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14章 ペーター・ホフマン -13/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

トリスタン

   ホフマンの役としてよく知られているヘルデンテノールの役のうちで、トリスタンはテノールに最高にやりがいのある難題をつきつける。ホフマンのこの作品の経験は1981年バーンスタインのコンサート形式上演にまでさかのぼるが、実際に舞台でトリスタンを演じたのは1986年からにすぎない。それでも、短期間のうちに、歴史に残るこの役の優れた演奏者たちのひとりであることを立証した。
ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(演奏会) (Wagner : Tristan und Isolde / Leonard Bernstein | Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks) [Blu-ray] [Live] [輸入盤] [日本語帯・解説付]   ホフマンが三幕を一幕ごと、ライヴで、テレビ用に録画、録音するという企画で、はじめてのトリスタンを歌ったとき、(バーンスタインの公演は、テレビ用のビデオ撮りとレコード録音しながら、聴衆を前にして舞台で歌われた)ヨアヒム・カイザー Joachim Kaiser はこのように書いた。
ペーター・ホフマンはこの十年間の偉大なトリスタンの仲間入りをした。彼はねたましいほどの若さだ。元気いっぱいで、エネルギーにあふれ、情熱的だ。楽譜の難しい部分も臆することなく表現した・・・ 凄いことだ。
そして、1983年にレコードが発売されたとき、ハロルド・ローゼンタール Harold Rosenthal は オペラ誌(Opera)批評で、この レコードは、棚にしまうときは、メルヒオールの隣に並べるべきだとまで述べた。
   ヒルデガルト・ベーレンス、ベルント・ヴァイクル、イヴォンヌ・ミントンなどと共演したバーンスタインのトリスタンは、今までに作られたこのオペラの最高によくできたもののひとつだ。あえての極めてゆっくりとした速度、歌手たちのレガートと呼吸に支えられて、そのテンポを維持することが可能になり、指揮者はこの世のものならぬ官能的な、めったにないような美しさを備えた世界を創り出した。初のトリスタン役のホフマンは、この役の歌の美しさを強調した。最初の音から最後の音まで、非常に優美に歌うと同時に、複雑な心理描写をしている。バーンスタインの指揮の透明さと繊細さに併せて、ホフマンの声は月光のようなきらめきを示し、息をのむほどに抑えた強弱感を創出。この演奏は、暗い運命にとらえられた英雄を浮び上がらせる。はじめは、極端に抑圧された願望に悩まされているが、ついには、罪のうちに解放され、死に抱かれて恍惚のうちに、その願望は、成就する。
   後に、ホフマンが1986年と1987年、バイロイトで出演した、ジャン・ピエール・ポネルとダニエル・バレンボイムのプロダクションでは、音楽的にも演劇的にも、強弱のつけ方は多少変化している。ここで、ホフマンは精力的な力強いテンポを維持し、様々な音楽的解釈が対立しているなか、あえて、トリスタンの武人的たくましさ、衝動的、反抗的側面を非常に強調している。カール・シューマン Karl Schumann はこの違いについて、バーンスタインのときは、その軟弱なトリスタンに合わせたため、ホフマンはあまり退廃的ではなかった。ポネルの刺激的な演出には、完全にはまっている と述べた。完全な舞台上演ということが、聴覚的にも視覚的にも、衝撃度の違いを生じさせた。いつでもそうなのだが、劇場の照明の下でこそ、ホフマンは、より刺激的に光り輝き、歌唱と演技が融合して、まばゆいほどの白熱した人物像を具現する。こうして、彼は新鮮で、成熟したトリスタンを創り上げた。それは、世界的に一流のトリスタンだった。アントニオ・リヴィオ Antonio Livio は、ペーター・ホフマンを含むバイロイトのキャストは、全体的に調和のある効果的な舞台を創り上げたが、特に演技と歌唱の調和は完璧であると評した。また、Opernweltは、いくつかの疑問点や不安な部分はあるにしても、ペーター・ホフマンはわずかの技術的修正で、バイロイトの歴史上、この役の偉大な演奏者のひとりになれるだろう・・・  三幕は、非常に充実しており、生きて歌っている限り、ホフマンは輝く・・・と書いた。
