに提供したのだった。

 「私たちが祝祭劇場に着いたとき、ジェス・トーマスはちょうどローエングリンとして、舞台にたっていた。守衛が窓を開けておいたので、そこから上演の様子をたどることができた。休憩時間に、ジェスの楽屋に行くことができた。私は、はじめてのバイロイト訪問に大きな感銘をうけて圧倒された。そして、剣にちょっと触ってもいいかなどと、まったく畏れ多い質問をした。ジェスは、苦笑しながら、触るのを許してくれた。ジェス・トーマスは喜んで、全部見せてくれた。すぐに帰らなければならないかどうかきかれたとき、もちろん滞在することを望み、この滞在を2週間に延長した。私は、ジェスの運転手をしたり、ファンレターを取ってきたり、ヴォルフガング・ワーグナー演出のローエングリンの『青色の』舞台上のジェスを見て、感嘆したりした。私はジェスのすばらしい舞台姿に魅せられた。ジェスの家では、彼がエミー・ザイバーリッヒ先生とジークフリートの練習をするのに耳を傾けた。妻のアンネに電話をかけて、夢中になって話した。『ジェスは今また歌っている、ジークフリートだ。頭の中で、ひとつひとつの音を追って一緒に歌っているんだ。とにかくすごいよ』それは、夢のような時間だった。まるでおとぎ話の中にいるようだった。この時のことは、いつも楽しく思い出す。
 この時、バイロイトでの最初の、そして予期せぬ拍手喝采も浴びた。ジェス・トーマスが借りていた家からそんなに遠くない、バイロイト・エルミタージュ城公園を散歩中、すばらしい造作のアーケードの中に、小さな東屋を見つけた。そこに腰掛けて、たまたませき払いをしたところ、すばらしい音響効果があるのに気がついて、びっくりした。『すごい。なんて響きだろう』と思った。辺りにはだれも見えなかったので、この魅力には勝てず、歌い出し、聖杯物語まで、思い出せることを全部、だんだんに大きな声になり、さらにいっそう感情を込めて歌っていった。突然、背後に轟音のような拍手がわきおこった。観光客の一行が、薮の陰を静かに忍び足で歩きながら、こっそりと聴いていたのだった。ぎょっとした私は、可能な限りのスピードでそこから駆け去った。顔から火が出るほど恥ずかしかった。ジェス・トーマスにこの出来事を話すと、ぜひとも歌って聞かせほしいと言う。『とてもいいよ』と、ジェスは断言した。『君の声は、テノールの傾向がより強くなっているから、もっと上の声域を勉強するべきだ』これを聞いたときの感激は想像できると思う。もはやテノールになるという目標しかなかった。
 ジェス・トーマスとは親友になった。彼は、当時から、私がやり遂げることを確信して、大学での勉強と最初の契約の間の苦しかった時期には、私の家族を経済的にも援助してくれた。ほんとうに得難い友人である。はじめての出会いから10年後、私たちは共にバイロイトの舞台に立った。シェローのリングでジェスはジークフリートを、私はワルキューレで、ジークフリートの父、ジークムントを歌った。その後も、私たちは、折にふれて、アメリカで出会った。パルジファルでメトロポリタン歌劇場にデビューしたときも、来てくれた。
 私たちは良い歌唱をすることだけなく、舞台上で役を良く演じるという、同じ目標を持っていた。1992年に、『スーパー・ファン』というRTLが私についてつくったテレビ番組で、思いがけないうれしいゲストとして、ジェス・トーマスは、もう一度ドイツに来た。二人とも大喜びだった。私たちは、共に過ごす時間を大いに楽しんだ。1年後、ジェス・トーマスが心筋梗塞で亡くなったという、アメリカからの悲しい知らせを受け取った。この場を借りて、ジェス・トーマス・ジュニアのことも話しておこう。彼は有名な父の足跡を継ごうと計画していた。彼は、アメリカで、そのころには卒業していたが、個人レッスンでのより一層の完成をめざして、私のところで、声楽を学ぶために、後に何度かドイツの私のもとを訪ねた。

 バイロイト訪問の後、再びいつも通りの日常生活に戻ったが、オペラ歌手になるという私の夢はますます強くなり、この目標は、より高いものになっていた。バイロイト音楽祭で、もしかしてローエングリンを、歌えたら、すばらしいと思うようになったのだ。この目標を見失わないためには、全力を尽くして初志貫徹する力と、全身全霊をかけた強い意志が必要になる時が多々あった。軍隊の収入はもちろんとりわけいいというものではなかった。すでに学業を終え、たっぷり稼いでいる、かつての同級生たちは、新しい車や稼いで手に入れた他の諸々のものを自慢そうに見せびらかした。一人が私に『ところで、軍隊のあとは、どうするのか』ときいた。『音楽学校へ行くつもりだ』と答えると、『えっ。ほんとか』と、信じられない様子で、『で、お金はあるのか』と、聞き返した。『さしあたり、ないけど・・』と、私は認め、『軍隊の退職金で足りると思うし、後で稼ぐさ。やり遂げた者が最後に残る。私もそうなりたい』と言った。成功への意志があれば、不確実なことなどごくわずかだ。どうやったら妻と二人の子どもの面倒をみることができるかということについて再三考えた。どこからお金を得るべきか。夜、ジャズか、ロックのクラブで働いて、昼間勉強するというのを想像してみた。けれど、煙の充満したクラブでは、即座に声が消耗するというわけで、これは不可能なことがすぐにわかった。だから、他の道を行かなければならなかった。突然障害物の前に立って考える 『乗り越えられない不可能だろうか。否、できる』 人間がなし得ることはとてつもない。正しい道を見つけ、十分な力を結集すれば、間違いなくやり抜くことができる。自分自身の持てる力でやり抜けば、『金持の息子』的職業や、全て準備されたものを得るよりも、はるかに大きな価値がある。

 軍隊時代が終わったとき、私はすでにカールスルーエの国立音楽学校の正規の学生だった。数分の距離のところに、古い建物だが広い部屋を見つけて、ダルムシュタットの家族の引越しを済ませ、自分は勉強に没頭した。勉強をできる限り短期間でやり遂げたかったので、死にものぐるいで勉強した。時には1日に10時間も声がかれて、止めざるを得なくなるまで、ぶっ続けで、歌ったりした。しかし、声はいつもあっという間に回復して、続ける事ができた。幸いにも、ベートーベン通りのたいていの隣人は音楽愛好者と音楽になじんだ人々だったし、早朝には十分休養した新鮮な声帯で出かけた。今、時々自問するのだが、私が長時間、大声で歌っていたき、子どもたちはいったいどう思っていたのだろうか。子どもたちは他の状況を全く知らなかったわけだから、当たり前のことだったのだ。学期末休暇には、家計のために貨物自動車の運転手をしたが、普段も夜は、自動車教習の仕事に当てた。軍隊で全教科課程を履修していたので、地域限定ではあったが、自動車教習指導員の資格を持っていた。ほとんどだれもが車の運転を習ったので、それを大いに役立てることができた。しかし、この仕事は、ものすごい集中力を要したので、ひどく体力を消耗し、夜中に家に戻ると、完璧に疲れ果ててベッドに転がり込んだ。翌朝はまた学校があるというわけだ。

 私はまるでとりつかれたかのように、ジークムント、マックス、ローエングリンなどの諸役を学んだ。いつの日か、舞台上で演じるのなら、できるだけよく準備しておきたかった。スポーツの体験から、知っていたことだが、体調を完全に良い状態に保ち、神経質になっていらいらするのを克服しなくてはならない決定的な瞬間がある。歌手という『不確かで危険な』職業を思いとどまるように忠告してくれた人たちに、あらゆることを実証してみせたかった。数少ない学校のコンサートは難なく切り抜けたし、はじめての学外での公開上演も同様にやり遂げた。ベンジャミン・ブリテンの『ノアの箱舟』で、国立劇場の歌手が病気になったため、その代役で、セム役をやらせてもらったのだ。それは本当に小さな役だったけれど、記録すべき最初の成功だった。あるエージェントがオーディションに招いてくれたのだ。」

 ペーター・ホフマンは、学業を3年半のうちに終えた。これは注目すべきはやさである。学業を終えた若い歌手が通るのが常である一般的なコースは、長い、短いはあるにせよ、様々のコンクールやワークショップをあちこちといくつも回り道して、若い才能を『発見する』エージェントにたどりつき、キャリアがはじまるというものだ。ペーター・ホフマンは、このハードルも、学業修了の少し前にすでに飛び越えてしまった。この素早い成功は、エミー・ザイバーリッヒによるしっかりした専門教育と限りない支援によるところが大きいことは間違いない。ペーター・ホフマンは再三、いかにザイバーリッヒ先生に負うところが大であるかを、強調している。1980年代のはじめ、エミー・ザイバーリッヒは、ジャーナリストのマリールイーズ・ミューラーに、ペーター・ホフマンについて次のように語っている。

