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1981年スカラ座開幕公演 [ルネ・コロ自伝]

1981年12月7日 ミラノ・スカラ座シーズン開幕公演 ローエングリン
クラウディオ・アバド指揮、ジョルジュ・ストレーレル演出pp.161-168

   ローエングリンに関しては、1980年代のはじめには、トリスタンに対するような興味はもはや持っていなかった。とにかくあまりにも頻繁に歌いすぎていた。そのころまでに、百回以上歌っていた。だから、ちょっと休みたかった。だが、ジョルジョ・ストレーレル(Giorgio Strehler)とクラウディオ・アバドという組み合わせは、魅力的だったので、1981年にミラノへ行った。ミラノのスカラ座がドイツ・オペラで開幕されたことはまだなかったということもあって、こういう面からも名誉ある仕事だった。私は、イタリア的なメルヘンチックで軽やかなローエングリンを期待していた。だから、この仕事は、とにかく楽しみだった。それが、思いがけないことになってしまった。
    ゆっくり休んで、元気満々で、私はこの北イタリアの大都市に到着すると、すぐホテルからスカラ座へと乗り込んだ。演出家も共演者たちも全員集合していた。エルザは魅力あふれるアンナ・トモワ・シントウが演じた。ストレーレルはいつものように叫びまくりせわしげに走り回っていた。ザルツブルクのときから、すでにこういうことは知っていたから、今更驚きもしなかった。
   彼はまずローエングリンの登場場面について、その思いつきを説明した。それはいまだかってないほど、ユニークなものだと、彼は非常に誇らしげに告げた。舞台上には、直径およそ1.5メートルの黒く塗った柱が数本、二列に向かい合って立っていて、これは、ローエングリンの到着に際して、左から右へ、そして、逆に右から左へと動くことになっている。ローエングリンは、前面にある一本の柱のかげに、隠れていて、人々に気づかれずに、その隠れ場所から歩み出ると、突然、舞台前面中央に、輝かしい光に包まれて立っているというわけだ。
   非常に美しい登場の仕方だ。ただ、とても残念だったのは、作品の論理に添って、はめ込まれておらず、作品の内容に合った感覚が犠牲になっていたら、最高にすばらしいギャグも私を納得させないということだ。合唱が数小節歌った後で、私は後ろ舞台に向かって歩かなければならない。つまり、30ないし35メートルの距離を進むわけだ。壁にプロジェクターで映し出された白鳥に挨拶して、再び国王のいるところまで前進。特に不明確だったのは、それならば、実際のところローエングリンがその場所に現れる必要があるのかということだった。私は、彼はいつも聖杯のつけた護衛と共に登場しなければならないと思う。それなのに、柱の間から登場したあと、白鳥にむかって30メートルも後方に走っていかなければならないというのは、一体、どういうことなのだろう。とにもかくにも、その白鳥こそが聖杯がつけた護衛なのだ。
   私は、自分がこういうことにあまりにもこだわりすぎるのはわかっている。いずれにせよ、失望が顔に出てしまったのだろう。ストレーレルは、私の演技をそのように解釈した。ただちに、私たちの間に壁ができ、雰囲気が壊れた。他の歌手たちと話し合ったとき、彼らは私にこう説明してくれた。数日来、ここのところではぼんやり立っているが、そもそも何のことやら意味がつかめないから、実際のところどうするべきかさっぱりわからない。
   その後10日間がこんな具合で過ぎた。ストレーレルは、ひたすら、彼の柱をいじくりまわし、私たちを無視した。彼の機嫌が多少いい時を見計らって、私は彼に、実際のところ、あの場面は何を意図しているのか、質問した。その日まで、すでに一週間以上過ぎていたにもかかわらず、私たちは演出意図が全然わからなかったのだった。
   彼は、血わき肉おどるという感じのいかにもイタリア人らしいイタリア語で説明してくれた。ローエングリンは、いわゆる『ドイツ的な聖人たち』 といった種類のものとは無関係だし、エルザの存在も全然知らなかったのだ。彼はただ単に彼女に出会ったにすぎない。なぜならば、彼は、戦争に際して国王を助けて戦うために、天上から降りてきたのだから。「戦士らしく」「これで十分だ。(Porco - basta!)」
