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カラヤンとの関係 [ルネ・コロ自伝]

1976年ザルツブルク復活祭音楽祭 ローエングリン カラヤンvsコロ
1974年ザルツブルク音楽祭 魔笛 カラヤンvsストレーレル その他 pp.87-97

   カラヤンとの共働についてはすでに書いたが、もう一度、当時、大騒ぎになって物議をかもした1976年の事の経緯に戻って話したい。
Lohengrin   それはローエングリンだった。ザルツブルクでの公演の前にベルリンでレコード録音をしたが、はじめから、悪い星回りだった。カラヤンは我慢できないほどの背中の痛みに悩まされていた。これは録音期間中にどんどんひどくなり、録音が半分進んだところで、中断、カラヤンは手術するために入院した。
   数週間後、私達はザルツブルクでの舞台稽古で会った。ものすごくいらいらして神経の高ぶった雰囲気が支配していた。カラヤンは必死で我慢していたけれど、ひどい苦痛を隠すことは不可能だった。カラヤンは、後三ヶ月は休むようにという医者の言葉を聞かなかったのだ。
   稽古では常に様々なことが起こる。全ての関係者に同じように目を配ることは不可能だ。衣装やメーキャップの問題、演出上の問題等々。
   さて、カラヤンは三幕の「あなたは私と共にかぐわしい香りを感じているのではないのか」というところで、私に、美しい花々の咲き乱れる庭で実際にその香りをかごうとするかのように、後方に行くように求めた。その時、私は髪の毛が逆立った。ワーグナーによるピアノ用スコアには当然そう書いてあるが、現代の精神分析的時代においては、ワーグナーが思ったのとは、ちょっと別の解釈をする必要があると思う。ローエングリンは美しい言葉で、エルザの気分を換えて、質問したいという強い願望から気をそらそうとしているのではないだろうか。それはこう読み替えられるのだ。「あなたは私と共に、人間の持つ素晴らしさのうちでも最高に人間的なもの、すなわち愛を感じてはいるのではないか。私は人間になるためにあなたのところに来たのだ」ともかく、私にとって、庭でヒアシンスの香りをかぐという意味ではないし、そうであるべき根拠など全くないと思う。
   私はカラヤンと議論しようとしたが、無駄だった。そういうわけで、私は権威に屈して、香りをかいだということだが、不満は隠せなかった。
   確かにヒアシンスの嫌なにおいのせいばかりではないが、ザルツブルクの厳しい東風をかいだせいで、不愉快きわまりない急性扁桃炎(アンギーナ)になってしまったのは、間違いがない。私ののどは慢性的に炎症を起こしていたし、けいこのとき、ちゃんと歌う必要はなかったが、事実、体調が悪いのだから、当然ひどく神経質になっていた。空き時間には、何度か列車でウィーンまで行って、歌手のための伝説的な耳鼻咽喉科の専門医のReinhard Kuersten先生のところへ通った。少なくとも往復5時間はかかった。先生は毎回、たくさんの飲み薬を出し、注射をしてくれたが、病気はしつこくて、容易に回復しなかった。
   本稽古(Hauptprobe)の日が来た。その数日前に、私とカラヤンの共通のエージェントのEmil Jucker のところへ行って、カラヤンに、本稽古は演技ばかりかちゃんと歌うつもりもないということを伝えてもらいたいと頼んだ。半分は録音していたから、私がどう歌うか、カラヤンに分かっていることは間違いないし、一方、私のほうもカラヤンのテンポはわかっている。
   カラヤンはそのことに同意してくれて、問題はなかった。彼としては、稽古のためにすぐに別の歌手を連れて来るほうが好都合だった。
   数日後、急性扁桃炎(アンギーナ)は多少良くなり、間もなく最終リハーサル(Generalprobe)だった。私としてはちゃんとやるつもりで、何も言わなかった。朝、祝祭劇場に行って、守衛に私の練習室の鍵を出してくれるように頼んだところ、そこにはすでに他の歌手がいて練習しているという。あの本稽古で代役をした歌手が最終リハーサルにも予定されていたのを、だれも私に知らせてもくれなかった。私としては全くうれしくなかったが、この強制休養は、急性扁桃炎(アンギーナ)にとってはよい効果を与えることは間違いない。だから、苦情も言わず、もっと回復して、初日に備えるためにホテルに戻った。
   二日後まではそうやって過ごした 。
   初日(プレミエ)の午後、祝祭劇場に行った。この公演で、ローエングリンを歌う歌手が決まっていないとはまだ知らなかった。私の練習室はまた占領されていた上、私の衣装ダンスにあの歌手の衣装がかかっているのを見て、私はうんざりもし、がっかりもした。劇場は安全策を講じて、病気のコロのほかに、健康な歌手を雇う必要があったということは、もちろん私にもわかる。しかし、ちょっと電話して、私の具合を聞いてくれることを期待してはいけないだろうか。私は怒り狂って、衣装を身につけ、初日を歌った。
   翌日と翌々日は休みだった。初日の翌朝、カラヤンの親友のAndre von Mattoni から、マエストロが今夜会いたいのだが、ローエングリンのピアノ譜を持って来るようにという電話があった。奇妙な話だと思った。何の為にピアノ譜を持って来いというのだろうか。しかし、それ以上深くは考えなかった。私としては、お互いの花の香に関する小さな意見の相違について、話し合うことができることを望むだけだった。というのも、そのときまで極めて楽しく、創造的かつ生産的だった私たちの共働をよりよいものとするためには、私にとって、まさに好都合なことだったからだ。
   エレベーターのところへ行く通路で彼に出会った。彼の顔色は悪く、恐ろしいほど青白かった。高い襟の、真っ黒のコートを羽織った姿は、E.T.A.ホフマンの小説に登場する奇妙な病気の人物を思わせた。
   私たちは黙って、貨物用エレベーターで最上階の練習舞台へ行った。彼は私の手からピアノ譜を乱暴にひったくったあと、ピアノの前に座ると、不機嫌な手振りで、私は部屋のずっと奥のほうに立つようにほのめかした。そして、ピアノ譜のある部分を開いて、もはやしなやかとは言えない指で弾きはじめた。「歌ってください」と私を怒鳴りつけた。
   私はこの行動にどんなに侮辱されたことか。彼は私もまた病気だということを知っているに違いないのに、私が今ここで全く無意味に歌うべきだと言うのか。私はピアノのところに歩みよって、私も目下病気で、次のローエングリンの公演を前にして、絶対に声を休ませておく必要があるのだということを、説明しようとした。それに、とにかく彼は私がどう歌うかということは先刻承知しているのだ。
   そこへ、最高に無神経な言葉が耳に届いた。私の全キャリアにおいてこんな言葉は、耳にしたことがいまだかつてなかった。カラヤンは、「そもそもあなたがまだ歌えるかどうか、私としては全くわからない」と、その生来のがらがら声で文句を言ったのだ。
   突然、私たちの音楽的関係は終ったことがはっきりした。私は、自分のピアノ譜を楽譜立てからひったくると、それをぱたんと閉じて、もうチェックする必要はありませんと言い返した。それから、練習舞台を後にした。
   外廊下に出ようとしたとき、まるでイタリアのオペラ・ブッファみたいな場面が繰りひろげられた。
   ヴェルディのレクイエムの稽古のためにカラヤンと会うことになっていた、まさに三人の大歌手、ルチアーノ・パヴァロッティ、ミレッラ・フレーニ、ニコライ・ギャウロウは、どうやらドアのところで盗み聞きするチャンスを得てのその誘惑に抗し難かったようだった。びっくり仰天した彼らは、あわてて、私に背を向けた。あたかもタンホイザーの二幕でのローマへ巡礼に行かなければならない合唱団みたいだった。
   夜、荷物をまとめた。もちろんローマへではなく、ハンブルクへだ。この仲たがいがもたらす結果について、よいこともあり得るなどという幻想は一切持っていなかったが、こうする以外にいったいどんな可能性があっただろうか。
   ところで、出発前に、数社の新聞記者から電話をもらった。翌日、一社を選んで会った。プレミエ後より大きな扱いだった。ついにマエストロも登場させられていた。一面に、なんと写真入りの、太字の見出しだった。
   私のキャンセルで、新聞という新聞が大喜びするなんてことがなかったのがうれしかったということは否定し難い。
   しかし、大衆紙の大見出しは実際のところ私のもくろみ通りではなく、反カラヤンでは全くないのは確かだった。

