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14章 ペーター・ホフマン -15/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

ホフマン批評、あるいは、ホフマンたたき

   ペーター・ホフマンは度々マスコミにおいて激しい議論を巻き起こした。その成功の華々しさとその輝かしいカリスマが、時に過剰にジャーナリスティックな表現を誘発した。一方で、若さあふれるジークフリート、おとぎ話の英雄、黄金の声を持った本物のドイツ人の英雄と賞賛され、持ち上げられ、他方で、ロックをやってそのオペラの才能を低下させ、声を酷使していると非難されている。ホフマンの公演は、同じ時の全く同じ公演が、極端に矛盾した論評を受けることも普通である。一例として、1979年のローエングリンの新演出初日の批評を引用しよう。
   エルネスト・ニューマンは、ローエングリンの演者は心理学者であると同時に、中世の詩に登場する学生というところだと主張した。ホフマンはこの役が要求するものに合っているとは言えない。彼の歌唱は、ロマンチックでなく、ごく一般的な情熱しかなく、言語表現による説得力が欠けている。終始一貫輝かしい舞台上の人物にふさわしくない。
   ペーター・ホフマンは、欠点のない完璧な美しさで歌い、演じた。純粋美学原理さえ、その美しさを前にしては、無価値なものとして簡単に消滅してしまうほどだった。
ほかにも、その対照ぶりが、もっとおもしろいのもある。
   彼の声には危険なバリトン的色彩が加わった。彼のローエングリンは、最高の声で響いてはいなかった。すなわち、彼はあまりにも低い声で歌おうとして悪戦苦闘しなければならなかった。    彼は聖杯物語のところで、非常に高い音で歌う傾向があったが、これは怪しい魅力に満ちた恍惚感を損なうことはなかった。
   このような見解の多様性は、単なる個人的な好みや聴覚的差異の範疇を超えていることを示唆する。すなわち、隠された言外の意味を暗示している。それは、彼の歌に対する論評が存在するのと同じ分量、この歌手、彼自身に対して主観的に反応している論評があるということだ。 
   ペーター・ホフマンに対する論評の定式を観察すると、これは、ある程度、ジャン・ド・レシュケ Jean de Reszke、ジェス・トーマス Jess Thomas、ルネ・コロ Rene Kollo においても見られる傾向を映し出している。 評論家は有望な歌手を初めは、熱烈に賞賛し歓呼の声をあげて歓迎した。若い世代のテノールたちのなかでも最高の者といった具合だ。そして、バイロイトで彼を「発見」したことを、大げさに宣伝することに熱心だった。ペーター・ホフマンのパルジファルは、率直に言って、長年の希望がかなった充足感で、腰を抜かすほどだったと書かれたほどだ。1980年代の初め頃、ホフマンの国際的名声と歌う役者としての彼の魅力は、彼を文化的英雄にした。ホフマンは、音楽的、哲学的問題について率直な会話をすることを好み、ジャーナリスティックに作り上げられる「歌手戦争」や、私生活に関するうわさ話に巻き込まれることを避けて、こういった類のでっちあげを警戒して自制し続けていたにもかかわらず、彼の私生活、彼の人柄、彼の名声などは、ジャーナリストたちの興味と関心の的になった。
   彼は、かつてこう言った。マスコミのだれかが、多くの聞くべきではない質問はしないという感覚を十分に持っていれば、すばらしいことだと思いますし、そういうことには、すぐ気がつきます。そして、更に付け加えた。賞賛や讃美とは正しく付き合うことができなければなりません。そして、賞賛されることが、人間、ホフマンに関することを、無差別に何でもかんでも、あばきたてることを要求される結果をもたらすものではないと思います。
   このように、歌手について書かれた有名人の横顔的記事の多くは、斬新さが興味をひく、率直で、品の良い、控えめな論調だった。彼がロックの仕事に乗り出したとき、マスコミは吃驚仰天した。ホフマンの芸術が示す違いを盛んに書き立てることによって、まずは、この音楽的掟やぶりから利益を得た。例えばこうだ。
   パルジファル歌手がロックンロールを歌う・・・ ロック歌手としての契約にサインしたペーター・ホフマンは、7月、バイロイト音楽祭を開幕する予定だ。ワーグナー歌手が、ロッカーとしてCBSとの三年契約にサインしたが、ワーグナー共同体の誰一人として、そのことで彼に反感を持っていない。
   しかし、徐々に、この「掟破り」に恐るべき持続力があることが明らかになると共に、落ち着かない気分になる批評家も出て来た。評論家たちはホフマンを二つの世界の間のさすらい人と規定し、ホフマンのロックに関する二つの対照的な批評に、あらわれているように、こういうキャリアの進め方の有効性と賢明さに関する見解ははっきりと分かれた。