 「ペーター・ホフマンは、ほんとうに魅力的な青年です。体格が良く、スポーツが得意で、若くて、信じられないくらい活動的。でも、一方で、非常にロマンチックです。それは、私のところではじめて歌ってきかせてくれたとき、すぐにわかりました。意志を貫徹する男がそこにいるということは感じられるものです。
 そう、それから、むしろバスに近いバリトンの美しい声を持ってました。彼の純粋さが気に入りました。それで一緒にやってみようということになりました。軍務から自由になれる時間を全て、家族のもとに帰るためと、途中、私のところに寄るために、やりくりしていました。どんな犠牲もいといませんでした。初期の段階では、練習が、まったく気にいらなかったようでした。ご多聞に漏れず、すぐに重要なアリアを練習するのだと思っていたのです。ヴォカリーゼは退屈なので、私たちは一緒になって歌詞を創作しました。これではるかに気持ちよくできるようになりました。信じられないほどの集中力と根気がありました。それでも、時には、あからさまに決められた練習に抵抗しましたけれど、機知に富んだ発言で最後は笑って終わったものです。すばらしいユーモアのセンスがありました。私たちは互いに実によく分かりあっていました。すばらしい同志でしたし、勉強に大きな喜びを感じていました。
 そう、それから、ジェス・トーマスとの出会いがあったのです。バイロイトでのその瞬間から、ペーターは夢中になったのです。帰る途中ずっとローエングリンを歌ってました。『ああ、あんなふうになれたらいいな』って。その目標に対する物凄く強いあこがれが感じられました。そして、勉強を続けるうちに、その声からバスの響きが失われていったので、慎重にもっと高い音域を取り入れるようにしました。テノールの音質が、認められました。上手く行かなかった場合に、失望させたくなかったので、彼にはもちろん話しませんでした。熱意にあふれた青年の心からの望みをかなえてあげたいと思いました。そして、ある日『あなたはテノールになると思う』と話したのです。ほんとうにうれしかった。それから、この声域の集中的な勉強が始まったのです。『それから、ジェス・トーマスの場合と同様、最初の役はタミーノにするべきだ』とも。 世間の人は大方、ヘルデンテノールとは大声でわめくものだと考えています。だから、モーツァルトも歌えるということを示すために、最初の役としてタミーノを歌ったのです。そこから後は完全に自分の道を行ったわけです。『あなたもジェスと同じようにバイロイトではじめてのパルジファルを歌うことになるでしょう』と言いました。そして、この役では最優秀の歌手になりました。
 今では一般的に歌手として認められています。しかし、彼は若さにあふれてはいても、まだ不十分です。私たちは、習って暗記した歌詞や音符をいかに身につけて歌うべきか、今もなお勉強中です。私は当時からすでに彼には、役の性格と人間性に正面から徹底的に取り組むべきこと、相手役が歌いおわるのを待たずに、すっかり自分のものになっているはずの応答部分を歌うべきことを、教えました。(私は、ジョセフ・クリップスや、ジョセフ・カイルベルト、オットー・クラウス、カール・ハーゲマンといった芸術家たちと共に仕事をするという、すばらしい喜びを体験しました。そして、私がそこで知ったことを若い人たちに伝えたいと望んでいました。)もちろんペーターは自発的に仕事をしようとするタイプで、好んで全ての役を自分自身で演じたがるような多くの演出家たちの命令に唯々諾々と従うタイプではありません。彼はオペラに自分が感じていることを持ち込もうとします。彼は、若く、活動的で、決して強情な、いわゆる『声の持ち主』でも、声楽家でもありません。それ以上のものを欲しています。自分の力で、人々を捕らえようとしているのです。かつてカール・ハーゲマンは、『演劇だけでなく、オペラでもまた、舞台の芸術家は演じる人である』と言いました。かつて人々は一人の歌手、または俳優の故に、劇場に行ったものです。第一級の舞台には、第一級の指揮者と演出家がいるということは当然のことでした。その頃は、その夜オペラの大曲を指揮するために、正午に空港に到着し、翌朝にはまた次の大都市へと飛ぶようなことをする指揮者はいませんでした。だからこそ、オペラはまだアンサンブル芸術として成功していたのです。
 残念なことに、ドイツ人の優秀な若手歌手の数は少ないです。外国語を話す芸術家に反対するわけではありませんが、すばらしい例外はあるにしても、やはりメンタリティーは別のものです。ただ、一般的に若い歌手はせっかちです。手っ取り早くキャリアを積み、大金を稼ごうとします。さらに現代のめまぐるしさが加わります。しかし、歌手という仕事は、多くのことを要求します。内面的なバランス、勤勉さと根気などです。何よりも、勉強に対する喜びが必要です。
 若者をオペラに近づけるには、舞台上に、若者が理解できるようなものが存在することが必要です。だから、若者に関心をもち、若者を受け入れるべきです。私たちのようなザルツブルグやバイロイトの要求の多い客たちは、たとえ歌手がすでに50歳を過ぎていても、すばらしい歌に耳を傾ければ、夢中になって没入できますが、若い人たちは多くの場合、私たちとは違う考えやイメージをもっています。そういうわけで、ペーターは、その若さとスポーツマンタイプの外見によって、特に若い世代に大きな影響を及ぼしたと思います。若さというものはとにかく若さを求めるものです。だから、類い稀な力によって世界中を感動させる偉大な存在を大事にすることを若い人たちに教えなければなりません。
  ペーターがロックを歌うようになったことについてですが、このことは彼に喜びをもたらしました。彼は上手くやっていて、声を損なってはいないと思います。ロックを通して大勢の友人をも得ています。社会的地位のある方々さえも彼の音楽を愛してくださっています。ですから、私たちは彼の意志に任せています。」目次
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マリエンバートからバイロイトまで-1 [2003年刊伝記]

「自分の人生が、おそらく音楽に関連して、 何か特別なものになるような気がしていた」
~マリエンバートからバイロイトまで ・・・1


 ペーター・ホフマンは、演劇と音楽に深く関わった家庭の出身である。
 ウィーンで演劇を学んだ、母方の祖父は、多才な人だった。舞台俳優であっただけでなく、自分で演出をし、台本を書き、作曲し、ピアノとリュートを演奏し、舞台美術家であり、非常に豊かな想像力の持ち主であった。舞台衣装を仕立て、それと同じくらい、夫と同様に舞台に立つことが好きだった妻と共にズデーデン地方で移動劇団を主宰していた。この二人の血をひく子どもたち、すなわち、ペーター・ホフマンの母となる娘のインゲボルクとその三人の兄たちが、劇団経営になじむのは自然なことであった。彼らは非常に早くから、舞台に立ち、それによって、音楽と演劇に対する興味を持ち続けるようになった。1932年、父親が心不全で急死したあとは、劇団の運営権を任された母親が、当時としてはまさに不可能なことを、女手ひとつで、やり遂げた。家族企業というやり方が劇団の存続を可能にしていた。しかし、ズデーデン・ドイツの政治情勢によって、とりわけ劇団の人々の生活は一層困難になった。そのため、いつのころか、家族は劇団の舞台装置・小道具・衣装一式を処分して、マリエンバートに定住することにした。その後まもなく、戦争が始まった。息子たちは徴兵され、娘のインゲボルクは、裁判所の事務員になった。そして、19歳のとき、保養のためにマリエンバートに滞在していたベルリンの実業家、マックス・ペーター・ホフマンと出会った。背の高い、金髪の堂々とした男性で、優に20歳は年上で、多少父親代わりを務めたような面もあり、彼女は安心感を覚えた。
 マックス・ホフマンは、芸術に関心の深い家庭の出身だった。父親はドレスデンの工場主で、ゼンパー・オペラに頻繁に通うメンバーであり、気前のいいパトロンとして知られていた。気前がよすぎたのだろうか、工場を失ってしまった。しかし、くじけることなく、ベルリンへ行き、そこで、書店を開いた。同時に、詩と演劇批評を書いた。彼は熱心なワーグナー・ファンで、子どもたちは、早くから演劇やオペラの世界に親しんでいた。子どもたちは、バイロイト音楽祭に同行して、そこからさらにマリエンバートまで足をのばすこともあった。偉大なオペラへの興味とワーグナーへの関心は、息子であるマックスに伝えられた。そういうわけで、彼自身も音楽の仕事に就きたいと思っていた。夢は指揮者になることだった。しかし、運命は別のところにあった。彼は実業家の道を歩み、有名な圧力機械の会社を経営していた。  第一次世界大戦で、マックス・ホフマンは重傷を負ったため、第二次世界大戦では、徴兵を免れていた。これで、戦争中に彼がマリエンバートに滞在していたわけがわかる。そこで、前にも述べたように、彼は二度目の妻、インゲボルクと出会ったわけだ。彼は自分の会社をズデーデン地方に移転し、結局マリエンバートに住みついた。1944年8月22日、その地で、長男、ペーターが生まれた。戦争が終わりに近付いて、チェコ人のドイツ人に対する憎しみの爆発に脅かされたため、小さな家族は脱出を決意した。芸術家のグループに加わり、アメリカ人の助けでレーゲンスブルグへ向って、国境を越えた。数日間、爆撃で破壊されたドイツを放浪したあと、一家はやっとダルムシュタット近郊のグレーフェンハウゼンに落ち着いた。ペーター・ホフマンの子供時代の思い出は、この戦後時代にまでさかのぼる。

