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1985年バイロイト音楽祭 [ルネ・コロ自伝]

 1985年、バイロイトで最後の大役、すなわちタンホイザーを歌うことになっていた。他の大役はバイロイトですでに全部歌っていた。早世したジュゼッペ・シノーポリの指揮、ヴォルフガング・ワーグナーの演出だ。
   サンフランシスコで親しい歌手仲間のヒルデガルト・ベーレンスたちと一緒に、『ニーベルングの指環』に参加していたので、サンフランシスコからバイロイトへ飛んだ。五週間ほどの練習期間だった。
 サンフランシスコの公演でかなり参っていたうえに、花粉症が出始めていた。体調は最高だったが、ただ粘膜だけがかさかさに乾いていた。従って、当然声の調子もよくなかった。はじめはまだ大した問題にはならないと希望的観測をしていた。
 バイロイトで借りていた家には素晴しく美しいテラスがあった。このテラスの上に桜の木がいまいましい薄桃色のつぼみをつけた大きな枝を広げていた。
 桜は花を咲かせ、私はくしゃみをした。
 一週間過ぎ、二週間、三週間が過ぎ去った。私はくしゃみをし、桜は咲いていた。私は毎日、毎日、今はまだ健康上の理由で自分の役を歌うことができないが、明日は状況は絶対に改善するだろうと、希望的観測を述べてシノーポリをなだめていた。
 だが、状況は良くならなかった。
 私は医者に行って、花粉症の薬を注射してもらった。しかし、効果はなかった。適切な音を出すどころか、私はくしゃみをし続けていた。幸いヴォルフガング・ワーグナーもジュゼッペ・シノーポリもとても冷静で、こういう状態にもかかわらず、私に対して好意的だった。幸いリチャード・ヴァーサルが練習期間中代役を務めてくれていた。それでも、オーケストラ練習は、自分で歌おうと頑張った。しかし、すぐに喉はまだ完全にからからにひからびていて、そういうひどい重圧に反応した声しか出ないことがすぐにわかった。
 そこで、ついに、評判のいい私の耳鼻咽喉科専門医、ラインハルト・キュルステンに見てもらうためにウィーンへ行く決心した。私は操縦士免許を持っていたので、自家用機でウィーンへ行き、すぐに治療してもらった。(ついでに言うと、もうひとりの私の喉の専門医がベルリンのテオドール・リュッファーだ。彼にはこの十年困ったときに助けてもらっている) さあこれですべてがよくなると私は思った。一両日もすれば、声はまた元通りになるだろう。
 医者に行ってからはかなり良くなっているように感じていたが、ゲネプロもヴァーサルに引き受けてもらい、シノーポリとワーグナーにプレミエには歌うことを確約した。
 プレミエの日、11時ごろ祝祭劇場に行った。歌ってみると、驚くほど、楽々と声が出た。二十分ぐらい歌って、いい気分で朝食をとるために食堂へ降りて行った。そのあと、また練習のために戻った。
 へなへなと膝をついて崩れ落ちてしまった。
 また声がひあがってしまったのだ。
 高音はもの凄い努力をして、やっとのことで絞り出さなければならなかったし、それも長くは続かないことに気がついた。
 大恐慌!
 どうするのだ?
 五時間後には、初日の幕が開く。私はさらに試してみた。そして、当然うまくいかなかった。私はうなり、大声で叫んでいた。
 その間にも、一休みするためと、何か飲んで喉の渇きを潤すために、何度も食堂に行った。しかし、無理矢理に数小節歌うことができるだけだった。その後にはすぐにまた声が出なくなる。昼の二時ごろには、私はすっかり疲れきってしまい、三時半に事務所に電話をかけて全力を尽くしてもだめだということを伝えた。私がどんな気持ちでそうしたか、だれもが自ずと理解してくれることを願うのみだ。
 なんともタイミングが悪かった。
 父は、まだバイロイトに来たことがなかったし、ワーグナーを崇拝してもいなかったが、タンホイザーのプレミエに来ると知らせてきていた。父は、上演の前に、楽屋で私に会いたいと思ったが、私がそこにいなかったので、守衛に尋ねた。不機嫌な感じを与えるフランケン方言で、守衛は父の質問に答えた。「コロさんは、そこにはいません・・・」
 「なんだって。どうしてだ。冗談を言ってるのか。彼はきょうタンホイザーを歌うのだ」
 「違います。多分もう車で行ってしまいましたよ」
 息子が父をワーグナーに近づけ、ワーグナーのオペラを見せることができる機会は失われてしまった。というわけで、私のキャリアにおいてこれ以上ないほどの最低の最低というだけではなかった。
 バイロイトの緑の丘を恐慌状態であとにしてから、アパートにあった物をまとめて、車で去った。アウトバーンに入ったとき、祝祭劇場からの生中継が始まったのをラジオで聴いた。
 今なおバイロイトのことを考えると、今まで全く見過ごしていたことに突然気がつく。テラスに向いていた寝室は古い絹の壁紙だった。午前中はいつも声が出なかったけれど、花粉症だけでなく、壁紙も関係があったとは全く考えもしなかった。
 頭の中で口ずさみながらハンブルクに向かった。妻が新たに授かった小さな娘、フローレンスと一緒にいる病院の前に車を止めて、エンジンを切ったちょうどその瞬間、タンホイザーの生中継放送の最後の音が鳴っていた。
 病院の階段を上って、上の階に行き、妻の部屋に急いでいたら、年配の夫婦が廊下の壁添いのベンチに腰掛けていた。二人は一緒に沈み込むような感じでぼんやりと前を見ていた。二時間後、妻と別れて帰るとき、またあの年寄り夫婦の前を通った。今度は両手が震えており、蒼白のおちくぼんだほほを涙が流れていた。通り過ぎながら、より大きな悲劇があるのを意識した。すべて相対的なものなのだ。
 この現実認識は、ただちに追いかけてきたマスコミとの関わり方においても、助けになった。大概のジャーナリストの頭には私がプレミエを前に不安に駆られてキャンセルしたのだろうし、要するにタンホイザーは歌えないのだろうと報道することしかないのだ。

 そして、私の状況をもう一度説明し、健康を取り戻せば、残っている最後の三度の公演を引き受けられるであろうと言うためにヴォルフガング・ワーグナーに手紙を書いた。返事はどちらかと言うと、誤解と偏見があったようだった。以来、私たちの関係はと言えば、お互いに気分を害したままだ。
 花粉症けんかというところだ。
 タンホイザーは、ジェノヴァ、ハンブルク、ミュンヘン、ベルリン、ケルン、ロンドン、東京で歌い、成功している。


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