   ローエングリンはエルザをはっきりと知っていたし、彼が地上に降りたのは、人間になって、人間の最高の特質であって、冷厳とした聖杯騎士団には存在しない愛を望んだからなのだと、私は遠慮がちに反論した。彼は、叫んだ。君たちドイツ人はいつも、一種の『聖人』 を欲しているようだ。だが、そんなものはくそくらえだ。まったく、くだらない。ローエングリンは「戦士」であって、「国王と共に戦うために、地上に」降りて来たのだ。
やれやれ、そして、こういう具合になった。合唱団はプロシャ式の膝を曲げない直立歩調で行進しなければならなかった。こんなのは、プロシャ軍にとってさえ、多大な努力を要するものだから、ミラノ・スカラ座の合唱団にとっては全くもって不可能なのは目にみえていた。一方、歌手たちは第二次世界大戦のドイツ軍の鉄兜をかぶらされた。それは、真っ黒で、SSと書いてあった。ドイツ人はみんなナチで、ワーグナーに全ての責任があるというわけだ。
   そのとき、私たちのところでどれほどファシズムが横行していたかを、イタリア人に非難させてよいものかと、思った。イタリア人だってファシズムに陥り、少なくとも多少はファシズムに貢献したのだ。それなのに、よくも安易にそういう演出ができるものだ。
   二日後、最初のドレス・リハーサルがあった。ストレーレルの舞台監督 Ezio Frigerio が責任者だった。私は武装した騎士の衣装を身につけさせられた。それは、中世の勇士だってだれもあんまりうれしくなかったにちがいない格好だった。私も全然うれしくなかった。背中のひもをきつく締められたあとは、息もできなかった。だれでもわかるように、息ができなければ、歌う事はできない。Frigerio は間違いなく、こんなことをただのドイツ人ひとりに対して考えつくとは全く思えないのだが、イタリア人テノールに買収されて、私を殺そうとしたに違いないと確信したほどだ。そういう具合に締め付けられたものだから、声に影響が出た。やれやれ、言葉もない。私はFrigerio氏に、難しい役を歌わなくてはならないのだし、全部が鉄とブリキで出来た、30キロ以上の重さの重装備の甲冑を身につけていたら、良くできないと思われるから、違うのにしていただきたいと、非常に丁重にお願いした。
   彼はいかにもイタリア人らしい微笑みを見せたので、わかってくれたと思った。ところが、次の日、試着室へ行くと、まったく同じだった上、さらにその上に、当時はまだ婚約者だったベアトリーチェが持ち上げることができないようなマントを羽織ることになっていた。私は再び直してもらいたいと伝えた。私はこの重装備の武具を身につけたくないし、さらに付け加えれば、何よりも重要な事は、私はコートスタンドとしてではなく、ローエングリンとして契約したのだ。確かに武装はしていなければならない。ストレーレルはローエングリンは戦士であるという点に立脚しているのだ。私はそうは思わない。私は「戦士」ではない。非常に広い意味ではそうだろうが、私はがらくたを身に着けるつもりはない。
  さらに二、三日、そのままけいこを続けた。声はさらに酷くなった。このようにして、総稽古の前日になった。朝、スカラ座に行ってみたら、毛ほども軽くなっていない、不寛容そのものみたいな、相変わらずの甲冑に出会った。
   共演者のひとりが、私の衣装部屋にやってきて、これは前代未聞の最大の破廉恥行為かもしれないと言った。しかし、それは私の衣装のことではなくて、全く別のことを言っていたのだった。彼は私にイタリアの新聞を読むようにと手渡した。大きな文字の見出しはこうだった。「太鼓腹の銀行家、ローエングリン」 私はこのプロダクションの直前に、ダイエットしていたものだから、この一文は特別ショックだった。私は甲冑と新聞記事ををひっつかむと、舞台へ突進した。
   まさに「戦士」が目覚めたのだ。
   ただちに時の声をあげて舞台に登場した。みんな、あっけに取られて声もなかった。私は甲冑を聖なるスカラ座の舞台に叩き付け、Frigerioとストレーレルとアバドにはもちろんのこと、客席に座っている連中全員に新聞を示して、舞台上から怒鳴った。「プレミエ開幕前に、職員が歌手を誹謗するインタビューに応じるような劇場にもはや用はない!」