 「人間の記憶力は驚嘆に値する。実際、非常に幼いころのいくつかの印象を今でも思い出すことができる。例えば、私たちのところでは、家がどのように見えたかとかだ。私たちが住んでいた通りに、家々は軒を寄せあって密集して建っていた。裏には、ビートや色々の果樹のある、かなり大きな細長い庭があったが、表には何もなかったように思う。歩行障害があるという理由で、これ以上の避難民を割り当てられずに済んでいた家主が今も目に浮かぶ。障害者というのはウソだったと思う。 ある日、だれも見ていないと思ったのだろう。杖をわきに置くと、するするとナシの木の上によじ登った。こんなことは、もちろんだれも信じてくれなかった。大人たちは、私の見たことを子どもらしい空想だと思ったのだが、私の心には、彼があの高い木の上に座っている光景が今も焼き付いている。
 表通りにとめられていて、私たちの好奇心を刺激していた数台のアメリカ軍の戦車もよく覚えている。私たち子どもの目に、戦車は巨大な怪物で、ひょっとしたら悪魔が隠れているかもしれないと、だれひとり思いきって近付こうとはしなかった。しかし、友好的な兵隊たちが、全部見せてくれた上、中に座らせてさえくれたので、安心して、戦車は、大きなおもちゃになった。
 当時、母は権利擁護法律事務所で働いていたので、母方の祖母が家のことをやっていた。祖母は小柄なしっかりした婦人だった。三人は自分の生んだ子ではなかったが、7人の子どもを育てながら、二度の大戦を生き抜いた。熟練した裁縫師として、婦人用の下着を縫って、家計に貢献していた。私は、祖母が縫っているものが何なのか知りたがった。祖母はきっぱりと答えたものだ。『あなたには全然関係ないものよ』それで、かなりの間、好奇心を抑えなければならなかった。祖母は家族の中心的存在だった。家計の切り盛りをし、いつも私を注意深く見守っていた。人生のこの一時期、彼女こそが私の導き手であり、とにかくいつもそこにいる人であった。祖母は、私が、けんかや争い事に巻込まれないように、どんなに心配し、配慮していたことか。そんな徴候を見て取るや否や、祖母は私を家に入るように呼んだものだ。
 祖母は、戦争中に消息不明になった三人の息子たちの所在をなんとか知ろうと努力していた。ある日、一番下の息子、ヨーゼフが、数年にわたるロシアでの抑留を終えて、帰国するという知らせが入った。家族全員で、駅まで、迎えにいった。ヨーゼフを抱き締めたとき、祖母がどんなに喜んで歓声をあげたか、忘れることはない。そのあと、おじは、私を見つけて、尋ねた。『これはだれかな』もちろん、おじは、手紙で、すでに私のことをきいていたし、祖母は私にもヨーゼフおじさんのことを話してくれていたが、今、おじさんが私の前に立ったとき、私はすっかりおじけづいてしまって、おじさんをちゃんと見ることもできなかった。シベリア抑留の間に面変わりして、まるで外国人のように見えたのでなおさらだった。しかし、怖い気持ちはじきに消えて、私たちはすぐに仲良くなった。ヨーゼフおじさんは、私とよく遊んでくれた。それは私にとって非常に楽しいことだった。バタバタ音をたてる原付き自転車を手に入れて、一緒に近くの森などに『ケンタッキーへの旅』みたいに、探険旅行に連れていってくれたときには、おじさんが大好きになった。
darmstadt.jpg 4歳になったとき、ダルムシュタットに引越して、まもなく弟のフリッツが生まれた。新しい町を探険するのは、ハラハラ、ドキドキすることだった。私たちは競輪場の向いのベズンゲン地区に住んだ。反対側は家庭菜園の通りだった。その向こうは、森とまったくの廃虚で、冒険のできるすばらしい遊び場だった。ダルムシュタットはひどく破壊されていて、隣家は完全に瓦礫の山だった。子どもたちは、かすがいをくすねたものだ。それで板を、残っている壁に固定すれば、壁の上にあちらこちら、かっこよくよじのぼることができた。この遊びが危険を伴うことは、ある日、電光石火、明らかになった。とても高い廃虚によじのぼって、それから、元気良く飛んだとたん、その壁が崩壊しそうになった。数カ所が崩れおちるまで、しっくいをたたいてみたところ、とってもおもしろそうだと思った。突然、大人の人が警告を発して私を驚かさなかったら、どんな瓦礫の下じきになっていたかわからない。その人のお陰で、危険に気が付いた私は、足を別のところおいて、後ろ向きに、とても慎重に降りた。
 道路には新たにガス管などを埋設するための深い溝があちらこちらに掘られていた。しかし、巨大なパイプはまだ埋まってなかったので、ここもすばらしい遊び場だった。私たちは、帆を使った走り幅跳びのようなことをやった。そうすると、土塁の上から、かなり高くジャンプして、すばらしく遠くまで飛んだものだ。私は、そのころすでにだれよりも遠くまで飛んだので、あんまりにも深くてかたい地面に着地しないように、気をつけなければならなかった。そんなことになったら、容易にどこか折ってしまっただろう。しかし、幸いなことに、何事も起こらず無事だった。
 けれども、もっと安全で、それでも、とても好きだったのは、祖母と荷車を引いて、森へ薪集めにいったことだ。リスや上の方にいるいろんな種類の鳥から、無数のドングリやカシの実など、そこでは何でも見つかった。私は夢中になった。戦後の問題は、私たち子どもにはほとんど意識されなかった。それは気楽なすばらしい時代だった。
 そうこうするうちに、父は仕事を見つけた。毛皮加工業者に、毛皮を売ったのだ。質は悪かったが、差し迫った需要があった。小さな自動車にいつも屋根の下までいっぱいに品物を詰め込んで、ひっきりなしに運んでいた。父は、ときどき家族みんなを連れて、仕事に出かけるのを楽しんでいた。ある日、私たちはまたまた毛皮の間でほんとうに居心地良くしていたのだが、当時たぶん2歳だったフリッツが突然見えなくなった。ぎょっとした母の叫び声がきこえた。『あら、大変。 フリッツはどこ』 弟のフリッツは、おとなしく、この上なく幸せな気分で眠っていて、暖かくて、居心地のいい毛皮の中へますます深くすべり落ちてしまったのだった。彼は無事にひっぱりあげられた。
 もうひとつ、相当に長くて、スリル満点だったのは、ウェーザー川沿いのブラークまでのドライブだった。祖母は、あきらめずに行方不明者と帰還兵のリストを熱心にチェックしていたが、その結果、もうひとりの息子のフリッツも生きていることがわかった。父が、さらなる調査結果を入手し、フリッツおじさんがブラークで生きていて、そこで、すでに結婚していることが明らかになった。そういうわけで、ある日、『荷物をつめろ。週末に出かけるぞ』『どこへ行くの』『さあ、どこかな。びっくり旅行だぞ』ということになった。ロイコプラストボンバーとも呼ばれていた、ステーションワゴンに無理に5人も詰め込んで、ほとんど通行不能と言ってもいいようなウェーザー川に沿った霧の中の道を、何時間も走った。それはまるでとんでもない拷問のようだったが、祖母とフリッツおじさんが抱き合って狂喜するのを目にしたとたんに、そんなことはあっという間に忘れてしまった。フリッツおじさんは、戦争でいろいろ酷い目にあってきた。フリッツおじさんはロシア人の戦車指揮官と間違えられて攻撃されてしまった。脱走するために捕虜収容所から盗んだロシアの戦車に乗っていたので、敵と誤認したドイツ軍に銃撃されたのだった。頭を撃ちぬかれたのに、助かったのだった。おじさんも戦後長い間家族を捜したが見つけることができなかった。それだけに、喜びはひとしおだった。

 ダルムシュタットでの子ども時代は、幸福だった。遊びの想像の世界はほとんど無限だった。いたるところに何かがあった。例えば、向い側の家庭菜園の中は、まさに黄金郷だった。私たちは小さな小屋を建てて、その中で何かの葉っぱから妙なものを気持ちがわるくなるまで吸ったりした。テントの中での作戦会議では、破壊されたダルムシュタットに、開拓時代のアメリカ西部が再現した。もちろん肝試しもやった。それは例えば、破壊された家の三階部分から砂の山に飛び下りるといったことだ。私は、こういうこともまた一番上手だった。あいにく砂の中に壊れた瓶が隠れていたことがあった。脚の傷跡が今もそのことを思い出させる。自転車に乗れるようになった日、世界は突如として広がった。確かに、古い婦人用の自転車は、サドルが高すぎたのに、位置の調節もできなかったが、そんなことは気にならなかった。私がそんな自転車に立ち乗りして、ライン川沿いにゲルンズハイムを往復しようとは、だれも思わなかった。近所の少年たちと一緒に競輪場ですばらしいレースをくりひろげたりもした。それから、市のはずれで、使われていない射撃場を見つけた。そこには、丘と土塁があって、私たちは、自転車用の道を造った。急な上り坂と下り坂になっていて、危険なジャンプがたくさんあった。こういうことを全部マウンテンバイクなしでやっていた。マウンテンバイクなど、持っているはずもなかった。多くの者が、ぐらぐらする、スクラップ寸前の自転車に乗っていた。本当の競技会もそこで開催された。木々を回ったりする回転競技その他いろいろあった。私たちはそこで一日中過ごして、決して退屈することがなかった。
 学校にあがってからも、そのまま多くの時間はこんな遊びとスポーツで過ごした。照りつける太陽と、蒸し暑さの6週間の夏休みは楽しいことばかりだった。
 遠く離れたいくつかの通りで、馬の飼育場を見つけて、もの凄く興味をもった。ほとんど毎日のようにそこへいっては、私には物凄く巨大に思われた馬たちを驚嘆して見つめていた。私は、たとえだれにも頼まれなくても、ぜひとも馬屋で手伝いをしたいと思っていた。だから、大きなフォークで干し草をひっくりかえさせてもらったときは、とっても幸福だった。蹄鉄工の仕事にも驚嘆したが、ずっと後になって、角質を焼く強烈な鍛冶場のにおいをかいで、懐かしく思い出した。飼育場通いでは、その都度、新たな経験をした。おそらくここにすでに私の馬への愛着の源があったのかもしれない。後になって、はじめて知ったのだか、父もまた、馬と親密な関係を持っていた。第一次世界大戦中、父は16歳ですでに騎兵隊にいた。父は、皇帝のために戦うことを許されたくて、18歳と年齢をいつわったのだ。その辺の事情をもっと知りたかった。残念なことに、父に、私の馬をもう見せることはできない。
 それはともかく、父のことをもっとたくさん知りたかった。父が経験したことや、人生に対する考え方、それに第三帝国についても。父が入党し、のちに厳しい償いをしなくてはならなかったことの次第はどのような事情だったのだろうか。ある時、そんな会話をすることは、時機を逸しており、もう不可能だということに気がついた。両親や祖父母や曾祖父母に彼らの記憶や経験をたずねる時機を逸すれば、多くの重要な情報が失われる。夢の中でよく父とつっこんだ会話をし、記憶の中にひとつの姿が刻まれた。夢の中の父はドライブしていている。帽子をかぶり、後部座席で微笑んでいる。

