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バイロイト音楽祭1977年 [ルネ・コロ自伝]

「はじめよ!と、判定役が叫ぶ」
バイロイトとテレビ番組 pp.98-106
1977年バイロイト音楽祭「ジークフリート」ピエール・ブーレーズ指揮、パトリス・シェロー演出

   1973年、ヴォルフガング・ワーグナー演出のマイスタージンガーに出演。エヴァちゃんはまたハンネローレ・ボーデで、ザックスは、その当時は初役だったカール・リッダーブッシュだった。彼はあまりにも早く亡くなってしまった。凄い配役は、ベックメッサーで、クラウス・ヒルテだった。
   マイスタージンガーの二年後の1975年はパルジファルの新演出で、非常にやりがいがあった。二十年来ずっとバイロイトの唯一の演出だった、独創的で忘れ難い、ヴィーランド・ワーグナーのパルジファルのあと、はじめての新演出だった。ヴォルフガング・ワーグナーの新演出も良かったと思う。マスコミにも受け入れられた。

   このシーズンの終わりに、ヴォルフガング・ワーグナーは、私に、ジークフリートを歌うことができるかどうか質問した。もちろん喜んでやりたいが、同時に「神々の黄昏」をやることはまだできないというのが、私のこたえだった。はじめから両者をやるのは負担が重すぎるだろうと思った。
   そして、この指環は全部若いフランス人が演出することになっており、指揮はピエール・ブーレーズだといううわさだった。この天才少年はパトリス・シェローという名前で、パリではすでに世間をあっと言わせるような大成功をおさめていた。うわさをきいて、私はシェローと会いたいと言った。それは、彼が、別のものではなくて、まさに「リング」を演出したがっているのだということを確信するためには、彼の演出構想について知りたかったからだ。ここ数年、残念ながら、少なからぬ演出家に対してそういうことを確認せざるを得なかったことがままあった。
  私は、繊細で、非常に神経質な、かつ、何よりも自信にあふれているくせにまったく自信がないようにも見える若い男と出会った。彼が私に話したことは非常に説得力をもっていることがすぐにわかった。彼の演出は、一部の人たちが即座に悪意を持って解釈したように、政治的な意図しか持ち得ないというよりは、非常に演劇的だったと思う。シェローは、動き、人間関係、演劇的な時を演出した。それは、まさしくシェイクスピアの演劇だった。100%シェローと考えが一致したわけではないにしろ、良い演劇なら、不都合はすぐに忘れて、妥協できるから、シェローと、相手役のギネス・ジョーンズ、ハインツ・ツェドニク、ドナルド・マッキンタイヤーと仕事をするのはとても大きな喜びだった。
   後に、シェローは「リング」に関する自著の中で私のことをこう書いた。私は非常に才能があるが、同時に多少怠惰なところがある。これは正しい観察だ。ただし、私の怠惰さというのは、歌手としての自己防衛に起因するもので、よく考えた結果なのだ。彼のような演劇の演出家の要求する事を歌手が全面的に実行に移したら、あっという間に声がだめになってしまうだろう。(若い世代に警告しておく!) オペラという芸術形態は、演劇とは全く異なる身体の扱い方が必要なのだ。ここのところをよく考えるべきだ。歌うということはとにかく緊張をはらんだ停止状態でこそ成り立つのだ。その状態でなければ、美しく歌うことはできない。
 