   病気は常にそこにあり、そこに関わってくる医者も、私の生活において、重要な役割を果たすわけだが、1970年代の終わりごろに、耳鼻咽喉科の医者と一緒に体験した大いに不思議な出来事についてこれから話したい。ミュンヘンに滞在していたとき、声の調子が非常によくなかった。のどがひりひりして、声帯の具合は最悪になりはじめていた。ミュンヘンの近くに診療所を持っているある医者を強く勧められた。そこで、その先生のところへ車で行った。こんばんはとか決まりきったあいさつのあと、拷問台さながらの診察台に座った。
   医者は私ののどを診た。
   しつこく何度も、どんどん奥のほうまで眺めて、一分ぐらいしてから、ため息が聞こえた。
   「ええと・・う・・」
   彼はもう一度しっかりと私の声門を観察して、頭を振った。
「ちょっと待っていてください。やっぱり助手に手伝ってもらいます」と言った。「かまいません。待っています」数分待ったあと、助手がやってきた。そこで、二人で私の声門を詳細に観察して、頭を振った。二人でまた頭を振っている。
   「ところで、先生はどう思いますか」
   「はい、私としては・・めったにない症例だと・・」
   二人は繰り返し肩をすくめて、当惑の呈。
   数分後、最初の医者が口を開いた。「今日のところは何か薬を出しますから、今晩飲んでください。そして、あさってもう一度来てください」
   私は処方箋をもらうと、途方に暮れて、ベッド数の多い大病院を後に、再びミュンヘンに戻った。二日後、約束通り、またその病院へ行った。
   「そうですね・・う・・・ん・・」
   「先生のご意見は?」
   「そうですね・・実際のところ、わかりません・・」
   二人とも、私がだんだん落ち着かなくなっているのはわかっただろう。
   「一体どうなっているのか、いい加減に言えないんですか」
   私はいらいらしてきた。いい加減に私の声門にどんな不思議なことがあるのか、知りたかった。とにかく私の健康、私の声、私の声門なのだ。
   しかし、説明はしてもらえなかったが、もう一度口を開けるのは許してもらえて、また別の医者にしばらくの間診察された。
診察がとても長引いているということは、手術をしてたくさんある病院のベッドのひとつを埋めようとしているのではないかという疑いが突然わき起こった。
   私がうれしくなるような見込みは全くなかったので、私は両先生にさようならして、大急ぎでそのひどい場所を後にした。
   車を運転しながら、頭にあったのはこういうことだ。「要するに」と私は思った。「声帯の癌にかかっているとしても、とにかくバイロイトへ行くのだ」
   あと四日でけいこが始まる。
   私はバイロイトへ行って歌った。
   そして、今日もまだ歌っているというわけだ。