 学校はあまり好きではなかった。特にゲオルグ・ビ ュヒナ ー・ギムナジウムに進んでからはそうだった。学習困難というわけではまったくなかった。興味を持ったことなら、むしろ非常にはやく容易に学習した。しかし、意味もなく義務的に学ばなければならないとなると、受け入れる気になれなかった。対数は、何のためにやるのか。当時の先生が、『それは最高の知力トレーニングになる』と、言ってくれていたら、すぐに納得して、その言葉に刺激されて、熱心に取り組んだかもしれない。けれども、ただ学習しなければならないというのは、根拠もなく要求されるのであるから、意味がないように思えて、できなかった。人生において、必要とされないようなことだったら、そのために苦しむ必要もないと確信していた。そして、とても不思議な事に、自分の人生は何か特別なものになるという気がしていた。おそらく何か音楽の分野で、どんなことがあっても、並外れたことをやり遂げるという、確信があった。それは、私の第六感だった。こういうことはだれにも話さなかったが、これが、学校の問題が大問題にならなかった理由だと思う。学校時代の反抗、かまわないじゃないか。自分の意志を押し通したとき、それが何であれ、評価されるのだ。
 自分の生徒に正面から徹底的に取り組むことに熱心な教師はほとんどいなかった。教師たちは規律を要求し、退屈な教材を示すだけで、教育者としての真の能力を備えていなかった。いつだったか、挨拶もしない新しい教師がクラスに来たことがあった。一言も発することなく、黒板に自分の名前を書いたので、クラスにささやきが広がったのは当然だった。その結果、その教師が最初に言った文章は、『ぺちゃくちゃおしゃべりをした者は償いをしろ』だった。こんなことは今日では考えられないのではなかろうか。  学校友だちのアクセルは、ものまねがとても得意だった。ホイアツァンゲンボウルで笛を吹くのがうまかった。そのころはよく教師のまねをしていたが、のちに教師になった。かの『償いをしろ』発言も何度もまばたきしながら取り上げたものだ。教師のまねばかりでなく、役者として注目すべき幅広い才能を示していた。市内電車を待っている間、自分たちの作品を創作した。昇給を要求してきた社員に、まるでとりあわず、減給をつきつける工場主を演じるのが特に好きだった。これこそが、彼が本来夢見た職業だったのだと思う。いずれにせよ、私たちにとって、芝居は大きな楽しみだったし、ものすごく創造的なことだった。長い間、私たちはスポーツも一緒にやっていたが、後にアクセルは長距離競走、私は短距離走と棒高跳び、それから十種競技専門になった。
  スポーツには、今にいたるまでずっと夢中だ。それは、ごく幼いころにすでに始まっていた。いつも好んで走ったり、競走したりしていた。ごく幼いころから、走るのがものすごく速かった。他の少年たちといっしょに走ったり、町内でちょっとしたレースが催されたりすれば、最高だった。本当に信じられないほど走るのが好きだったし、いつも優勝していた。持てる力を有効に使って、勝つこと、これが全てだった。だれにも追いつかれなかった。他にリードを許してしまった場合でさえ、相変わらず優勝した。ある日、私は、陸上競技選手で、リレー競技におけるドイツ・チャンピオンの高等学校教諭、ジークフリート・シュミットに『発見』された。ジークフリート・シュミットは、私を何度かよく観察して、声をかけたのだった。『や、坊や、走るのが好きなんだろ』この一言で、私のスポーツ歴が始まったのだった。  シュミット先生には、私に動機づけをし、素質を伸ばす適格な勘が備わっていた。彼はヒューマニストで、あの有名な言葉『健康な肉体に健康な精神が宿る』が彼のモットーであった。彼にとって、最高記録ではなく、確かな平衡感覚や、能力を自由に発揮することといった、スポーツの喜びこそが絶対だった。彼は私をベズンゲンTGに連れていき、私の最初のトレーナーになった。私たちはみんな、シュミット先生を認めていた。先生は私たちの『教祖的存在』で、今でもよく覚えている。それに、多方面にわたっていろいろと支援してくれた。スポーツだけでなく、私の全生活において、多岐にわたる同伴者だった。私は、棒高跳びをしながらも、円盤投げが気になって、試してみたり、槍投げもせずにはいられないという具合に、目移りがして、自分で決断できないことがあった。そんなわけで、最初の棒高跳びはこんな具合だった。運動場で、棒高跳びの練習方法を見ていた。その選手は大きな安全装置を使わないで、ただ単に砂と短冊型の芝生を着地の高さに積み重ねていた。私は、彼の跳び方は技術的にどこか間違っているような気がした。高くというより、遠くに跳ぼうとしているようだった。その選手に一度試してもいいかとたずねた。彼はできるものかという感じで、危険を指摘した。けれども、私はどうしても跳びたかったので、とにかく棒を手にして、まえもって、助走の長さをちゃんと測定もせずに、突然走り出した。バーの高さは2.5メートル、脚を身体に引き寄せれば、まだ十二分に余裕があった。非常にびっくりしたことに、次のスポーツ大会に参加するかどうか聞かれた。承諾の返事をして、その競技会で優勝した。  火・木が練習日で、週末にはたいてい何かのスポーツ大会があった。ウォルムス、マールブルク、ノイヴィードなど、あちこちへ、バスで出かけた。プファルツでは、私たちのトレーナーがワイン愛好家に変わって、ワインの試飲をするという場面を興味津々で観察した。試合のない週末には、日曜日の朝11時に、先生の家の前に集合して、クロスカントリーにでかけた。先生はいつも奇抜なトレーニングを思いついた。積み上げられた木材を、山道の片方から別のところにできる限りすばやく積み替えるとか、何だか奇妙な走り方で急勾配の山を素早く走る気違いのハードル競走などに私たちは夢中になった。私たちが本当に最高の仲間として固く結ばれていたこの時代のことを思い出すのは楽しい。
 私たちは、ずっと後になってから、何度か集まりをもった。はじめての集まりのとき、シュミット先生は、80歳半ばだったが、その場で、感動的なスピーチをした。昔のスポーツ仲間の多くは、当時すでにとても変わっていて、『脂が乗った』というよりは『脂肪の塊』といったほうがいいようなもので、中年太りの腹が出て、白髪が目立っていたので、だれがだれだがほとんどわからなかった。もっと後の集まりのとき、私はすでにキャリアを積んでいたので、うちへ招待したのだが、かつてのスポーツマンの仲間意識の大きさに驚かされたものだ。
 さて、スポーツマンとしての現役時代に戻ろう。ある日、高校のスタジアムで練習しやすくなるからという理由で、ベズンゲンTGの陸上競技チームが完全に ダルムシュタットASC に変更になった。これによって、気楽にスポーツができる時代は終わった。シュミット先生も引退した。先生はどうやら新しいトレーニング法に同意できないようだった。例えば、トレーナー助手がいて、時々錠剤を配ったりした。私はいつも拒否して、そんなものは、受け取らなかった。ある日のことニュースがもたらされた。私たちは、自分の学校の体育館で練習するべきで、そこにはガラスで囲われた場所が設けられ、そこからトレーナーが命令するというのだ。なんだろうと見回して驚いていると、『きょろきょろ見回さずに、さっさとはじめろ』と、いきなり怒鳴られた。私に投げられた練習用のボールを力いっぱい高い囲いの向こうへ投げ返すよう求められた。しかし、ちょっと前に、槍投げで肩をいためていて、できなかったので、トレーナーにそう言った。それに対して、信じられないこたえが返ってきた。『それなら、家にいろ』 私は言われた通りにして、こんな練習には二度と行かなかった。当時、私が とんでもないスポーツばかじゃなかったら、おそらくスポーツ自体をやめてしまっていただろう。しかし、一方で、まさにこの団体において、特別の才能が伸ばされ、私のためになったのだった。私は棒高跳びのヘッセン州青少年チャンピオンになったし、十種競技でも、数回、ヘッセン州青少年チャンピオンになった。この種目では、ヘッセン州青少年記録もとったし、ASC ドイツ選手団としても団体優勝した。
 カッセルにおけるヘッセン州の棒高跳び選手権大会では、あやうく寝過ごしてしまうところだった。前の晩、数人の友だちと大いに飲んで、スポーツマンらしからぬ夜を過ごし、朝方には、更衣室のベンチに横になってぐっすり眠っていた。潜在意識の中で、だれかがスピーカーで私の名前を呼んでいるのがきこえて目が覚めた。外ではすでに私の種目、棒高跳びが進行していた。私はすでに数回にわたって名前を呼ばれていた。コーチはあちこち捜していた。そして、『いったいどこにいたんだ。 試合はとっくに終わってしまったぞ』などと、いろいろ言われずには済まなかった。私としては、気まずく口ごもるしかなかった。私たちの団長は、選手登録所でまだなんとかしようと試みていた。『やっと選手が姿を現しました。寝坊してしまったそうです』 どの回も名前を呼ばれたあとだったにもかかわらず、審判長は好意的で、『よし。やってみなさい』と言ってくれた。準備する時間はなかったので、とにかく跳んだ。そして、ヘッセン州のチャンピオンになった。

 スポーツと並んで、私の興味は、音楽、つまりロック・ミュージックにあった。当時はまだ、クラシック音楽に対してはあまり関心がなかった。サッカーをしに行く前に、父のワーグナー・オペラを傾聴しなくてはならないのは、私にとって全くもって心地よいことではなかった。母が非常に大事に考えていたピアノの練習もさっさと途中でやめた。自分の声には、もちろんすでに気がついていた。声変わりの時期のある朝、私の声は、突然一オクターブ低くなっていた。私は大喜びだった。その声は、深く、たくましく、男らしく響いた。それで、声がかれるまで、一日中歌っていた。  そもそもロックとは、革命的な感覚、まさに単なる音楽以上のもの、すなわち習慣化した社会的な束縛に対する若者の反抗を、告げるものだった。エルビス、ローリング・ストーンズ、ビートルズ・・・等々は、まさにそうだった。それは単なる音楽ではなく、新しい人生哲学だった。

 というわけで、ロックだったのだが、それにはギターが必要だった。ピアノのレッスンをやめたからには、親には頼めなかった。そこで、自分のギターを買うために新聞配達をした。これは相当に大変なことだった。学校へ行く前に終わらせるには、朝とても早く起きなければならなかったし、必要な金額がたまるまでにかなり長い期間かかった。手に入れた楽器は、決して上質のものではなかったが、初心者には十分だった。ギターは独学したが、すぐにけっこう上手くなって、友人たちに教えるほどだった。スクール・バンドをつくって、私はヴォーカルとギターを担当した。長くは続かなかったが、かなり成功した。アメリカ軍のクラブで演奏することもできた。