   1986年と1987年のラジオ放送を聴くと、彼の演奏が年々深まり続けているのがわかる。抒情的な旋律は、歌詞に対する感覚の鋭さと輝かしい陰影の付け方が強まっている。この役に、公演ごとに、いったいどのぐらい新しい色合いを見つけることができるのか、毎回驚かせられるほどだ。三幕、もの凄い恍惚感、大家の雰囲気、朗唱の輝かしさ、透明感を維持しつつ変わることのない強度、心を捕らえてはなさない確信に満ちた信念で、彼はこの役に没入する。そして、これが観客をカタルシスを伴う感情の波に巻き込み、押し流す。
   声、身体、精神、これらの放つ輝きのまれな結合、これをホフマンは、この役に、もたらすことができる。そして、これこそが、彼を、トリスタン歌手の歴史において、独自のユニークなトリスタンにしている。いつもと同じように、ひとつひとつの音、ひとつひとつの言葉、ひとつひとつの動作、ひとつひとつの演劇的な刺激が、最大限の衝撃を引き起こすために、計算され尽くしている。スヴァンホルム、ローレンツ、ヴィントガッセンもそうだが、ホフマンは、声を表現力の限界まで持っていくことを恐れない。演劇的に強烈な効果を上げるために、単に美しい音にこだわることをしない。迫真の舞台のために必要とあらば、苦痛に、うめき、あえぎ、叫ぶ。しかし、先輩たちよりも激しくそういうことをしても、彼の生来の豊かな音色のお陰で、このような赤裸裸な演劇的真実の瞬間の破綻は相殺され、よりバランスのとれた声楽的演奏を示している。加えて、全体的な詩情にも違いが見られる。
   一幕で、ホフマンは男性的な雄々しい騎士だ。マルケ王の友としてふさわしい。このときはまだ、彼にとって名誉と栄光こそが、何よりも重要だ。彼は、イゾルデから遠ざかり、よそよそしく振る舞うことで、彼女を恋する感情を隠す。しかし、語られることのない心の底の感情は、登場時の一節、Was ist's, Isolde? (何? イゾルデ?)で、彼女の名前を発する、その声の調子に明らかに示される。アイルランドの王女の非難をかわすために、自分の態度は慣習のせいにして、Frage die Sitte(しきたりです)と、即座にすげなく答える。イゾルデに呼ばれて、黙って従うときの、Begehrt Herrin was ihr wunscht(望むことを命じてください) は、音色は暗いが、金属的な基礎の上に暖かみのある、英雄的な響きを載せて、調子よく快活でさえある。シラブルごとに、ホフマンの複雑多様な側面を持つ彼の声の微妙な色彩感が、心の奥に潜む愛情と情欲をさらけ出す。水夫たちの声に、我に返ったトリスタンは、Wo sind wir?(ここはどこだ)と驚いて叫ぶ。そのとき、彼は男として、あらぬ空想に我を忘れたことを恥じている、名誉を忘れていたことを恥じている。彼は部下たちに慌てふためいた感じで、大声で、軍隊的な命令を発する。イゾルデが飲み物を差し出すと、死による救いを強く望む彼は喜んでそれを受けとる。死こそが心の内奥の苦悩から解放してくれる。ホフマンはTristans Ehre(トリスタンの名誉)の一節を、誇り高い、威厳あふれる響きで始めるが、全体を通して、感情がわずかに表面に現れるに任せている。例えば、hoechste Treu(最高の誠意)のところの小さなトレモロの中に、ホフマンのトリスタンは、対立する愛と義務に板挟みになっている葛藤を表わす。Trug des Herzens, Traum der Ahnung(心をあざむき、予感を夢見る)の愛撫するような弱音にのせて、彼は魅惑的な死の誘惑を伝える。二人は飲み物を口にする。二人はしばらく身動きもせずに立ち尽くす。彼は、究極的な傷つきやすい繊細さで、彼女の名前を、甘くやさしく歌う。それから、官能の衝動の暴力的な爆発が起こり、ホフマンのトリスタンは、強烈な金属的な音色で Seligste Frau!(至福の女性よ)と叫ぶと、カップを投げ捨て、イゾルデに突進する。短い終幕の愛のデュエットが無理なく、情熱的に歌われる。バレンボイム指揮のオーケストラの激しい荒れ狂うようなテンポに対抗して、ホフマンは、確実でゆるぎないイントネーションと高く舞い上がる旋律を保って、声楽的クライマックスへと上昇する。この狂喜乱舞の音楽にのって、ホフマンのトリスタンは、自らの愛欲によって混沌に突き落とされたように見える。そして、突如、狂ったような激しい自己肯定の爆発のなかで、彼の口から、O Wonne! toller Tuecke! O truggeweihtes Glueck(おお、無上の喜び。敵意に満ちた喜び。おお、錯覚に任せたこの至福) が流れ出る。この幕は、トリスタンのdas Wunderreich der Nacht und des Todes(夜と死の国)との運命的な関わりの最高潮で終わる。
