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14章 ペーター・ホフマン -12/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

ローエングリン

   パルジファルにおいて、ホフマンが生じさせることができる真実、精神性、感動は、彼のローエングリンの放つ輝きと存在感の成就にも貢献している。多くの先輩たちに比べて、ホフマンはローエングリンをより人間的な存在と見ることにしているから、彼のローエングリンは時に激しい論争を引き起こす。彼には白鳥の騎士の神々しさが欠けているとか、彼には奇妙に覚めているのが明らかな瞬間が見られるとか、非難している批評家も少数だが存在する。しかし、こういった見解は彼の役に対する考え方を誤解しているように思える。ペーター・ホフマンはローエングリンを人間性を希求する神の如き存在としてとらえる。初めから、その素性と気質のとらえどころのなさにだれもが気がつくが、同時に、この神の人間性を求める強い力を確信させられる。 ローエングリンの神の如き有り様と、道徳的な心理状態の間で彼が保つ緊張感はホフマンの舞台に著しい劇的な力を与える。すなわち、情熱的な人間の感情と、人間の世界とは隔絶した霊的な世界へと引き返す冷静さが、交互に示されるのを目にする。 歌手はローエングリンを異次元からの来訪者として描き出す。つまり、ローエングリンは、人間の愛の形の中で自らが救済されることを求めて、救済者たらんとする者なのだ。(テレビ番組、ホフマンの夢の中で、歌手はスーパーマン・ローエングリンを創作した。その場面はこの二つのお話の現代的な類似点を映し出していた。彼はアイヴォリー・マンIvory Manでも似たようなことをしている。)
   多くの論争は、ローエングリンを歌うのに必要とされる「正しい種類の声」ということにも焦点が当てられる(一般的にイタリア的な方法対ドイツ的な方法に分けられる)。Donal Henahanのような人たちは、ホフマンの声は軽すぎると思っている。その一方で、反対に、彼の声は、抒情性が不足していると非難している人たちもいる。あまりにもヘルデン・テノールでありすぎるというのだ。これらの見解は、両極端を示す批評の面白い例として、ヘルデン・テノール史研究者としての著者の興味をひく。私の耳にとって、ホフマンは理想的なローエングリンの声、すなわち、十分な重さ、本当に英雄だと思わせてくれる英雄的な信憑性、さらに、この英雄を誇り高いドイツ人にするいかにもドイツ的な歌い回し、そして、同時に、ワーグナーが要求したベル・カント的な柔軟で豊かな音色を備えた声を持っている。
   ホフマンはバイロイトでは、1979年ゲッツ・フリードリヒ演出で、初めてこの役を担当した。当時、Rudolph Joeckle ルドルフ・ジェックルはホフマンを若く、共感を呼ぶ、まさに人間的なローエングリンとして賞賛した。Erich Rappl エーリッヒ・ラップルはペーター・ホフマンはこの役に、立派な落ち着いた男らしさと同時に、純潔の輝かしさと若者らしい情熱をもたらし、舞台で演じられているのだということを忘れさせるほどだった。彼の生き生きとして活気にあふれる、柔軟なテノールは、抒情的な優雅さに満ちている・・・ と、熱狂的に書いた。 Richard Bernstein リチャード・バーンスタインは、圧倒的な批評の熱狂をこんなエピグラムで端的に総括した。ペーター・ホフマンこそが、まさにローエングリンなのだ。
   バイロイト音楽祭で、この役を始めて歌った1979年、高音を出すときに、多少構えるような感じが聞き取れたにしても、その声は、甘い優しさ、明瞭なフレージング、彼の演奏の特徴である劇的な陰影などを、示していた。1980年には、ホフマンの声にはもうどんな「破綻」も聞き取れなかった。新たに統合され輝かしさを増した声は、今や、ローエングリンの難しい音域tessituraで、楽々と鳴り響いた。高いAの音も易々と出ていた。そして、1981年にこのプロダクションは録画され、各種の賞受賞作品となるクラッシク音楽映画を、ホフマンは創り上げた。