 これ以前の時期にあった『反抗期』のときに、克服しなければならない体験をした。12歳のとき、両親が離婚したのだ。実父が60歳前の紳士だったのに対して、家に入り込んできた継父は私より14歳年上にすぎなかった。その後の対立は当然だった。若い継父は権威主義的で、良い学業成績と規律を期待していた。ますます大きくなる音楽とスポーツに対する私の情熱を全く理解しなかった。今はお互いとてもよく理解しあえる仲だ。継父も世界的キャリアを伴う私の業績に一目置いているし、数年来、私の事務所を管理し、膨大な会計業務とファンレターの処理をやってくれている。
 当時は、例えば長髪など、多くのことが、禁止されていた。私たちはなんと多くのことと戦わなければならなかったことか。聴覚が人の精神に対して破壊的かどうかなどと、今日の人たちは考えもしないだろう。そのころの両親や教育者は異なる基準を持つことに不安を感じていた。しかし、私たちは、間違いなく、両親とは、全く違うことを望んでいた。とにかく、彼らの考えとは合わなかった。
 ロックをきくことも禁止された。だから、夜遅く放送される、アメリカのヒットパレードは、ベッドにもぐって、トランジスターラジオでこっそり聞いたものだ。そして、いろいろやったものだ。歌詞を書きとって、近くに駐留していた米軍の兵隊に、慣用句や日常的言い回しについて質問したり、もちろんまねして歌ったりした。それから、実際に音楽を演奏する時代がはじまった。いきなり、あちらこちらの地下室や体育館の舞台で、もの凄い騒音をたてて、バンド演奏をした。私たちのバンドもまずは徐々に一体感を増し、その流儀を見つけていった。古いラジオからアンプを組み立てることを心得ている者がいた。はじめてのときは、歌に入ったとたん、まさにアンプが破裂したが、何度も組み立て直した。私たちにはお金がなかったので、どんなものにしろ新しいのを買うなんてことはできなかったのだ。私は、歌手として当然、人々が『もっと大声で』と叫んだからといって、コントラバスや声をアンプの能力以上に大きくするなどという危険をおかしたくはなかった。全くの無秩序、混乱状態だった。それでも、私たちは、少なくとも若者としては、成功をおさめた。一度、ダンス・スクールでコンサートをやったことがあった。全く凄い熱狂で、私たちは再び招かれた。でも、親たちに禁止されて、だめになった。
 私はギタリストとしてさまざまな小さな仕事を引き受けた。それはいつもうまくいったわけではなかった。一度、有名なバンドのギタリストが欠席して、代わりができるかどうかきかれた。もちろん、引き受けたが、その作品を全然知らなかったものだから、全くの期待外れに終わった。その夜は、アンプの音量を完全にしぼってこっそり抜け出した。
 ジャズバンドとロックバンドがあったが、いくつかは、混合的になっていて、それはまたある種新しい音になっていた。クリス・バーバーの『アイスクリーム』のような作品が演奏されたが、ディキシーランド・ジャズから、プログレッシブ・ロックまで、全くもって多種多様だった。時に人々は、ダンス・ミュージックのほうを望んだが、これは私たちのやりたいことではなかった。謝肉祭の時期には、いきなり、『ナルハラ・マーチ』を求められた。これは、ギター、バンジョー、コントラバス、クラリネットというエキゾチックな編成だった。とんでもない話だった。このころは、お金はわずかしかなかったが、非常に多くのことを経験した。私たちはどんどん上手くなったが、アメリカ軍のクラブでは、エルヴィスのまねをしていた。腰をふるとか、とにかくエルヴィスの全部をまねたものだった。今日私がエルヴィスを歌う場合、私のやり方で解釈している。模倣など論外である。
  1963年に徴兵されて、ロックはとりあえず終わった。全く新しい生活が始まった。通訳の学校へ行こうという私の計画は頓挫したが、別の挑戦があった。軍隊に入ることで、私は親元を離れ、ついに自立を果せたのだった。女友だちのアンネカトリンとの結婚を決意したが、21歳ではじめて成人ということだったので、19歳ではそう簡単なことではなかった。家族は結婚に反対だったが、私のモットーは当時からすでに、『やりたいことはやり遂げる』だったので、自分の考えを押し通して、母と中隊の将校たちの承諾を取り付けた。自分の家族を養うために、稼がねばならなかった。そのためには、軍隊に残る以外の道はなかった。なんといってもそのメリットは、駐屯地と部隊を自分で決める事ができたことだ。落下傘降下、これはスポーツマンとしての私の心をそそるものだったから、これをやりたかった。それで、レーバッハでの基礎訓練のあと、プファルツにあるとってもかわいい小さなワインの村、バート・ベルクザーベルンに行った。そこからなら、週末には、家族のいるダルムシュタットまで楽に帰ることができた。思い返してみれば、まだ非常に若かったとはいえ、私たちの結婚は順調な一歩を踏み出していた。1964年には長男のペーターが生まれ、1965年にはヨハンネスが続いたので、私は突然妻子の扶養という義務を負わされることになった。それはすなわち、両親がしてくれた以上に、自分の家庭をよりよく築いていくという大きな責任を負うことだったが、うまくやってきたと思う。子どもたちとは、一番下のレオにいたるまで、非常によい関係を保っている。今では、大きい子どもたちは、二人とも自分の家庭を持っていて、私にはすでに4人の孫がいる。

 私は軍隊生活を全く問題なく克服した。成果をあげたスポーツマンとして、いわゆる『しごき』はたいしたことではなかった。100回の腕立て伏せは難なくできた。もちろん損なこともあった。それは教官たちがそれに満足せず、120回を要求するといったことだ。そんなことも、私は気楽に受けとめて、よい訓練になると単純に考えた。スポーツマンであることは、軍隊において、有利な場合もあれば、不利な場合もあった。利点は、自信をもって、スポーツの教科課程に参加することができたこと、不利だったことは、必ず他の者より大きな犠牲を要求されたことだ。例えば、演習場からだれか一人が報告に駆け戻らなくてはならなかったりすると、皆が私を見た。『ま、仕方ないな』と私は思い、『はい、私が志願します』と、ただ他の者より、余分に訓練されるためだけに、真夜中に森を抜けて走った。
 歌うことはずっと好きだった。私が、仕事が終わったあと、音響効果がすばらしいので一番気にいっていたシャワールームで、長時間、ひっきりなしに歌っているということは、大隊中で有名だった。時々だれかがドアから頭を突っ込んで『ホフマンがまた歌ってるぞ』とからかった。中隊長だけは、隠れた何かを感じていた。中隊長はいわゆる『歌う小隊』つまり合唱部隊の指揮者だったので、音楽に親しんでいた。彼は私に、『為せば成るだよ』と言った。
 オペラの世界は、妻の両親を通じて、知った。妻の両親は二人ともオペラ歌手だった。そのころまで、オペラのことは何も知らなかった。尤も、父は私にワーグナーのオペラの一部をよく聞かせてくれたが、別に興味を持ちはしなかった。ダルムシュタット・オランジェリーで、はじめてオペラの上演を見て、突然、このテーマにさらに取り組み、もっとオペラについて知りたいという強い欲求を感じた。全てをどん欲に吸収した。私の『充電期間』がはじまったのだった。私はオペラの上演情報を集めて、あらゆる重要な上演を次々に見ていった。それは肯定的な意味で、過熱気味であり、まさに中毒であった。ダルムシュタット、ヴィスバーデン、フランクフルト、カールスルーエと、すべての上演予定を知っていた。長期間の軍事演習から戻ったとき、まず確かめるべきは、どんなオペラが見られるかということだった。目次
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出会い [2003年刊伝記]

「ほんとにジークムント? まさにジークムントだった」
ペーター・ホフマンとの初めての出会い

 「1979年2月、ミュンヘンで、久しぶりに、ラインハルト演出による『ニーベルングの指環』の上演があった。ジェームズ・キングが『ワルキューレ』で、ジークムントを歌うことになっていた。早朝から並んで、長い間待ってチケットが買えたときはうれしかった。直前になって、ジェームズ・キングがキャンセルし、ジークムントは、ペーター・ホフマンというテノールが歌うことになった。ペーター・ホフマンって、だれだろう。このテノールをまだ聴いたことがなかったし、この名前は私にとって全くの初耳だった。私は知人に尋ねて、その結果、ペーター・ホフマンが、際立った歌唱で、すでにバイロイトで注目に値する成果をあげているシュツットガルト歌劇場の若い歌手であることを知った。そこで、もちろん私は好奇心でいっぱいになった。私の席は二階の上のほうで、そこからは舞台も劇場全体もよく見え、全体をよく見渡すことができた。幕があがり、ジークムントが舞台に転がり込んだ。ジークムント? まさにジークムントだった。客席にささやきが広がった。私はまず、全くほんとうにジークムントに見えると思った。でも、歌はだめなんじゃないか。できるだろうか。最初の声のあと、もう私は口がきけなかった。この若く、魅力的なテノールは外見がまさにジークムントであるだけでなく、明らかに声もあった。ほとんど信じられないことだった。この瞬間から、私は全ての音を楽しんだ。すばらしい上演だった。観客は熱狂した。ペーター・ホフマンは大喝采を受け、幕間の話題だった。この時以来、私は、この名前に興味を持った。新聞もそうだった。彼に関する情報をすぐに集めることができた。ペーター・ホフマンは、バイロイトの新しいスターで、スポーツマンで、しかもボクサーだという。かなりびっくりしたが、まもなく、ボクサーではなくて、十種競技の選手で、落下傘兵だったとわかった。新しい英雄が生まれたのだ。新聞や雑誌に写真やうわさ話が載り、人気が高まっていった。」
   天才ペーター・ホフマンに直面することになった私の知人で経験豊かなオペラ通の女性や、熱狂的なワグネリアンたちが、ここに引用した報告で、大いにやったように、ジャーナリストたちも、歌手の私生活や外見について詳述した記事に尾ひれを付けた。それは、彼の人柄や、外見が不本意にも招きよせたといえよう。本人自身も公演の翌日、おどろきあきれながら、『彼は見栄えがよく、魅力的に演じるので、とにかくこの役に理想的である』と書かれた新聞を読んだものだ。
 ホフマン自身は「彼らは、私もまた、数時間も歌ったという事実をすでに忘れてしまっているのだ」とコメントした。彼が最高の芸術的水準で歌ったことも、彼らは忘れていた。最高に口うるさい音楽批評家でさえ、彼の声と表現力に最高の賛辞を述べざるを得なかった。というわけで、彼は1980年代を代表するワーグナー・テノールになった。尤も、ドイツ物の他の役も同様にすばらしい。「フィデリオ」のフロレスタン、「魔弾の射手」のマックスは特筆に値する。彼の声と舞台での存在感は、バイロイトでも、世界の重要な舞台でも同様に証明されているが、全く比類のないものである。大衆紙では、いつもながら「自然児」扱いされているが、それはワーグナーの森の舞台に立つ武装した主人公としての彼の舞台姿を投影したものにすぎず、この比類のなさは、決して『自然体』などではなく、集中的な役柄研究と厳格な仕事ぶりの結果である。

 彼が、オペラのほかに、ポップスを歌いはじめたとき、熱心なオペラファンも、この種の音楽に突如として興味を持った。そして、ポップスファンは大声でわめくこのタイプに興味津々になり、急きょ、オペラにかけつけた。あるジャーナリストは、全く熱狂的に書いたものだ。「彼はクラシックの鎖を引きちぎったのだ。古いオペラは死んだ。ペーター・ホフマン、万歳」 もちろん、クラシックにも、同様にポップスの分野にも、そういうものを絶対に受け入れようとはしない純粋主義者もまた存在する。今ではとっくの昔に、オペラ歌手が、いわゆるポップスをやるのは、当たり前のことになっているが、1980年代に、あえてこれを行ったのは、ペーター・ホフマン一人であった。彼はポップスとクラシック音楽間の区別が厳しい時代の先駆者であり、クロスオーバーが一般的に受け入れられた時代に彼を模倣した者たちの先駆けだった。オペラの舞台では、完璧なジークムントやパルジファルであり、若いオペラファンにとっては、ポップス歌手でもあった。世界的オペラ歌手であると同時にポップスターであると言えるのは、ホフマンが最初であり、当時は、彼しかいなかった。

 輝かしいバイロイト・デビューの後、20年に満たないころ、想像を絶することが起こった。不治の病、パーキンソン病が、ホフマンの生命力と生活力をむしばみはじめたのだ。多くの悪意に満ちた言辞が言い立てられた。彼の動きが全くぎこちなくなり、舞台上に無表情で立つようになった後は、アルコール中毒、麻薬使用、その他ありとあらゆる無責任な憶測がなされた。ペーター・ホフマンは自分の病気について話さなかったから、人々は彼に対してまったく無神経だった。ホフマン自身、病気を認めようとしなかった。気の毒がられるのが嫌だったのだ。『自分に、こんな病気は似合わない』というのが口癖だった。沈黙することで、この病気を克服しようとしたのだ。そうすることで、病気の進行を受容することを拒否したのだった。しかし、1999年の夏、公表を決意し、重荷を下ろした。彼は多くの予期せぬ慰めの言葉を得た。自分自身の状況と、この病気にかかった人やこれからかかるかもしれない人のために、ペーター・ホフマン・パーキンソン研究プロジェクトを設立し、例えば、ゴルフ・トーナメント組織などを通じて、基金を援助するといった活動を今日にいたるまで行っている。