   第一幕、ホフマンはトリスタンの葛藤をまさに人間的に描写する。二人の愛のきわめて抽象的な様相を強調することを好むコロとは違って、ホフマンのトリスタンは完全に血と肉を備えた人間であり、彼の決断は、その結果を完璧に認識した上で行われる。ホフマンのトリスタンは、彼の演じるジークムントと同じように、愛のためにあえて破滅への道を選択するのだ。
   二幕のうっとりするほど美しい音楽、愛の夜Leibesnachtで、ホフマンは申し分なくその義務を果たし、演劇的意味がしっかりと込められた美しい音色を生み出している
。狂おしくも激しいIsolde, Geliebte!(イゾルデ、愛する人!)と共に、舞台に走り出て、この幕のために、声をエネルギーの激しいほとばしりに合わせる。活気に満ちた、無分別な、あからさまな情欲、甘いLiebeswonne ihm lacht(愛の喜びが彼に微笑む)から、Dem tueckische Tage(ねたみ深い昼)に至るO dieses Licht! Wie lang verlosch es nicht!(おお、この光!  この光が消えるまでにいったいどれほどを要したことか!)の繊細なエロティシズムまでの広がりの中で、微妙に変化する色合いで、明らかにされる情欲。O sink hernieder(ああ、降りて来い、愛の夜)の部分におけるホフマンの歌唱は、申し分なく美しい音楽性を示して、比類ない。最弱音で始め、柔らかい音色の確実な流れにのって半分の声mezza voceまで高まっていきながら、途切れるころのない、長いフレーズを保って、歓喜にあふれるSelbst dann bin ich der Welt(そして、私自身こそが世界だ)でクライマックスに達する。彼のso stuerben wir um ungetrennt(そして、私たちは共に死のう)は、弱音に満たされ、暗い響きに彩られ、軽々とした
最高音はきらびやかで、催眠術にかけられたように、魅惑的だ。ホフマンは、その力を示す瞬間に向かってのびやかに進むと、抑制していた力を誇示し、何とも美しく、響き渡るEwig!(永遠に!)で締めくくる。
   この幕の終わりの部分の扱い方は、深い感動を呼ぶ。ホフマンが、その独白、Ah Koenig(ああ、王よ)によって、伝えることができる、威厳、優しさ、良心の呵責、超越感などは、まさに彼の演奏を特徴づける。彼は、あたかも、あの世から響いてくるような、ベールのかかったような声の弱音で歌い始める。まるで、彼の世界の基盤が足下で崩れ、友情と名誉に対する裏切りの支離滅裂な言い訳をつぶやくことしかできないかのように、半分の声mezza voceで続ける。トリスタンのマルケ王に対するうそ偽りのない忠誠心が、ホフマンの演奏では、はっきりとわかる。しかし、彼はまた、この独白をこの役の二度目の転換点を際立たせるために利用する。ホフマンは、その歌を壮大な挽歌に組み立てていくとき(これこそ、ワーグナーがシュノールのトリスタンに関して、もっとも賞賛した性質である)、罪悪感から自由になる。不朽不滅の愛の偉大さと悲劇的ジレンマの崇高さが、それ以外の思いを無意味なものとして消し去る。彼は、その愛の大きさを物語る、涙にぬれたような音色で、ob sie ihm folge?(彼女は彼に従うか)と、イゾルデの誠意を問う。弔いの陰うつさと奇妙にうっとりとさせる美しさで、Wunderreich der Nacht(夜の国)への旅を語る。(広範囲にわたる弱音と表現力豊かなレガートで)次第に威厳を増し、死の決意に向かう恍惚感のうちに高揚しつつ、dem Land das Tristan meint(トリスタンの思う国)の魅惑的なイメージを紡ぎ出す。何ものをも超越する力に鼓舞されて、心の底にうずまく失望感に満ちた怒りをあらわに、彼の純粋な思いに異議を唱えるメロートに向き直る。Wer wagt sein Leben an meiner?(私と命のやりとりをするのはだれだ)、彼は光沢のある鋼のような音色で叫ぶ。mein Freund war er(彼は私の友だった)は、苦々しいさげすみの気持ちと、弱々しい非難に満たされる。自分の犯した罪に対して、自己正当化を図るとき、トリスタンの血は煮えたぎっている。den Koenig den ich verriet(私は王を裏切った)は、自分の裏切りに対する恐れでいっぱいになって、あえぐように歌われる。ホフマンのトリスタンは、不誠実だった友への憎しみをみなぎらせて、Weh dir,Melot!(行くぞ、メロート) と歯ぎしりするように怒鳴ると、敵の刃に我が身を投げ出す。