   ホフマンは、バイロイトでの三シーズンに渡るフリードリヒ演出に加えて、世界中のあらゆる主要オペラ・ハウスで白鳥の騎士を引き受けた。ほとんどが、彼のために企画された新演出だった。1980年1月24日のメト・デビューに際して、Speight Jenkins ジェンキンズはニューヨーク・ポストに、ペーター・ホフマンはローエングリンとして印象的なデビューを果たした。彼の息をのむほど表現力にあふれた、「はるかな国に In fernam Land」、そして、非常に強い印象を与えたエルザとの別れ。その最後の高いAの音は、最初のそれと同様に新鮮だった。と書いた。彼は、ハンブルクでもマンチェスターでも(1981年)同じような感じで賞賛された。1982年にはこの役でパリのガルニエ宮のシーズン開幕公演に出演、チューリッヒとモスクワでも新演出初日を飾った。1983年、ベルリンとスカラ座にローエングリン・デビューした。カラヤンは彼を1984年のザルツブルクに招いた。1985年から1986年にかけて、アウグスト・エヴァーディングの新演出でニューヨーク、メトロポリタン歌劇場。1986年と1988年にはマンハイムとウィーンでこの役を歌った。1987年にはヴェネチアはフェニーチェ座の特別なワーグナー記念公演で、熱狂的な拍手喝采を巻き起こした。Corriere della Sera は、このときのことを、こう書いた。ペーター・ホフマンは、非常に説得力のある白鳥の騎士だ。声楽的には完璧。白い衣装をつけた姿といい、理想的な人間の物腰といい言うべき言葉もないほどだ。
   たくさんある声だけの記録に合わせて、二つの映像を研究すれば、彼の演劇的な考えの発展経過がわかる。ホフマンの演奏は、1979年のバイロイト・デビュー以来、視覚的にも成長している。詩情あふれる美しさと器量の大きさが増している。1980年バイロイトの白鳥の騎士は、最近のものに比べて、より厳しく、より怒りっぽく、激しい。その後、より円熟した優しさと底流にあるより大きな苦しみに満たされるようになった。それに、彼の成熟した声の芸術性がスコアの中により繊細なニュアンスを見出すようになった。さらには、微妙な強弱感に加えて、ホフマンは神話が人間の姿をとった息をのむほどにロマンチックな人物を
完璧な状態に仕上げて見せた。あらゆる意味で、ペーター・ホフマンが描き出すローエングリン像は、神とみまごうばかりだ。
   声楽的にも演劇的にも、ホフマンは題材を完璧にコントロールしている。彼は、この役を自信たっぷりに演じるが、これがローエングリンに不可欠である畏敬の念を、納得ずくで、生じさせる。歌う役者としての彼の集中振りは、これは常に傑出しているが、ローエングリンでは特に顕著である。その独唱は、全体に対しては非常に個性的な主張となり、二重唱は真の対話になる。その動作には無駄がなく、大げさに動くことがないにも関わらず、その動作の意味が、力強くはっきりと伝わってくる。特に、そのほっそりとして表現力豊な手を用いて、多くを伝える。彼は、冷たく抑制的であると同時に激しく情熱的なオーラを強烈に放つ。彼が放つ純潔さと官能性が、彼の白鳥の騎士を卓越したレベルにまで高めている。