  だが、私があの二人の医者の言う事に耳を傾けていたとしたら、もしかしたら、もう長くはやれなかったところかもしれない。大病院をやっていくためには経済性を追求する態度は当然必要だが、そうはいっても、あのようなやり方をするのは、何かあまりにも卑しい感じがしてみっともないことだと思う。

   話をカラヤンに戻そう。もうひとつのカラヤンとの共働は、ミラノ・スカラ座とオペラ演出家のジョルジョ・ストレーレルとのザルツブルクで体験できた。ストレーレルは当時非常に有名で、ひっぱりだこだったから、カラヤンが彼を見過ごすことなく、1974年ザルツブルク音楽祭に招いたのは必然的なことだった。二人が一緒のところを見た人は、カラヤンがこのイタリア人を招いたことを必ずしも喜んでいるわけでないことがわかっただろう。二人とも似たような体格で、どちらも黒い服を身につけ、シルバーグレイの髪をしていた。遠くから見ると、どちらがどちらだかはっきりわからなかったほどだ。
   こういうのはまずうまくいかない可能性が高いに決まっていた。魔笛の新演出が計画されており、ストレーレルの舞台装置家、Luciano Damiani が舞台装置を担当した。演出家は私たちを自分のところに毎日拘束して、モーツァルトについて何時間も講義した。一方、カラヤンは、St.Tropez の自宅で休暇を過ごしていた。そのときストレーレルが私たちに話したことは、もう以前にモーツァルトについては聞いたことがあったことだったが、実に最高にすばらしかった。講義は延々と何時間も続いたが、それもまたとても楽しかった。私たちはまもなくモーツァルトに関する事で知らないことは何もなくなったほどだが、どこから舞台に出るかとか、どこから舞台を去るべきなのかは、まだ知らなかった。カラヤンは相変わらず遠いフランスにいて、毎晩、電話でザルツブルクの状況に関する情報を得ていた。だから、彼はつんぼさじきにいたわけではなかったが、実際のところ何もおこらなかった。
   三週間後、カラヤンは日焼けして、最高の体調で休暇から戻り、すぐに最初のオーケストラ稽古が行われた。乱暴な悪態をつきまくる傾向のある、ストレーレルは、客席や舞台の上を大げさな身振りをしながらしょっちゅう走り回り、乱暴なイタリア語で舞台で働く人たちと一緒に叫びまくっていた。カラヤンはこのときとばかり、オーケストラの演奏を止め、その相当に大きな手で指揮台をたたいて、ストレーレルを怒鳴りつけた。「今ここではオーケストラ稽古をしているのだ!」ストレーレルは青くなって、まるで壁の前に立たされた小さな子どもみたいに、今度は決してしゃべりませんと言った。その後は助手の女性が演出を続行した。
   私は魔笛はまだ歌ったことがなかったから、とにかく完全に満足してはいなかった。当時は、タミーノと言えば、尊敬する先輩の、フリッツ・ヴンダーリヒとペーター・シュライヤーが声的には理想だとみなされていた。そして、私はと言えば、当然のことながら、声としてはすでにかなりドラマティックになっていた。うまくいって、喜ばれることが可能だろうか。
   プレミエの日が来た。「なんと美しい絵姿」のアリアがはじまったとき、はじめの調子をとったあと、カラヤンは指揮棒を手に持って、観客の方を向いた。私が舞台で歌い続けている間、カラヤンは最前列に座っているザルツブルク音楽祭の支援者たちにあいそを振りまき、私の立っている方向を激しい身振りで示していた。オーケストラは勝手に演奏を続けていた。
   当然のことだが、私は自分のことにしか関心はなかった。彼は私の歌がいかによくないかを示しているのだと思った。けれども、あるときわかった。彼は演出のことを言っていたのだ。そして、観客にストレーレルの酷い演出は、彼には何の影響も与え得ないということを言いたかったのだ。
   カラヤンは自分の目標を達成した。イタリアから来たカラヤンの一卵性双生児みたいなストレーレルは、まさに舞台装置家 Damianisのお陰で この先も天才的な演出をやり続けることができたけれど、次の年に再び現れることはなく、彼の魔笛は二度と再演されなかった。