 ペーター・ホフマンが発言している部分は、私と彼との長期間にわたる対談に基づいている。彼との対話を通じて私が自分でその言葉を理解したものである。その際、年代的順序を完全にしたり、コメントをつけたりした。引用した批評は、ペーター・ホフマンの業績を好意的に、かつバランス感覚をもって私が自分で、要約したものである。新聞批評の完全な一覧表を載せるつもりはなかった。マリタ・ターシュマン
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ヴォルフガング・ワーグナー談 [2003年刊伝記]

ペーター・ホフマン、輝ける男~ヴォルフガング・ワーグナー

lbktheatr.jpg 演出家、ゲッツ・フリードリヒは、リューベック歌劇場の専属歌手だったペーター・ホフマンに注目し、バイロイト音楽祭にふさわしいと考え、1973年8月12日に、バイロイト祝祭劇場において、パルジファルとローエングリンのオーディションを受けさせた。ジェス・トーマスのような声質、際立つ容姿の、長身で、金髪の現代的なタイプのペーター・ホフマンに、バイロイト音楽祭が興味を持ったことが、記録に残っている。
 1975年に、ホフマンのエージェントと、1976年の音楽祭の配役、すなわち、ローゲ、ジークムント、パルジファルについて交渉した。エージェントは、ホフマンがジークムントを引き受けたがっている旨、伝えた。バーデン・バーデンで、ピエール・ブーレーズ及びパトリス・シェローとの事前の話し合いのあと、1976年の「ニーベルングの指環」4作全上演の「ワルキューレ」で、ホフマンがジークムントとして配役表に載ることが決まった。ジークリンデ役は、まず、ハネローレ・ボーデ、その後、ジャニーヌ・アルトマイヤーと契約した。アルトマイヤーは1975年にすでにシュツットガルトの舞台でペーター・ホフマンとウェルズングの双児の兄妹として共演していた。二人はとても似ているので、実際に兄妹だと思った人もいたのではなかろうか。
 ホフマンはこの年、ジークムントに加えて、パルジファルを6回歌った。バイロイト史上最年少のパルジファルだった。それゆえ、彼のバイロイト初年は非常に忙しかった。彼はこの時期、大きな成功をおさめ、観客にもマスコミにも、熱狂的に歓迎され、祝福された。
 1977年、ホフマンは、オートバイ事故のため、残念なことに休演を余儀なくされた。それはまさに前代未聞のできごとであった。高速道路の駐車場で一台の警察車両が逆方向に走ってきたのだ。ペーターは避けられず、重傷を負った。しかし、幸いなことに、最悪の事態は免れた。彼は当時すでに、至る所で、ワーグナーで大きな成果をあげていたので、彼のパリのエージェントはおよそ1年分の契約をキャンセルせざるをえなかった。1978年のバイロイト音楽祭では、パルジファルとジークムントを再び歌うことができ、彼の人気と評価はますます高くなった。
 1979年には、ジークムントのほかに、ゲッツ・フリードリヒの演出で、ローエングリンを歌った。合計11公演で、仕事はさらに忙しくなった。すでに挙げた役に加えて、のちにはトリスタンとヴァルター・フォン・シュトルツィングが続いた。
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 ペーター・ホフマンは常に、非常に細かいところまで、十二分に準備ができていた。常に最善を心がけていた。であるから、彼との仕事は、容易で極めて快適であった。歌手が身につけるべき基礎的なことはすべて前もって済ませてあったから、すみやかに肝心な部分に進むことができた。彼は、全ての前提条件は自分で完全に勉強しており、仕事に、集中して、真剣に取り組もうとしていた。彼のことで、不愉快な思いをしたことは全くない。他の多くの歌手たちには、往々にして「とにかくそろそろ役を正確に習得して、作品に取り組んでください。」などと言わざるを得なかったが、彼にはその必要がなかった。
  バイロイトでひとりの歌手がさまざまの異なる役を歌うということは、容易なことではない。ペーター・ホフマンは、常にいろいろな面で努力し、その能力を証明した。1988年にバイロイトで、ジークムント、パルジファル、シュトルツィングの三つの役を歌ったことは彼の多様性を示している。どれも深い感銘を与える出来栄であった。今日の歌手たちは、スペシャリストであるから、非常に優れた役づくりをする。従って、役づくりに関する演出家の役割は部分的である。歌手は、役づくりに精神を集中するべきなのである。
 ペーター・ホフマンは、非常に付き合いやすい性格で、押し付けがましいところがなく、機転がきき、好ましい素朴さがある。その外見のよさや、スポーツマンらしさ、多くの独創的な考えなどを、厚かましい印象を与えることなく、発散していた。彼は人並みの自負心をもっていたが、けっして傲慢ではなかった。
 当時の祝祭劇場は、非常に自由な雰囲気だった。ユーモアあふれる、時には気楽で、挑発的なおしゃべりが飛び交っていたが、一方では、だれもがそこにいて、仲間の成功を喜びあったものだ。おおよそ家族的な雰囲気が支配的だった。オートバイでのスイス旅行や、FCワルハラ・チームを結成してのサッカーなども一体感を高めた。
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momo10rck.jpg 1983年にペーター・ホフマンのレコード「ロック・クラシック」が発売されたとき、当然議論がまき起った。それはオペラ界に限ったことではなかった。私は個人的に、ホフマンに、クラシック以外の音楽とのかかわりに対して警告したことも忠告したこともない。常に陰から、彼のポップスへの寄り道を擁護していた。このレコードの成功の波は、ホフマンを突然、3分の2のポップス活動へとひっさらっていき、専門分野であるクラシック活動は3分の1になったが、時期的にうまく配分すれば、問題はなかった。オペラ歌手がポップスを歌うことは、当時はセンセーショナルなことだった。確かに彼は、ポップスを歌うための前提条件を充たしていた。彼のポップスは、非常に優れた歌唱による高尚なものだった。しかし、このようなポップスは、いわゆる娯楽音楽界では、それほどまじめに受け止められなかったし、注目もされなかった。それは、まさに歌唱の質の高さが原因だ。その仲間と言えば、ヴェスタ ーハーゲンなどが思い浮かぶ。他方、クラシック界は、ポップスを「どうしようもない息子」と見なし、トリスタンを歌える者ならば、まさかポップスなどやるはずもないとの意見で一致していた。ところが、ホフマンはそれをやり、音楽的に人々を魅了し、両分野で著しい成功をおさめた。
 無理解な人間(バイロイト祝祭劇場の聴衆の中にもいた)が、私を非常に怒らせるできごとがあった。ペーター・ホフマンが文字どおり脅迫されたのである。もしポップスをやめなければ、バイロイト音楽祭でひどいブーイングを浴びせてやると予告する手紙がホフマンに届いた。そして、それは実行された。ペーター・ホフマンが、ひどく体調が悪いにもかかわらず、トリスタンを歌ったときのことだ。結局その後1週間治療が必要になった。難しい役を最後の力を振りしぼってやりとおしたが、どうしようもない吐き気のため、カーテンコールに出ることは不可能だった。そこで、私が舞台に出て、事情を説明した。頑張った歌手に対して大きな拍手とブラボーがわきおこったが、少数のブーもあった。このようなブーイングは我慢できないので、その後の上演の前には、バイロイト祝祭劇場にふさわしくない行為を示した文書をドアというドアにはりつけた。このような場合、私は病気の歌手を全面的に支持する。だからこそ、彼は次回のトリスタンでは、なお一層全力を尽くして歌い、大成功をもたらしたのである。
 新聞の反応はいかにもマスコミらしいものであった。少数の新聞がこのブーについて大見出しで載せ、ペーター・ホフマンは舞台で数回にわたって倒れた(歌手のコメントとして『台本にもそのように書かれているので、確信をもってそうしたのだ』)と書いた。しかし、さらに少数ではあったが、真実を書いた新聞もあったのは、気持ちのよいことであった。それでもまだ純粋主義者はペーター・ホフマンのポップスへの寄り道に対してブーイングを浴びせるべきだと考えていた。なんとも恥知らずなことであるが、事もあろうに、私が個人的にゲネプロに招待した観客がパルジファルの二幕の後、全く不当なブーイングをしたのだ。ゲネプロは練習の一部である旨、入場券にも、明示することにした。練習を大事にするのは、歌手の当然の権利である。ブーイングは、初日及びそれに続く公演の日まで待つべきだ。それに、個人的な反感によるブーイングはどんなことがあっても、私は容認しない。その男のブーイング中、大半の観客は、それに気づくだけの傍観者だった。私は彼らを追い出した。ここはサッカー場ではないのだ。
 大衆紙は、お城、ロールスロイス、オートバイ等々、ペーター・ホフマンの生活を、『バイロイトのハリウッド』のように作り上げた。ビジュアル化の時代にあって、歌唱力に加えて視覚的な印象が大きな役割を演じる状況がそういう事態を助長する結果を招いたのだといえよう。シェローの演出とそのときの共演者だったジャニーヌ・アルトマイヤーもそういう状況に大いに貢献していたと思う。これはなかなか興味深いことである。というのは、ここから『輝かしいペーター・ホフマン』が生まれたのだ。ホフマンはジークフリートを歌っていなかったのに、『絵本から抜け出たようなジークフリート』とよばれたものだ。しかも、いたるところでそう書かれた。しかし、おそらく、ホフマンにはジークフリートよりもジークムントのほうがはるかに似合う役だ。事実が流布されないというのは、全くもっておかしなことだ。想像と現実の区別がつかなくなってしまうのだろう。
phantoms.jpg ペーター・ホフマンは、バイロイトに13年間出演した後の1989年に、別の仕事に専念することに決めた。私はそれを理解し、我々は合意の上で、たもとを分かった。ホフマンは祝祭劇場をときどき訪ねてくれ、私はそれがうれしかった。他の歌手の場合、ときにはあったことだが、ホフマンは突然辞めたわけではない。
 我々は人間的にも、芸術的にも良い関係を保っていたし、良く協力しあっていた。私は彼との再会をいつも楽しみにしている。ヴォルフガング・ワーグナー
 バイロイト音楽祭の間、この前書きのためのインタビューに多くの時間を割いてくださった ヴォルフガング・ワーグナー氏に心より感謝します。マリタ・ターシュマン