  オペラと演劇はどこが違うか、ちょっとした出来事を紹介しよう。これは、バイロイトのジークフリートで起こったことだが、脚を骨折したとき、薮の陰に隠れて歌うように求められた。 
  そこで、私は、私用の薮の後ろのバー用の腰掛けに座り、前には楽譜を立て、時々ちょっと喉をうるおすために、あめ玉とコカコーラをその上に載せておいた。観客からは私は見えなかった。その公演では、ただ私の声だけが聞こえていたのだ。私の役、つまり、ドイツの伝説の勇士の役は、演出家シェローおんみずから演じた。南国の黒髪の男が私の金髪のかつらをつけると、とてもおかしく見えた。それで、落ち着かない雰囲気だった。まったくひどく誇張して、身振りはやたらに大きく、細かいところまで感情豊かだった。私たちとのリハーサルのときは、とても美しくて感動的だったのだが、あの晩は全体的に私の趣味ではなかった。
(この時の写真がバイロイトのHPにあります。とても小さい白黒写真ですが、こちらです)
  一幕の後、彼は汗まみれになって二人の共用の楽屋に入ってきた。私は気の毒そうに彼を見て、言った。 「親愛なるパトリスくん、ご自分の演出がどんなに骨が折れるかわかったかな。私の場合はその上に歌わなければならないんですからね」 それから、私は彼が誇張しすぎているということも説明した。「そう。わかっていますが、どうもひどくあがってしまって」
 オペラと演劇の違いが非常にはっきりとした、面白い思い出だ。演劇は完全に身体を使い尽くすことが可能だ。それに対してオペラは歌唱のために静止した状態が必要なのだ。だから、動きと静止に関して、正しい認識を持つことが、歌手の為すべき仕事なのだ。またこういう場合もある。相手役のギネス・ジョーンズと、最後の二重唱 "Ewig war ich, ewig bin ich""の最後の音を、楽譜に全然書かれていないのだが、2点ハ音で歌った。しかし、これは、その時はひどく走り回ったりせずに、一度試してみただけだった、動きが激しい場合にはこんなことは所詮できはしない。バイロイトで「ジークフリート」の稽古の開始に際して、ピエール・ブレーズと一度会う約束をしていた。その日は、ハンブルクまで車を運転して行かなければならなかったので、なんとなく落ち着かなかったのに、ブーレーズは約束の時間を何度も遅らせた。四時間も遅れて、やっと彼はやって来た。彼は楽譜を車のトランクルームからつかみ取り、私たちは、コレペティトールと一緒に練習室に行った。
 その時、かなり驚いたのは、指揮をはじめると、明らかにまだあまりスコアを知らないということがわかったことだった。彼は常に拍子をとっていた。最初の稽古で演奏に関する希望を全く言わなかったのにも、驚いた。練習期間中を通して、一秒も彼と「リング」に関して何一つ語り合わなかった。彼は常にとても魅力的だったが、まさにバイロイトで、共にひとつの作品を創り上げるのなら、何かもっとそれ以上のものを期待するところだ。あるいは、少なくともそうあるべきだと思うのだが、残念ながら、今日では芸術的な熱意や願望を披瀝しないのが常識になってしまったようだ。ひょっとしたら、自信がなかったのか? 歌手仲間でも、以前に比べると、今日では芸術上の専門的会話や真剣な議論はほとんど行われなくなってしまった。