   ホフマンは二幕で、トリスタンという人物の心理的な側面をより深く洞察して見せる。はじめは、二種類の愛が完璧に表現されるのを見る。私たちは、苦しいほどの恍惚感の内に描き出される姿に、情欲に身をまかせすべてを焼き尽くすようなエロティシズムと理性的で力強い純粋な愛、この二つの愛の姿を、体験し、彼が選ばざるをえなかった悲劇を共有する。

   三幕、どのすばらしいトリスタンにとってもそうでなければならないように、ホフマンも、そのもっとも優れた舞台を創り上げる。残酷な肉体的苦痛に正気を失い狂乱しながらも、失われることのない詩情あふれる思いによって、最終的に美しく昇華するトリスタンが描き出される。ヴィッカーズやトーマスと同じように、ホフマンも肉体的苦痛を、激しく現実的な感じでみせつけることができる。しかし、彼らと違うのは、彼はこの残酷な苦痛の描写に奇妙な美しさを醸すことができるということだ。すなわち、そのうっとりさせられる魅力は、英雄性が、退廃度を多少しのいでいること、より純粋な王国に対する肯定的な思いのほうが、否定すべき情欲より、多少まさっていることにある。
   ホフマンはDie alte Weiseを、疲れ果て意気消沈した呈で、暗い、静かな、ものうい音色で始める。Wo war ich? Wo bin ich?(私はどこにいたのだ。 ここはどこなのだ)は、茫然自失、鈍く、抑揚のない単調さで歌われるが、Meine Herde(私の領民)では、混乱しつつも、多少意識が回復した感じだ。Wie kam ich her?(どうやって来たのか)には、消え入りそうな生命のぞっとするほど陰うつなはかなさが感じられ、このトリスタンは死の体験からゆっくりと回復しながら、目にしたものを途切れ途切れに思い起こす。Ich weiss es anders, doch kann ich dir nicht sagen(私は違うように思うが、話すことはできない)は、最弱音ではじまり、肉体から分離したような、死んだ人のような音色がDie Sonne sah'ich nicht(私は太陽を見なかった)の不吉な前兆となる落ち着いて憂うつな気分へと沈んでいく。Ur-Vergessen(究極の忘却)の弱音のフレーズには、透明な悟りがある。そして、weitem Reich der welter Nacht(世界の夜のはるかな王国に)の最弱音を超えるほどの超弱音は、厳かな畏敬の念を呈する。そのイメージがどんどんと高まっていき、Isolden scheint(イゾルデが輝いてそこに見える)で、ついに力強い調子で声になってほとばしる。それから、Verfluchter Tag mit deinem Schein(光り輝く、ねたみぶかい昼)で、自己を引き裂く苦しみに至る。そこは、呪いそのものが広く広がっていくような響きで歌われる。次に来るのは、墓場のように陰うつで、悲哀に満ちた、自責の念にさいなまれるBrennt sie Ewi diese Leuchte(この光は永遠に光り続けるのだろうか)だが、これは、優しく穏やかな旋律、Ach, Isolde, suesse Holde(ああ、美しく、たおやかなイゾルデ)へ、そして、半分の声mezza voceの、子どものように無邪気なwenn wird es Nacht im Haus?(ここはいつ夜がくるのか)へと変化していく。このように、ホフマンは最初の死から目覚めてからの一連の独白を、驚くほどの無邪気さと純粋さで、再び死に向かいあって、締めくくる。