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参考-2 [2003年刊伝記]

ペーター・ホフマン『英雄の半生』
Peter Hofmann - ein Heldenleben, Sonntag, 21. Oktober 2001Berlin, 01:43 Uhr, WELT AM SONNTAG

  病気に妨害されながらも、ペーター・ホフマンは引き続き音楽活動に対して積極的でした。1999年の10月と11月には新たなツアーに出かけました。『オペラ座の怪人』で相手役だったアンナ・マリア・カウフマンと共に、20以上の都市で、『ミュージカルとポップスからのハイライト』を歌いました。彼は自分の肉体的な苦痛の扱い方をよく心得ていたため、舞台上の彼を見た人は、病気についてほとんど何も感じなかったということです。このツアーのあと、最終的に歌手活動からは引退して、よりプライベートな生活をするようになります。
 2000年の12月、ペーター・ホフマンは、ソフィア・ラジオ・シンフォニーオーケストラと共に『2000年、聖夜』のクリスマス・ツアーを行って、再び舞台に立ちました。彼のクリスマスの歌をはさんで、コンサートのはじめと、終わりには、喜びにあふれながらも瞑想的なクリスマスの物語が、彼の友人である俳優のアーサー・ブラウスによって、朗読されました。

 その日の新聞には、ペーター・ホフマンに関することが載っており、さらにたいていはパーキンソン病関連の記事もありました。マイケル・J・フォックスや、モハメド・アリや、ローマ教皇に関する、数えきれないほどの記事のすみにペーター・ホフマンも『運命の仲間』として名前が載てはいたものの、ひとりの人物として、芸術家として扱った記事はほとんどなかった中、ジャーナリストのアクセル・ブリェッゲマンが 2001年10月の『日曜日の世界』誌に書いた記事は賞賛に値する例外であると伝記の著者は言います。ブリェッゲマンは『ペーター・ホフマン  英雄の半生』と題して、客観的に、しかし同時に、思いやりを持って、歌手の引退生活を、感情を交えず伝えています。

* * * 

  かのヘルデンテノールは重いパーキンソン病を患っている。彼は今はじめてこの苦難に対する闘いについて語る。

 ペーター・ホフマンは、何度も繰り返し、こんな夢を見ている。大勢の人々から逃げて、高層ビルのてっぺんに向っている。大勢の人の群れが彼を追いかけてくる。ビルの上に到着し、立ち止まって、『止まれ』と叫ぶ。そのあと『見るがいい。私に何ができるか』と叫んで、そこから飛ぶ。それでおしまいだ。そのあと、目が覚める。

並はずれた才能を持つヘルデンテノール。その彼が、レザー・ルックのジークムントとして、甲冑に身をかためたローエングリンとして、オペラ座の怪人として、その上、カントリー・コンサートでは、自信に満ちたエルビス・プレスリー歌手として、舞台に立っていたその時は、昔のまま、色褪せることはない。

2年前ペーター・ホフマンはパーキンソン病であることを公表した。モハメド・アリと同じ病気である。ホフマンはバイロイトの近くの村の古い学校の校舎を買って、改装して住んでいる。今はインタビューもない。新聞もない。トークショーもない。土曜日、彼は初めて例外を設けた。

 オーバープファルツの奥地の早朝。牧草地はまだまるで白い毛布のように霧が低くたれこめている。その向こうに太古からの休火山がぼんやりと見える。絵はがきのように美しい。ホフマンが馬から降りる。巻き毛の金髪。ジーンズに革のブーツ。57歳の身体は、いまなお、堂々として立派な体格を保っている。完璧なマルボーロ・カウボーイだ。かつて彼は確信的な非喫煙者だった。今はときに指の間にタバコを挟む。『でも、ただふかしているだけです』

 丘をはずみをつけて力一杯駆け上がることもできる。ゴルフクラブを握って背中のうしろに振り上げ、ボールをかっ飛ばす。病気には見えない。練習用のネットに飛び込むどころか、ボールは火山の上まで飛んで隣の牧草地に落ちた。『まあまあだ』とペーター・ホフマンは言う。彼のハンディは驚くことに今なお18だ。数週間おきに、農家の人が彼のボールを集めて持ってきてくれる。

 田舎の森の中の家の上の階で、ホフマンは音楽生活を送ってきた。グランドピアノ、ウィングチェア、厚いカーテン、寄せ木張りの床、ビデオとCDのコレクション。階下は白いタイル張りだ。そこには何があるのだろうか。現代的なジークムントはこの遊戯室から生まれたと言える。グループ『キス』のパンクっぽい漫画が描かれたピンボールマシーン、今もホフマンが遊んでいるビリアード台、それから、ちょっとしたまがいものに違いないピンク色の高級アメリカ車の模型。壁にはゴールド・レコードが掛けてある。オペラやカントリーの録音のそばに『ロック・クラシック』 ごく最近『オペラ座の怪人』に与えられたトリプル・プラチナが加わった。額縁にはオペラ座の怪人の仮面がぶらさがっている。歌手はそのキャリアのトロフィーを誇らしげに見せてくれた。

その時、腕時計が震えた。『薬の時間です』とホフマンはまったく普通に言う。一日に5回服用しなければならない。 そうすることで、ほぼ通常の生活ができる。彼は長い間その時計を探した結果アメリカで見つけた。それは『震動アラーム時計』で、時間通りに薬を服用するために発明された。けたたましく鳴ることなく、静かに警告してくれる。『特に劇場で客席に座っているときには便利です』

 ホフマンのパーキンソン病は密かに忍び寄って来た。まず身体の運動機能が時折止まるようになった。ちょうどツアー中で、そのときは何も気にしなかった。恐らく疲労がたまっているのだと思った。歌うのをやめる理由はなかった。あとから思えばと彼は言う。『すべてを軽く考えすぎていました。重大な病気だとは思いもしませんでした』 コンサートの批評は嘲笑的だった。ある批評には『今夜の歌手は家で寝ていたほうがよかったと言うべきだ』と書かれた。他のは『ホフマンはよく闘った』といった具合だった。彼のようなオペラの不死身の英雄もまた重大な病気になりうるとは誰も考えなかった。少なくとも彼自身想像だにしなかった。

 症状がひどくなって、治療を求める苦難の旅が始まった。ある医者によって『あなたはおそらくパーキンソン病です』と断言されたとき、その診断を信じたくなかった。『この病気は私には似合わない』というのがホフマンのホームページのキーワードになっている。それから彼はそれを普遍化する。『この病気はだれにも似合わない』 しかし彼のような男にはまさしくまったく、そして絶対に似合わない。カウボーイは病気にならない。そして、もしそうなった場合、認めたがらないものだ。

 ホフマンはマスコミの同情を呼ぶのが嫌だった。だから、病気のことを公表しなかった。『公表してからはずっと気が楽になりました』 彼は病気をひけらかして注目を集めるのではなく、病気と闘いたいと思っている。パーキンソン病研究を援助し、慈善ゴルフ・トーナメントやガラ公演を計画・実行する。自分のインターネット・サイトでパーキンソン患者のためのリハビリ施設を紹介、推薦する。

 時たま、片手を椅子に押し付ける。震えを鎮めるためだ。彼の声は豊かに響く。精神を集中して力強く話す。時々、病気はなんら打撃を与えていないかのように思われる。だからこそ、この病気は人類の敵であり、全力で闘って、根絶するべきなのだ。彼はときおり話を中断する。精神を集中するためだ。この現象を彼は『封鎖』と呼ぶ。『突如起こります。それだけのことです。突然激しい不安感に襲われます。全ての力を身体に集中させなければなりません。朝起きるとき、ほんとうにどうしたらいいかわからないことがあります』

  こういう虚弱感は、彼が舞台で演じていたときには、全然知らなかった感覚だ。クラシック音楽でもポピュラー音楽でも、強い不死身の役を常に追究してきた。そういう点では、ジークフリートとオペラ座の怪人、カントリー・ミュージシャンとロックシンガーの間に違いはない。

 ペーター・ホフマンは彼の役を自分と無関係の見知らぬ人物として演じたのではなかった。そういう役に彼自身の生き方を投影していたのだ。そして、それらは、常に前に進むという彼の生き方の指標となった。兵隊時代にすでに、彼にとって人生は冒険だった。ベルクツァーベルンのパラシュート部隊にいたころ、ホフマンはシャワーを浴びながら、口ずさんでいた。『音響効果がすばらしかったから』

 ホフマンは、ワーグナーの世界がヴィントガッセンの後継者を待っていたときに、オペラの舞台に登場した。彼は新しい世代を代表していた。憑かれたように精力的に人生を楽しむジェット歌手の世代だ。彼はヴッパータールでの公演終了後、オペラの扮装のままトゥールーズ行きの夜行列車に乗っていた。一連の「ワルキューレ」公演を開幕するためだった。疲労困憊して、ふらふらになってしまい、成功するとは思わなかった。『あのころはワルキューレを二公演、続けて、歌うことができた』と今の彼は言う。

 食堂の壁には、どっしりとした剣、ノートゥングが掛けてある。この剣は、世界を支配する神のヴォータンが息子ジークムントに強さの印として約束したものだ。ホフマンはこれを1976年にバイロイト祝祭劇場の世界のトネリコの幹から引き抜いた。そう、まさに彼はそれを引き抜いたのだ。ホフマンは、フランス人演出家パトリス・シェローのうるわしい月光の下で、気楽にくつろいでちょっとだらしない感じで座っていた。それから、ジークリンデのジャニーヌ・アルトマイヤーと一緒に、黒い幕が降りるまで、地面を転げ回った。

 これこそ、彼が一躍世界に認められた瞬間だった。これほど生き生きと活気に満ちたジークムントはいまだかって存在したことがなかった。愛すべき存在だった。うっとりするほど魅力的な男だった。彼ほど官能的なジークムントはいない。ペーター・ホフマンは生まれながらの英雄だった。

 今日までホフマンは奔放なおおらかさを失っていない。かつて、彼はこのおおらかさで、お楽しみ係として、くそまじめなバイロイトを支配していた。練習期間中の休日には歌手たちのためにフランケンの森を巡るオートバイ旅行を計画した。彼を動揺させるものは何もなかった。人気順位も熱狂的なファンも。

 今も彼は何一つ諦めてはいない。パーキンソン病を患っていても、子どものような遊び心を保っている。その瞳には今もなおユーモアの喜びが揺らめいている。それは、かつて圧倒的な紋切り型のワーグナーの枠からはみだした時と同じユーモアの感覚である。庭の二羽の白鳥にターザンとイゾルデと皮肉っぽく名付けている。何よりも愛したワーグナーをユーモアいっぱいにたたき壊そうというわけだ。それは、マスコミが彼をおおげさに祭り上げようとした、青い目で金髪の体格のよい『メイド・イン・ジャーマニー、ドイツ製』のジークムントといった、くそまじめなステレオタイプに抵抗したのと全く同じだ。