   ペーター・ホフマンの自らを変化させる才能、未知の分野を探究する明白な勇気、そして、何にもまして、完全なロックの舞台を創造しようとする努力が、ベートーベン・ホールで、多くの拍手で迎えられた。
   ジークフリートがエルビスに変身できないというのは本当だ。
   ホフマンのロック歌唱への激しい反発は、何人かのオペラ批評家にもあって、彼らは気分を害した。こういう批評家たちは歌手の後を追いかけては、ののしることで復讐した。なんと大量の、客観性の完全に欠如した攻撃的な誹謗中傷キャンペーンがもくろまれたことか。1986年9月のニューヨーク・タイムズにおける、ウィル・クラッチフィールド  の記述は、特定の上演を示すことなく、実際に聞かずに判断を下すという、このグループのやり方を証拠だてている。クラッチフィールド氏はホフマンが実際にワルキューレを歌った数日前に、彼がこの指環の連続公演に参加していることは不幸なことだった、なぜならば、昨年のメトで、ホフマンは万策尽きたという感じに聞こえたからだと書いた。そして、ドイツ、マスコミのゴシップ・ジャーナリストのうちの何人かは、さらに酷いデマ屋に身を落として、こんな記事を書いた。
    トリスタンの月曜日の再演は、題名役の歌手、ペーター・ホフマンが、歌詞を歌うのが困難で悪戦苦闘しなければならなかったため、大失敗になった・・・ そこで、この上演の終わりに、祝祭劇場の総監督であるヴォルフガング・ワーグナーは、観客の不興から、スター・テノールをかばわざるを得なかった。
   (事実は、歌詞は完璧だった。そして、付随的な出来事は不正確な話が参照されたものだった。)
   しかし、否定的な反応の最近の背景に対抗して、歌手の業績に対して客観的な評価をしようという変わらぬ動きも生き続けた。多くの主要な新聞とヨーロッパとアメリカのオペラ雑誌によって代表される、この冷静で穏当な判断こそが、主として、歌手の継続的な数々の芸術的貢献を、肯定し、認識し続けている。そして、そういうものが批評する時には、特定の演奏について、慎重な判定が行われている。このようなジャーナリストのうち、卓越して有名な人物には、最近のハロルド・ローセンタール、ハリエット・ジョンソン、エーリヒ・ラップル 、ヨアヒム・カイザー Jなどがいる。彼らは終始一貫、テノールの芸術を擁護している。エーリッヒ・ラップルは、歌手の勝利と成功を楽しげに書いた。たとえば1983年にパルジファルについて、ペーター・ホフマンは、大爆発だった、そして、何とも言えない微妙で不思議な時間だった昨年よりもはるかに印象的でさえあったと述べたが、本調子でなかった公演についても同様に、敏感に反応して、次のように、詳しく記述している。
   ペーター・ホフマンの繊細で、バリトン的な声は、リゲンツァの声とは特によく調和するのだが、残念ながら、初日の公演では調子がよくなかった・・・  三幕で、彼は、だれもが不安になり、いらいらし、凍りついてしまうような状況に陥った・・・ 二幕のもの凄く感動的だった幕切れから、明らかに何も感じとらなかったに決まっている、二、三人のばかなブーイング・マニアは、歌手の状態に異議申し立てをするべきだと思った。これは恥ずべきことだ。というのは、ペーター・ホフマンにその役との類似性が感じられるのだから・・・  彼の演技にも声にも悲劇が存在する。彼が今晩の公演の困難を一刻もはやく克服できるようにという願いが心からわき起こった。
このような所見こそが、ホフマン批評の典型的な潮流であり、国際的な、大小の新聞にも反映された。この夏、彼のもの凄い大成功だったバイロイト音楽祭のあと、かつて以上に多くの批評家が、あの一派に闘いを挑むかのように、歌手を強力に弁護し始めた。ゲルド・フェーザーは、ジークムント役のために、ホフマンの声質と水準に達するような理想の歌手が発見されるなんてことは早急にはあり得ないと書いた。一方、ヘルムート・ゼーリング は、こう断言した。
   ペーター・ホフマンがワルキューレに戻って来たが、それは驚くべきすばらしさだった。(1976〜1980年のシェロー演出以来)彼のジークムントは、この演出のウェルズングに必要な、完璧な力強さ、完璧な輝かしさ、そして完璧な光沢を備えて、光り輝いた。誰もが、長年の時を経たホフマンの声はその絶頂期を過ぎてしまったと心配しているかもしれないが、考え直したほうがよい。彼のテノールは絶好調を示しており、音楽祭の観客を魅了した。さらに、彼の力強く、集中度の高い人物描写は、他の共演の歌役者たちを大いに刺激し鼓舞したので、この上演は、彼の水準に達していた。