   きらきら光る白い鎧を身にけた、その輝くばかりの登場の瞬間から、おとぎ話が現実となって、目の前に出現する。舞台奥で、Nun sei bedank と、白鳥への別れを告げるとき、その柔らかい黄金の輝きに満たされた声は、完全に劇場中へと伝わっていく。音色は、純粋で、節度が保たれ、抒情的であり、磨かれた金属のような鋭さに彩られている。粗さはなく、充実している。哀愁があり、優雅である。この異世界からの訪問者はゆっくりと向きを変え、まるである種、神がかった恍惚状態で、この世における自らの道を探るかのように、魔法にかけられたように、ほんのしばらくじっとたたずむ。それから、彼は勇気をふるって、エルザを探し求める。 (演出によって、目だけで求めたり、あるいは、直接彼女のそばに行く) そして、最後に国王ハインリッヒに向き直り、著しく注意をひく声で、あいさつする。彼の全体的な物腰こそは、貴族的崇高さの典型を示している。すらりとした直立の美しい立ち姿、誇り高く、穏やかで優しく、好戦的なところはなく、内面的な輝きがあふれている。テルラムントに対する挑戦には敵対心はまったく見られない。それは、敵対心ではなく、無実の罪を着せられた乙女を守るという、彼の使命を誠実に表明するものだ。ホフマンはここで無私無欲のローエングリンを描き出す。実際のところ、彼のエルザに対する態度には気後れさえ見られる。より深い愛の源泉の存在を示しつつ、情熱の目覚めを感じつつ、二人は控えめに視線を合わせる。穏やかに優しく、しかし、断固とした調子で、Nie sollst du mich befragen. . . .(決して尋ねてはならぬ・・・)という言葉を彼は発する。命令を繰り返すとき、声はより強く響き、目には神秘的な炎が燃えている。エルザが、命令に従うことを誓うと、ホフマンの顔には言いようのない喜びの表情がひろがる。敬虔で冷たい輝きが緩んで、太陽の光のような人間的な暖かさがのぞく。彼は、Elsa, ich leibe dich(エルザ、私はあなたを愛す)と、柔らかく、愛撫するかのように歌う。その優しい弱声、mezza voceメッツァ・ヴォーチェは、彼が感じている幸福を示す。テルラムントとの闘いは、写実的な場合も、様式化されている場合も、英雄的に鳴り響く勝利宣言Um Gottes Sieg(神の勝利によって)は、常に威厳を失わない。テルラムントを許すところから、一幕終了の合唱を通じて、ホフマンは二つの世界に立つことになった英雄の気持ちを伝える。彼を導く神の助けを賛美し、その一点を見つめる眼差しは、この世の混沌とテルラムント一味の嘆きではなく、彼方にある聖杯の王国を見ているのだと感じさせられる。それでも、愛情に満ちた人間的な関わりのはじまりを示す甘いおののきも味わっている。一幕の終わりまでに、ホフマンのローエングリンは、彼がブラバントに来ることになった奇跡を達成し、エルザを守ることに成功するが、彼もまた奇跡の体験者となる。すなわち、彼自身が人間性を獲得するきっかけを与えられることになる。
   二幕では、ローエングリンは後半まで登場しないけれど、オルトルートの告発騒ぎのただ中への彼の登場は、その場を静まり返らせるような輝きをもたらす。was ist's?(一体何事か)、彼はいらだった様子でこう尋ねるが、その、暴力に対する嫌悪感によって封じ込められた激しい怒りは、その鋼のような青さできらめく眼差しと、その声の金属的な鋭さに、現れるだけだ。彼は、軽蔑の念に満ちた声で、オルトルートに立ち去るように命じる。Was seh'ich! Das unsel'ge Weib bei dir!(私は一体何を見ているのか。あの汚れた女があなたと共にいるとは)と、エルザに対して嘆きを表わし、さらに、オルトルートに向かって、steht ab von ihr!(彼女から離れろ)と命じる。それから、再びエルザに向き直り、疑いの心をおこす毒が、彼女の心に入らなかったかと尋ねる。その声の感情の高ぶりを示す音色と彼の物腰の奇妙な親密感には、彼の恐れがはっきりとあらわれている。テルラムントを阻止して、彼はエルザに優しく問いかけ続ける。In deiner Hand, in deiner Treu, liegt alles Glueckes Pfand(あなたの手の中でこそ、あなたの誠実さによってこそ、私の喜びは保証されるのです)Laesst nicht des Zweifels Macht dich ruh'n. Willst du die Frage an mich tun?