 Ich lade gern mir Gaeste ein (千客万来)というのは、私が1977年に始めたテレビ番組だ。ZDFの制作で、生放送番組だった。録画撮りを再生するのではなく、常に同時放送だった。それに、ちょっとしたシーンを演じることになっていた。実際のところ、私は本当に一度は俳優になりたいと思ったことがある。その上、喜劇役者のオッティ・シェンクを獲得するという幸運が得られた。彼は全ての放送に出演してくれた。
   最初の放送はバーデンバーデンで、ずっとベルリンでジャーナリストをしていた友人のヘンノ・ローマイヤーが制作することになった。二度目の録画の後、三日間、新シーズンの初ジークフリートを歌うように求められているのであるから、私はヴォルフガング・ワーグナーに数日間バイロイトを留守にする許可を求めた。
 彼の承諾を得て、最初の稽古を気にする事なく安心してバーデンバーデンへ行った。放送の準備のために、およそ一週間あった。一日中、録画が行われることになっていたバーデンバーデンのホテルで、台本の修正に携わった。もうひとつ認識しなければならないことがある。歌手にとって、その種のホールにおける空気不足は、絶対的によくない。何故かと言えば、そうなると、粘膜がかさかさに乾いて、声が損なわれるからだ。(歌手は常に新鮮な空気を必要としている) 私の声は即座に最初の疲労症候群を示したが、各放送においては相当量を声を消耗せざるを得なかった。実際、相当な負担だった。私は次第にいらいらしてきて、初日の公演が心配になってきた。
   それ以後、全部で十回の番組を制作したが、これらには最高に有名なスターたちが参加して、立派なものだった。このように制作された各放送はおよそ数千マルクの制作費がかかたっと思う。こんなことは今日ではもはや不可能だし、当時も文化的、芸術的放送としては異例の大金が投じられていた。世界的に有名なバイオリニスト、ユーディ・メニューイが共演者のステファン・グラペッリと共に出演したし、偉大なクラリネット奏者のバンドリーダー、ベニー・グッドマン、歌手仲間のビルギット・ニルソン、シェリル・ミルンズ、ブリギッテ・ファースベンダー、ルチア・ポップ、ジュリア・ミゲネス・ジョンソン、あるいは、喜劇役者のヴィクター・ボルゲといった人々がいた。要するに、最高の人たちの中の最高の人たちが集まっていた。
 それに、時には、何もかも完全に違ってしまったりもした。生放送だったから、だれかが言ったように、足が冷たくなった等という理由で、ほんのちょっと前でさえ、出演者がキャンセルすることもあった。当然、適当な代りの人をすぐに探して、見つけたが、私は仕事の前に立ち止まって、出演者Aのために書いた台本を大急ぎで忘れて、新たな出演者Bのための台本を覚える。これはいつも簡単というわけにはいかなかった。というのは、特別の場合、デュッセルドルフのキャバレー"Komoedchen"の仕事仲間の台本が来て、私のところに回ってくるのが相当遅いのだ。そして、とにかくすでに完全に頭痛がしてきている私は、声が最悪になりそうだという心配のために、さらに負担が重くなるというわけだ。
 そういうわけで、1977年のある土曜日には、最悪の状況に陥っていた。ありがたいことに、観客をとても迅速に参加させることができて、骨が折れるが、楽しい2時間の後、最後の音が消えた。汗だくになって、完全に疲れ果ててグロッキーで、ホテルにはうようにしてもどった。軽く食事をして、ビールを飲んで、ベットに転がり込んだ。というのは、次の日は、二つの公演が立て続けにあって、なんだか危ない感じがしていたからだ。
  次の朝、目が覚めて、コーヒーを部屋まで持って来てくれるように注文しようとしたが、私の声は、まるでゴビ砂漠みたに干上がっていた。歌手は他の人たちよりこういうい状況には慣れているから、まずは落ちついてコーヒーを飲んでから、軽くウォーミングアップをやってみるために劇場に行った。非常に慎重にやった結果、もう数分後には再び声が出た。その声は私の耳にも相当酷く聞こえたが、他人の耳には絶対にずっと酷く聞こえたに違いない。それでも、声は徐々に戻ってきた。30分後、私はホテルに戻って、朝食を取り、その後、美しい公園を散歩して、いい空気をできるだけいっぱい吸った。だが、何か衰弱感があったので、バイロイトのヴォルフガング・ワーグナーに、とりあえず最初の警告をしておくほうがいいだろうと思った。「ジークフリート」は間違いなく大丈夫だと思ったが、歌手の仕事と、さらにもうひとつ放送が迫っているから、数日中に行けるかどうかは保証できなかった。特に、ジークフリートの適当な代役が大勢その辺を走り回っているなんてことはあるはずがない。そこで、私はヴォルフガング・ワーグナーに、「ジークフリート」の公演は間違いなく大丈夫だが、緊急の場合に備えて、代役を準備しておくのが望ましいという趣旨のことを書き送った。
 数時間後、バイロイトから電報がきた。その電報は私には理解できない不可解な口調だったのでびっくりした。「貴殿が月曜日の稽古に参加しない場合は、重大な結果を自ら招くものである.........」とかなんとかだった。最近のテノールにおける大きな成功は全部私がもたらしたもので、私たちはお互いに非常に親密で友好的な関係を保っていたところだったから、私はこの内容に度肝を抜かれ、吃驚仰天した。私としては、彼が喜ぶようにしたかったのだ。それに対する、お返しがこれだとは! 通常は、上演の日の正午までに病気によるキャンセルを通告すれば十分なのだ。それをいったい何をしようというのだろうか。あの公演のためにもう新たなジークフリートを確保したとでもいうのだろうか。しかし、どんなに困難でも、本気で、素直な気持ちで私は彼のためになりたかった。
  そこで、月曜日にバーデンバーデンで二つの仕事をこなした後、疲れきって、よれよれになって、バイロイトへ行った。私は、当時、バイロイトに小さな住居を持っていた。そこで、侮辱された。私が家に着くや否や、もう、当時ヴォルフガング・ワーグナーの秘書だったタウト夫人、そして、私たちの忘れ難い合唱指揮者のピルツ夫人までが、私に電話をよこした。二人は私に事を重大に考えるようにと、しつこく迫った。「時にはあんなふうな反応がかえってくることは、あなたもご存知でしょう」  しかし、私は幻滅するだけだった。私は思った。私は舵取り、エリック(さまよえるオランダ人)、ローエングリン、シュトルツィング(マイスタージンガー)、パルジファル、そして、ジークフリートとしても、並外れた成果をあげたではないか。私の監督に何かそれ相当の協力的配慮を期待することはできないというのか。
   そういうわけで、この精神的圧迫によって私の声は、この時まさに間違いなく決定的な損傷を受けた。だから、私はシェローの演出は複雑で難しいから、私が舞台で歌うふりをしながら演じ、歌のほうは、テノール仲間のひとりが、オーケストラ・ピッチで代りに歌うというのを提案した。つまり、プレイバックのようなものだ。ありがたいことに、ジャン・コックス が引き受けてくれた。
   これがヴォルフガング・ワーグナーとの最初の軋轢だった。実にばかばかしいきっかけだったと思う。その後数年以上も私たちの関係は改善しようがなかった。ヴォルフガング・ワーグナーはおそらく、ジークフリートでの衝突の後、私が彼に対して悪感情を抱いているとずっと思っていたに違いない。私は性格的にも、他人を傷つけよう等という気は毛頭ないというのに。多分、彼には誤解があったのだ。私は結局のところ、彼の演出や芸術的野心に感銘を受けて触発されたことはほとんどない。しかし、バイロイト祝祭劇場とそこで彼のために働く芸術家たちにとっての、仲間として、そして公明正大な監督としては、常に高く評価している。   
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註:シェロー演出のジークフリートにおける、コロとW.ワーグナーの衝突は、We Need A Hero では1979年のことになっています。
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