   こういった賞賛に実質的な評価と支援が加わって、ホフマンは音楽界の主役としての地位を享受した。彼を十年以上にわたってバイロイトのスターにしたヴォルフガング・ワーグナー、1982年にホフマンの規律に対する厳格さと芸術家としての手腕を、このような特別優れた規律感覚や共演者との協調性を今日の歌手に見出すのは難しいと、熱を込めて鮮やかに語ったジェイムズ・レヴァイン、あるいは、ホフマンを世界最高のヘルデン・テノールと呼んだレナート・バーンスタイン。
   ペーター・ホフマンのキャリアが批評家たちによってそれほど脅かされないにしても、否定的な論評は完全になくすことはできないから、客観的な歴史研究者が、なんらかの調査、研究を続け、批判的な反論のある主要部分に言及しないわけにはいかない。ホフマンを非難することに熱心な人たちでさえもは、大抵は彼の驚くべき演劇的才能はいやでも認めざるを得ないらしいが、他方、彼の声に対する批判は、主としてビブラートをやり玉にあげるようだ。時に、びっくりするほど幅が広いと言われる。それから、彼の音色に、場合によって、聞き取れる、きめの粗さ、あるいは、ざらつき感が非難の的にされるようだ。彼らはこういうことを、絶え間ないワーグナー歌唱による声の鈍化のせいにしたがる。ホフマンのロック歌唱を前にしても、懐疑主義が大いにまかり通った。ホフマンのロックを非難するポピュラー評論家は、彼のロックはうすっぺらで、お上品だと論評し、それに対して、彼に好意的でないオペラ評論家は、彼はロックのせいで、声を台無しにしつつあるし、加えて、彼のロック歌唱は、オペラ歌手としての信頼性と厳粛さ、言いかえれば、オペラ歌手というものの品格、を傷つけていると主張する。その結果、ホフマンは声を損なう瀬戸際にあり、歌手としての将来性を危険にさらしているとまで言い出すものさえ少数ながら存在する。
   一旦このような仮説を表明したからには、そのジャーナリストは、「証拠」を提供する義務があると思うようで、必要とあらば、「証拠」をでっちあげることさえも辞さない。これが実行された、二つのいやらしい例は、1987年7月のトリスタン後の扱われ方と、メトロポリタン歌劇場のジークフリート(「ジークフリート」のと、「神々の黄昏」の)をキャンセル決定をめぐる誇大宣伝だった。前者の場合、歌手は発熱とひどい胃の不調を抱えて歌っていて、医者たちは彼に抗生物質をめいっぱい注射しており、二幕の後では公演を放棄するように忠告したが、ホフマンが参加しなければ、トリスタンの初日はないことになるというわけで、医者の意見を聞かなかった。そして、実際、ブーイングをした妨害者は二人を数えただけで、その二人を除くバイロイトの観客は全員、立ち上がって拍手喝采した。こういう事実にもかかわらず、ドイツのいくつかの新聞には、翌日、「公演は中断」というのから、「歌詞を間違って歌うほどの酷い技術的障害」まで、ありとあらゆることを詰め込んだ大げさな見出しが踊った。最初のは真っ赤なウソで、他のは、アメリカでの同時生中継ラジオ放送を聞けば、間違っていることは容易にわかることだ。重症の気管支炎によるジークフリートのキャンセルの場合は、論評の断片がおおはしゃぎで、根拠のないうわさを振りまいたのだった。あまり評判のよくないドイツの新聞数社は、三幕で「声がかれた」とコメントしたり、「ロックが彼の声をだめにしたのか」と推測したりする記事を載せ、一紙などは、ある声の専門家の女性に意見を求めることまでしたのだが、後に、個人的にインタビューしたところ、彼女は間違った引用をされ、発言を操作されて当惑していると主張した。このようなジャーナリストの悪質な操作は、悲しいことに全くあまりにも普通に行われていることだが、それにしても、怒り心頭だ。
   歴史研究者として物事を追究するのと同じように、ペーター・ホフマンの観察者としても注意深く考察するとき、 証拠もなければ、根拠も希薄なこれらの非難は、今なお、ちまたの関心を呼んでいるというか、なぜこういう拒絶症候群が存在するのかという疑問を持つのに十分な理由になるということがわかる。ヘルデン・テノールの歴史上には、似たようなマスコミのキャンペーンの先例が存在するのは確かな事実である。ワーグナーの重い役を歌ったあとのド・レシュケに対する酷い論述、あるいは、スレザークがニューヨークのマスコミと、そのトレモロに関して行った闘い、また、トーマスはその抒情的な声を拡大しすぎているという理論を裏付けようする批評家たちから、そのキャリアの終わりごろに彼が受けた手厳しい批判などを思い出しさえすればよい。要するに、全て偉大な歌手には、彼を悪く言う中傷者の割当が必ずあるものなのだ。