   二番目の独白は、言葉と音の狂気に満ちた奔流だ。Isolde kommt! Isold naht!(イゾルデが来る。 イゾルデが近づく)が、彼の口からほとばしるとき、しばしば美しさと耳障りな粗いざらつき感が見事に融合した音色が効果をあげている。O treue!(おお、なんという誠実さ)は、雄大でゆるぎない。クルヴェナルの友情に対する喜びにあふれた賛歌は、熱っぽい愛の表現だ。それは、das kannst du nicht leiden(あなたは、私の苦しみを体験することはできない)の、抑え難い極限の苦しみに縁取られている。ホフマンは、現実的に体力が消耗してくずおれる瀬戸際が訪れるときには、その声が弱まり、引いていくにまかせ、再びエネルギーを補給する。イゾルデの船を幻覚のうちに見て叫ぶDort streicht es am Riff! das schiff!(船が座礁しそうだ、ほら、あの船が)は、苦痛に満ちて耳障りに響く。鋼のように引き延ばされる旋律、疲れきってあえぐ最後の言葉、Kurvenal, siehst du es nicht?(クルヴェナル、おまえには見えないのか?)のうちに、声を使い尽くす。
   三番目の独白で、ホフマンはトリスタンの高まる疲労困憊ぶりと譫妄状態をみせてくれるが、それは疲労困憊というものを徹底的に究明して見せているのであって、声の弱さではない。最後の官能的な一節、sehnen und sterben(憧れて、死ぬ)を長く引き延ばすとき、彼の愛からエロティシズムが完全に失われたことが、表現される。この後に続く、Sehnen! Sehnen!(あこがれる、あこがれる)は、悲哀と自責の念に満ちた、魂の苦悩の雄大かつ激烈な爆発だ。そして、この後、彼の思いは、アイルランドの乙女に対する甘くせつない気持ちへと戻っていく。はかなく傷つきやすい愛とあこがれの気持ちが再び死を目前にした幻覚の中に忍び込んでくる。ホフマンのトリスタンは、あの薬を呪う直前、幸せなころを身を切られるようなせつなさで思い起こす。Der Trank! Der Trank!(あの飲み物)の下降する叫びは、幻覚のもうろうとした状態を貫いて響き、この苦悩の人を、苦痛に満ちた現実の世界へと呼び戻す。この独白の最後の三分の一の、狂乱し、疲れ果て、うわ言へと移行しつつ、ホフマンはO dieser Sonne sengender Strahl(おお、この燃えるような太陽)を、怒りに満ちた非難の調子で、未来をはっきり見ているように歌う。彼はわめきちらし、口ぎたない言葉を吐き出し、犬のように歯をむいてうなり、金切り声でさけび、歌う。そうやって、彼の運命を定めた神々に対して死に物狂いの非難を浴びせる。最後の力を振り絞って、Verflucht sei fuerchtbarer Trank!(かの飲み物よ、のろわれてあれ)を、砕け散りそうな強さで叫ぶと、あたかもおおかた緊張から解放されたかのように、次の節、Verflucht wer dich gebraut(その薬を作った者こそのろわれよ)で、沈みこむように声の調子をおとし、力尽きて、気を失って倒れたとたんに、その声は、虚無のうちに消え果てる。悪夢から覚めると、ホフマンは、四番目の独白に優しく愛撫するようにとりかかる。波を越えてイゾルデがやってくる優美でたおやかな幻想を目の当たりにする独白。Wie selig hehr und mild gewandelt(彼女の
なんと穏やかに、美しく、優しく見えることか)での弱音の限りなく微妙な陰影のつけかたは、非常に美しく魅力的だ。そして、Ach! Isolde! Wie schoen bist du!(ああ、イゾルデ! あなたはなんと美しいのか!)で、美しく弧を描いて高まっていくクレッシェンドで、クライマックスを迎える。
   ホフマンは刻々と移り変わる気分を生き生きと表現する。ひとつのフレーズのうちに、多様な感情のすべてを込める。そして、トリスタンの気分が高揚するたびに、この英雄に死がそれだけ近づいているという合図を送っている。船が視野に入ると、彼はDie Fragge(旗)と二度叫ぶが、二度目の声は、最初の活気あふれた声の、青ざめて疲れ果てた残り香のようだ。トリスタンの感情は、その負傷した身体がどれほど傷ついているかを思い知る。しかし、その混乱した頭の中で幻覚がいっそうはっきりとしたイメージを持つとき(ポネルの演出では、すべて熱にうかされた夢だ)、ホフマンは、再び、勇敢な騎士らしい英雄に立ち返る。彼は、その死に瀕した身体の深みから、引きちぎるようにして、船乗りの命令を、狂ったように叫ぶ。幻覚に見た船がその視界から消えると、Verloren!(失われた)と、暗い、長く引き延ばされた叫び声をあげる。そのsiehst du es endlich?(やっと見えたのか)は、あまりにも真に迫っているので、彼と共演するクルヴェナルは、トリスタンの狂喜乱舞の呈の喜びの声を否が応でも反映しないわけにはいかない。