   私は荷物をまとめると、ベアトリーチェと一緒に、Ascona にある、母から相続した、小さな家に車で行った。ただちに白熱した電話が飛び交うことになった。私は、完全に鼻づまりだったので、電話に出なかったから、電話の応対は、かわいそうなベアトリーチェが全部引き受けざるを得なかった。
   翌朝、とうとうスカラ座の監督が自ら電話をよこした。私としては、まだ劇場と縁を切るべきたとは思っていなかったから、劇場が関わっていないくだらない話は忘れてもいいところだった。
   マエストロ・アバドからも電話がかかってきた。これは彼の最初のローエングリンなのだ。とにかく彼はこの件には全く無関係だし、彼を喜ばせるためなら戻ってもいいと思った。明日のゲネプロ(最終総稽古)には戻ると約束した。
   こういうわけで、翌日午前十時ごろには、再び劇場に行った。私の甲冑にまだ変化はなかったが、もしかしたら、恥ずかしさですでになんだか相当さびているようだったが、とにかくそれを身につけるしかなかった。共演者がまた最新の新聞を持ってきた。もういくつか新しい記事があって、私が一方的に非難されていた。私は何も言わなかった。なぜなら、イタリア式になだめられるだけだから。
   ちゃんと声も出ず、不機嫌に、ゲネプロを終えて、ホテルに戻ると、再び荷物をまとめて、Ascona に行った。ついに、翌日、ベアトリーチェに、私の代理として、キャンセルを伝えてもらった。
   ただちに電話が熱く鳴り響いた。ストレーレルはローエングリンの演出から離れていた。彼はジャーナリストにもう演出はやれない、それに関して何もすることはないだろうと話した。私がこのプロダクションにいるかぎり、彼はたしかに何もできなかったという点では、彼の言ったことはまったく正しい。引用した文章以外に、演出意図について、全期間を通して、なんと、何一つ説明を受けなかった。わたしは左へ行くべきなのか、右へ行くべきなのかということさえ、わからなかった。そして、最近十日間は、彼はもはや劇場に姿も見せず、助手の女性にけいこを任せきりだった。
   私たちはドイツに車で戻りたかったので、プレミエの日に、預けてあった残りの荷物を取りにミラノへ行った。ホテルはいわばスカラ座のセンター事務所だということを知っていたので、無用な騒ぎを起こさないために、ベアトリーチェがひとりで車でホテルに行った。その間、私は別のホテルで待っていた。そのホテルで、私はジャーナリストのGudrun Glothと会うことを約束していた。彼女は客演に関する大作を物にしたいと望んでいた。後で、ハンブルクから来ていた、私の録音プロデューサーのKlaus Laubrunnが合流した。彼はプレミエを見たいと思っていたのだ。彼は私に、とにかく歌うべきだとしつこく迫った。そうすることによって、一般の観客に感銘を与えるのであって、そうでなければ、みじめなだけだ。私は決して破滅型の人間ではないし、彼の言う事はもっともだったので、気持ちが和らいだ。
   後退したり、前進したりで、へとへとになりながらも、私は初日をそこそこのレベルでこなした。私にとって最高の舞台ではなかったが、観客は大喜びの大成功だった。そして、幕が降りた後、ストレーレルとFrigerioも突如舞台に登場して挨拶をした。私たちはほとんど目を合わさなかった。ちょっと気がついたこと。この公演は音楽的にも問題があった。ローエングリンで、このときのミラノのようなバラバラの合唱は一度も聞いたことがない。歌い始めるのが早すぎる歌手たちがいても、他の歌手たちはそれを止めようともしないのだ。当時、このプロダクションが失敗だったことからも、アバドはまだ指揮者として秩序を維持する事ができなかったことがわかる。
   翌日の新聞には、天才的なストレーレルの演出がいかなるものだったか、そして、ローエングリンの新たな世紀が始まったと書かれていた。私としては、この新たな世紀には、もう歌う必要もないのを単純にうれしく思っている。
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