   しかし、大げさに騒ぎ立てる種を鵜の目鷹の目で求めているマスコミの一見それとわかる記述や、「古い主役」に飽きて、新しいお気に入りを見つけようとするジャーナリスト的体質、また、声質に対する単なる好みの変化以外にも、ホフマンの場合は、なんらかの別の要素が存在し、これらこそが、議論を加熱させているように思われる。姿形も魅力的なうえ豊かな声の主だったフランコ・コレッリと非常に似通った状況だ。コレッリは、1960年代にイタリア・オペラのテノールのイメージを変えた。テノール役に生気を吹き込み、生き生きとよみがえらせたのだ。彼は、観客とオペラ・ハウスの経営陣のどちらからも同じように賞賛され、愛された。しかし、しばしば批評家の攻撃目標にされた。同じように、ホフマンも、声と姿が一体となった輝かしさを発散して、尋常ならざる雰囲気によって、観客の心を奪ってしまうものだから、一部の批評家は、困惑のあまり、彼の外見と中身が一致しているなんて信じ兼ねるという症状を呈しているのだ。オペラ史上、あれほど姿形がうつくしく、あれほど強力な声を持ち、あれほど人を納得させるように演じる歌手はほとんど存在したことがない。だから、批判的批評をしようとするとき、この魅力的な「セット」に「欠陥」を見つけようとしがちになるのだ。ドナール・ヘナーハン といった、このお仕事に献身している人たちは、極めて用心深く、非難するのは、より主観的な性格をもつ声に限定するように気をつけているのだけれど、歌手の外見にさえ見事に欠陥を見つけ出している。(歌手がメトロポリタン歌劇場にデビューしたとき、タイムズの批評欄には、ホフマン氏はそのほっそりとした体型が災いして、正しいドイツ人的英雄らしく、舞台を牛耳るわけにはいかなかったと書かれていた)
  それから、また、ホフマンは、ロック・ミュージックに関わるなど、ヘルデン・テノールとしては、特異であり、私の考えでは、勇敢な決断だと思っているが、これがポピュラー界とクラシック音楽界の間にあって、しばしば両陣営からの十字砲火の標的にされることになった。両陣営とも、歌手の決断が、そのエネルギーを分割することになるのが不満の種だったのだ。最後に、ホフマンの芸術家としての、そして人間としての独立心は、歌手仲間のだれよりもはるかに強い。たとえば、彼は、テノールというものの伝統から、楽しげに逸脱している。これが、一部お偉方の代弁者たちには、まったくもって不愉快にちがいない。ホフマン自身このような攻撃の権威を認めていないのは、まさしく彼の功績であり、名誉である。
   ホフマンはこういったことに対して、ユーモア感覚を持って距離をおき、超然とした態度を維持することによって、自分自身に対する批評を、並外れた自己認識と共に読むことができる。
   主要な大新聞に無意味な攻撃批評が掲載され、小さな取るに足りない新聞に、私について細かいところまできちんと理解していて、私がうまくできなかったところにちゃんと気がついている人たちがいるということが今までにも、たまにありました。起こった事実を正確に書いてあると、びっくりします。
   そして、反応することが必要な場合には、最も非常識な非難に対してさえ、内心の不屈の鉄のような意志とは裏腹に、にこにこしながら無頓着な様子で答えることができる。毀誉褒貶相半ばする論評があった1986年のトリスタンの後、彼はラジオのインタビューに答えた。
   だれも批評家のために歌うわけではありません・・・ 批評家に肯定されようが、されまいが、私には関係がないことです・・・  批評家を喜ばせるかどうかということに、私は影響されません。彼らの意見はなんというかなくてもいいものです。そんなことより大事なことは、私は自分自身のために、そして私を観てくれる観客のために歌うのです。だから、私と観客にとってうまくいけば、これこそが重要なことです。これに関しては、とても運がよかったです。
   ペーター・ホフマンは、このインタビューを、批評家が書くことに関するマレーネ・ディートリッヒの発言を、彼の好みでもじって締めくくった。それが真実でない限り、それほど不愉快ではありませんと、彼は、自尊心を損なうことなく、穏やかに反論した。
   そして、ペーター・ホフマンは、こういう類の否定的な論評がまったくと言い切っていいほど真実ではないことは確かなので落ち着いていられるというわけだ。彼の仕事のために努力している仲間たちにとって、彼が感動させ、喜ばせ、歌を愛する人に変えた無数の人々や、回想録、映像、録音を通して彼の遺産を客観的に批評することになる歴史研究者たち、そして、これらの、そして他の全ての音楽愛好家にとっては、完全に異なる真実が存在する。そして、その真実は間違いなく肯定的な言葉で語られるだろう。
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