 実際のところ彼は今はもう自分の昔の録音を聴きたいとは思わないが、『そうは言っても、やっぱり時には誘われて、思いがけず部屋の入口に立ちどまって、往時を思い、すばらしかった時をもう一度味わう』と言う。彼は依然として現代的なジークムントのままだ。病気にもかかわらず、今も馬に鞍を置く。オーバープファルツ地方の静けさの中で、思い出を整理しようとしているのだ。そして、閉じた幕のうしろで、病気と闘っている。ビリヤード台の前で、ゴルフ・トーナメントの会場で、あるいは、朝霧の中を草原を越えて馬を駆けさせながら。そんな時、年はとっていても、また昔通りの飛び抜けた奴のように見える。まるで、夢の中で迫りくる人々の群れを逃れて高層ビルから飛び去るときのように、軽やかに見える。(2001年10月21日、日曜日 ベルリン)
* * * 

 パーキンソン病には、決定的な治療法は まだ ないし、まったく同様に、患者に施される治療法もわずかしかない。この病気は、患者によって、ひとりひとりちがった進行の仕方をするし、薬の効果も患者によってひとりひとり違うし、投薬の身体に対する負担の度合いも同じではない。薬の効き目は、同一人においてさえ、日によって違う。パーキンソン病は挑戦である。日々、新たな事態に直面せざるをえないし、いつも同じようにうまくいくとは限らない。
 よりによって若くしてパーキンソン病にかかった人たちは特に深刻である。なぜなら、生活も仕事も現役の最盛期に、病気にかかってしまうのだから。このころは、まず第一に年齢と身体の衰えを結び付けて考える時期でもあり、まだ若さと欠点のない身体こそが最高の財産であるようの思える時代でもある。突然、もはや以前のようには、身体が機能しないということは、受け入れ難い。いったいだれが、業績だけが意味を持つ社会において、自分の弱点を喜んで認めたがるものだろうか。
 突然、舞台上にしろ、あるいはカメラの前にしろ、もう二度と立てなくなるなら、外科用のメスが二度と握れなくなったり、エンジンの修理ができなくなったりするなら、なんという事態だろうか。  パーキンソン病は未経験の境界線を設ける。当然のことが、挑戦になってしまう。全く思いもしなかったことが、突然困難になる。
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参考-1 [2003年刊伝記]

ハンナ・シュヴァルツ~2009年夏の驚き
写真:ハンナ・シュヴァルツ@東京1993(写真は情報を下さった方が1993年ベルリン・ドイツ・オペラのトリスタンとイゾルデで来日の時にNHKホールの楽屋入口で撮影なさったものです。ありがとうございます^^+)
hanna.jpg私のように遅ればせのファンではない、ずっと前からのペーター・ホフマンのファンの方々には周知のことだった・・みたいです・・伝記(1983年)の中で、若すぎるという周囲の反対を押し切って共に19歳で結婚し、苦楽を共にして、1976年、バイロイトへの出演がうまくいって間もなく別居し離婚に至った妻アンネカトリンが『私の夫のように突然、一躍有名になるような人は、特別の人生を送らざるをえないものです』と言っていますが、こういう人にはやはり色々あるものなんだ・・という感じです。

ハンナ・シュヴァルツ(アルト、メゾソプラノ1943.8.15- ドイツ)は、レーザーディスクで視聴した1980年バイロイト音楽祭の「ニーベルングの指環」の、北欧、ゲルマン神話の主神ヴォータンの正妻である結婚の女神フリッカが、非常に印象的でした。「ラインの黄金」と「ワルキューレ」に登場しますが、特に「ワルキューレ」でのフリッカは迫真でした。この映像は、たいていは退屈なフリッカを含めて、全体的に衝撃でした。ペーター・ホフマン演じるジークムントと直接絡む場面は全然ありませんが、彼女の一言、一言が、単なる空虚な台詞ではなく、その関係性を強烈に示すものでした。生々しい感情が、テレビ映像からさえ、はっきりと伝わってきました。

当たり前ですが、すばらしい歌手だけど、ホフマンとの関係は、相手役でもない、単なる共演者でしかないと思っていました。ところが、そうではなかったことを、ごく最近知りました。ホフマンのファンの方からの情報です。

 2003年の伝記に
「1964 年には長男のペーターが生まれ、1965年にはヨハンネスが続いたので、私は突然妻子の扶養という義務を負わされることになった。それはすなわち、両親がしてくれた以上に、自分の家庭をよりよく築いていくという大きな責任を負うことだったが、うまくやってきたと思う。子どもたちとは、一番下のレオにいたるまで、非常によい関係を保っている。今では、大きい子どもたちは、二人とも自分の家庭を持っていて、私にはすでに4人の孫がいる。」
という下りがあります。この「一番下のレオ」は、ずっと気になっていましたが、今まで情報がありませんでしたし、熱心に調べる気もありませんでした。

 要は、1990年にマスコミに暴露されたということのようです。情報をくださった方のお陰で、1990年の新聞記事の断片を読むことができました。

 1980年代後半から徐々にパーキンソンの影響が発現しはじめて、不調が目立つようになり、まさかパーキンソンという難病とはだれも思い及ばず、不調の原因があちこちに求められた・・その一環だったようです。新聞記事から、そう思いました。

 欠落もあって残念なのですが、以下、1990年の新聞記事です。
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ペーター・ホフマン 隠し子 浮上
彼は少年ジークフリートみたいだ
ペーター・ホフマン(46)はハンブルグの「オペラ座の怪人」として自分の声と悪戦苦闘している。消息通は、彼はこのハンザ同盟都市でその大きな秘密にそれこそ間近に直面せざるを得ないため、その結果、声の調子が悪くなるのだと、推測している。つまり、かつてのバイロイトのスターはハンブルグに隠し子がいる。9歳のレオ・ハインリッヒだ。彼はまるで少年ジークフリートみたいだ。
hanna_2.jpg写真の説明:
左)「幼いジークフリート」 レオ・ハインリッヒ
右)ペーター・ホフマンとハンナ・シュヴァルツ
1979年 ハンブルグ歌劇場で
訳者註:同年、二人ともナクソス島のアリアドネに出演しています・・ホフマンはテノール歌手/バッカス、シュヴァルツは作曲家
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ペーター・ホフマン: 彼女は、赤ん坊が欲しい。養育費はいらないと言った。

ペーター・ホフマンは1980年にバイロイト音楽祭でワーグナーの「ワルキューレ」でジークムント役を歌った。フリッカ役は卓越したアルトでありメゾ・ソプラノでもあるハンナ・シュヴァルツ(現在46歳)だった。

ハンブルグ出身のブルネットの女声歌手とブロンドのヘルデンテノールはあの「緑の丘」でプライベートな交際をした。ある雑誌のインタビューによれば、ホフマンはシュヴァルツに「あなたの子どもが欲しい。どんな責任もとらなくていい。養育費はいらない」と言われた。ハンナ・シュヴァルツは9ヶ月後、彼女のバイロイトベビーを出産した。レオ・ハインリッヒである。

幸せいっぱいの母親は、ブロンドのまるまる太った赤ん坊を、生後4週間になるかならないうちから、ニューヨーク、パリ、ロンドンと、全ての公演に同伴した。

ペーター・ホフマンは、約束に反して、日増しに少年ジークフリートに似てくる、隠し子に会っていた。現在は、レオ・ハインリッヒに会うことを避けざるをえない状況である。というのは、ハンナ・シュヴァルツが、この春、ジャズ作曲家のジャンマリー・ウィルソンと秘密裏に結婚したからだ。

「ペーターは、ハンブルグで『オペラ座の怪人』をやっていますが、ハンブルグのハルフェステフーデに彼の隠し子が住んでいるのです。これは彼にとって非常に気になって落ち込む原因です。ペーターは過去に苦しんでいます。これが、声にも影響を及ぼしているのです」
友人の一人は、こう説明した。
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かの「緑の丘」では、みんな知っていた。ペーター・ホフマンとハンナ・シュヴァルツの間に結婚外の息子があることを。でも、全員が秘密を守った。歌手仲間も知人も友人も、堂々たる偉丈夫のヘルデンテノールと美しいメゾソプラノの秘密を快く認めていた。それなのに、水曜日、バイロイト音楽祭の初日に合わせて、二人の世界的オペラ歌手の情事が暴露された。

以下、興味深い詳細:
ホフマンの息子、レオ・ハインリッヒ(9)はまさしく1980年音楽祭の子供である。当時、ハンナ・シュヴァルツはニーベルングの指環のフリッカとして、ジークムントの死を望んでいた。(欠落)・・彼はまだ頂点はきわめていなかった。かつての十種競技選手はバイロイトで、彼の人生において重要な二人の女性と出会った。一人は、ハンナ・シュヴァルツで、彼の子どもをもうけた。ホフマンはその子にずっと定期的に会っている。もう一人は、デボラ・サッソンで、彼の妻になった。

このように、ワーグナーオペラのバイロイトには、ソープオペラもある。1982年、ホフマンはパルジファルとして両女性と同時に舞台上にいなければならなかった。サッソンとシュヴァルツは、花の乙女役として、3000の目と耳を前にして、嫉妬の火花を散らした。リヒャルト・ワーグナーは、女性たちにパルジファルを得ようと必死にさせているのだから、そういう役どころだったわけだが・・事情を知っている者にとっては、ものすごくおもしろかった・・ なにしろ、こう叫ぶのだから・・「私が一番美しいわ。いいえ、私が・・
(以下欠落)・・」
訳者註:シュヴァルツは、1982年と1983年に1幕フィナーレのアルトソロと花の乙女を担当しています。サッソンは毎年(1982年~)花の乙女として出演しています。

hanna_3.jpg写真の説明:
バイロイト歌手のラブストーリー:ペーター・ホフマンとデボラ・サッソン(写真左:ここでは省略)彼女は舞台で、彼女より以前の恋人だったハンナ・シュヴァルツと一緒に、各々がホフマンを自分のものにしようと歌った。上(ここでは左)の写真は、息子のレオ・ハインリッヒと一緒のハンナ・シュヴァルツ。父親はペーター・ホフマンで定期的に坊やと会っている。

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2011年10月、新国立劇場「サロメ」にヘロディアス役として出演。この時、息子同伴だったそうです。見かけた方によるとペーターそっくりだったとか。
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