   ロシアのことわざに曰く、「16キロの塩を共に食べないうちは、人間は自分を知る事はない」
   私はカラヤンとは一度ステーキを一緒に食べただけで、しかも塩味ではなかった。さらには、カラヤンの自家用機に一緒に乗って、ザルツブルクからエジンバラへ飛んだ。こういうわけで、私は彼の事を知らないし、本当に彼のことを知っている人はひとりもいないと思う。
   いつだったか彼に、ベルリンの古いホテルから、ケンピンスキーに移るように提案したことがあった。それはあのローエングリンのずっと前だった。そこにはプールがあって、彼の背中の病気にもとてもいいと思ったのだ。私たちの共通のエージェントであるEmil Jucker が私の提案を早急に実現してくれたので、カラヤンは毎朝6時には完全にひとりでプールを占領してすごくいい気分にひたっていた。
  そういうことがあったからかもしれないが、数ヶ月後、ケンピンスキーで Jucker  と一緒に、カラヤンと夕食を共にする約束をした。私たちは6時にすでに出会ったので、レストランに座っているのは、完全に私たちだけで、およそ一時間の食事中、私たちの会話は二つか三つの文章だった。私はもともとおしゃべりではないし、その上、その晩は注目を浴びたくなかった。Jucker は、くつろいだ雰囲気にするために、できるだけのことをした。しかし、カラヤンの態度は冷たいままで、何かにつけて神経過敏だったから、私たちは黙って、ステーキをかみしめながら、この悪夢が早く終わる事だけを望んでいた。

   私は、ヘルベルト・フォン・カラヤンが苦手だったが、おそらく彼も同じ思いだったのかもしれない。私たちが一緒に仕事をした年月が私の人生においてもっともすばらしい、そして音楽的にもっとも満足できた時期だということは否定するつもりはない。あのころが私の思い出にあるのはうれしいことだ。それに、すごいことに、音沙汰のなかった数年後、私の50歳の誕生日に突然とても細かくいろいろと書かれた電報を受けとった。彼は私の誕生日だけでなく、私の成功のことも当然耳にしていて、そのことも祝ってくれていた。もはや得られることがあるなど思ってもいなかった友情の証は、だからこそ、一層感慨深かった。
   人間は誰しも多くの顔を持っている。ヘルベルト・フォン・カラヤンも同じだ。私にとって、彼は子どもの心を持ったマキャヴェリだった。そして、だれかが私たちから去ったとき、カラヤンの場合はその死後だったのだが、その人が私にとってほんとうにどういう存在だったかということがはっきりすることがなんと多いことだろうか。そのプロイセン的勤勉さ、そのとてつもない才能、演奏の軽々とした瞬間、素朴な正直さと誠実さ、こういうことを私は非常に高く評価している。そしてまた、カラヤンこそが、私がその墓に一本のばらの花を置き、そうすることをうれしく思う、ただ一人の人だ。
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