   死の思いに励まされるように、ホフマンは五番目の、すなわち最後の独白、O dieser Sonne(おお、この太陽)へと突進する。彼はここにトリスタンの自尊心、名誉、尊厳、そして、情欲の全てを注ぎ込む。これこそは、究極の皮肉に満ちた自己肯定、つまり、狂気のうちに、喜んで運命を選び取ることなのだ。彼は、身体的にも役と同一化しつつ、Tristan der Held in jubelnder Kraft(喜びに満ちた力強さを備えた英雄、トリスタン)では、鋭く下降するひとつひとつのシラブルに、幻想と現実を、激しく対比させる。Mit blutender Wunde bekaempf ich einst Morolden(かつて血を流してモロルドと闘った)で、その栄光に満ちた過去を回想するとき、彼は、この記憶を新たな啓示へと変化させる。本能的な直感のうちに、自分の出生、苦しみ、傷、そして愛の全てを、自己の避け難い運命である、死へとつなげる。Mit blutender Wunde erjag ich mir heut Isolden(血を流す傷によって、今イゾルデのもとへ飛び立とう)と、包帯を引きちぎりながら、狂気錯乱して叫ぶ。ホフマンは、傷が開いたこと、そして、沸き立つような血潮が流れ出ていることが、はっきりとわかる声で、愛する人の名を低くうめくように発する。彼は、昇華された苦痛の恍惚のうちに、舞台を横切ってよろめき進みながら、荒々しい、明らかにそうとわかる情欲に身をまかせた様子で、Heia mein Blut! Lustig nun fliesse!(さあ、我が血よ。 喜ばしく流れよ)を吐き出す。最後のフレーズは美しくないが、その迫真の呈は、心に強く訴えかけ感動的だ。破綻した声で、皮肉を込めて、die Leuchte! ha!(光りだ)と金切り声で叫ぶ。その我慢できないほどの耐え難い苦痛が死のめくるめくような輝きを見せているようだ。勝ち誇ったように、次第に強まり、クレッシェンドしていき、弱音の悲劇的なzu ihr!(彼女のもとへ)へと沈み込む長いフレーズのうちに、ホフマンのトリスタンは、隠された障害を超えて、あのめったに行き着くことのない王国へと全力を出し尽くす。その動かなくなった身体から、彼の最後の言葉、彼が幻覚のうちに見た救済者に対する呼びかけが、あふれ出る。イゾルデと、彼女の名前は次第に弱まり消えて行く、ディミヌエンドで発せられ、心臓の鼓動のようなつぶやきが、しずかに優しくゆっくりと途切れて終わる。
   ペーター・ホフマンのトリスタンは、記念碑的創造物である。壮大な悲劇性、人間的直観に満ちている。直ちに畏敬の念をおこさせる、傷つきやすく繊細な英雄。哀調に満ちてはいるが、決して哀れっぽくはない人物。ロマンチックでありながら、現実的な次元に存在する騎士。反抗的で、探究心にあふれ、苦悩し、孤独にさいなまれながらも、不屈の精神的理想の故に負けることを知らない現代人。ホフマンのトリスタンの秘密、すなわち、彼の演奏を歴史上の他の演奏と区別しているものは、おそらく、このオペラの音楽的、哲学的核心に、教義にとらわれることなく率直に向かい合えるという、テノールの能力にあるのではないだろうか。ホフマンは、ヴィッカーズやコロと違って、このオペラの「危険なエロティシズム」を避ける必要性を感じていない。彼は、スヴァンホルムがやったように、中世騎士道で化粧することによって、この英雄の複雑な心理を体裁良く、美化してごまかすことをしないし、ヴィントガッセンがやったように、分裂した心の葛藤のせいで精神的に破綻をきたした人間として描くこともしない。彼は、むしろ勇敢にも、トリスタンの罪は、もしそう呼ぶ人がいるとすれば、崇高であり、トリスタンの自己認識では、すべてが勝利、死ぬことさえも勝利であるという、そんなトリスタンを描き出している。
   このヘルデン・テノールの完全な分析において、ペーター・ホフマンは完璧な芸術家としての手腕と能力を示している。英雄的なスタミナ、強力な声楽的テクニック、先見的な演劇的集中度の強さ、台本に対する的を得た鋭敏さ、豊かな音楽性。この通過すべき役をやり遂げたことによって、ホフマンは、不朽のヘルデン・テノールたちの仲間としての場所を確保した。
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