(疑いの力に捕らえられないでほしい。私に質問したいのですか) 再び、一人の異邦人として二つの世界の間で、苦悩に氷ついたように立ち尽くし、彼女の答えを待っている。彼女が否定し、その愛情を再確認すると、彼の人間の心が再び息を吹き返し、彼女に優しく手を伸ばし、涙にぬれた彼女を慰め、元気づけるように微笑みかけ、穏やかに彼女を愛撫する。彼の愛撫の汚れのなさは、強烈なエロティシズムと紙一重だ。彼のHeil dir! Nun laesst vor Gott uns geh'n(さあ、エルザ、共に神の前へ行こう) は、ゆっくりと、荘重に行われる。彼女の名前のところで、非常に美しく魅力的に、徐々に弱められ、最弱音に至り、つづく旋律では、弱音が維持される。それは、快い確信、神と神による美しい被創造物に対する深い敬愛の念、そして、壊れやすい幸福を表わす響きだ。柔らかに歌われる理由は、大声で吹聴するには、あまりにも貴重な感情だからだ。次に続く合唱の中でさえ、そのように明示してあれば、ホフマンは柔らかく歌う。彼のローエングリンは出来事を内省的に熟考する。劇的に適切な瞬間には力強く強まっていく声で、美しく調和した音の満ち引きを創り出す。このような最高の瞬間において、彼と比較できる者はまず存在しない。そもそも、その複雑に絡まった思考網も、やはり異邦人のものだ。合唱が完了すると、このローエングリンは手を伸ばして、威厳をもって、エルザを教会へと導く。オルトルートが最後のチャンスとばかり彼らの行く手を阻むとき、ホフマンのローエングリンは片手を一度振って彼女を追い払う。小さいが、強制力を感じさせる、有無を言わさぬ動作だ。
   三幕、花嫁の部屋の場は、まさにホフマンの傑作、彼の名人芸が見られる。ワーグナーの有名な結婚行進曲のメロディーが始まると、彼が登場する。輝くばかりにゆったりとした気楽さを備えた人間らしい生き生きとした雰囲気をまとっている。ホフマンは、エルザに対する徹底的な集中状態とその魅惑的な身体によって、抑制された性欲の持つ刺激的な感覚を生じさせる。純潔によって抑えられている情熱と粗野な本質が新たに見えてくる。彼は、Das suesse Lied verhalt; wie sind allein(甘い調べも消えて、私たちは二人きりだ)を、抒情的に愛情いっぱいに始める。優しく、彼女の瞳、彼女の顔、髪、全身を、突き刺すような憧れの眼差しで探っている。ホフマンは、恍惚感を含むフレーズで、mezza voce, piano, pianissimoなどの弱音を多用する。エルザが禁じられた問いを発する前、あふれるような詩情をたたえて歌われるAtmest du nicht mit mir die suessen Dufte?(甘くかぐわしい香りを感じないのか)において、ありったけの愛を、喜びの気持ち全開で、高らかに宣言する。怒りと悲しみに打ちひしがれて膝をついてくずおれる前の崇高な瞬間、彼は、彼女の口を閉じようとして手を伸ばす。それは、愛を守ろうとする死に物狂いの行動だ。すべてが失われた苦痛を感じつつ、両手で頭を抱え込むが、猛烈な苦しみを抑えることはできない。目には涙があふれる。彼のHoechstes Vertrau'n(私は深く信頼した)は暗く、困惑に満ちて、とても説得力がある。激しい非難としては、愛情に欠けていないし、理解さえ示している。しかし、痛みを和らげることはできない。エルザが差し出した剣を受けとるために機械的に振り向いたとたん、感情の失せた自動的な動作で押し入ったテルラムントを切り捨てる。そして、力なく立ち尽くす様子は、内面的な崩壊をまざまざと表わし、Weh' nun ist all unser Glueck dahin(ああ、今や私たちの幸福はすべて失われてしまった)で、彼の英雄的な声は悲しげなつぶやきに変わる。
   ホフマンの演奏では、この瞬間から、ローエングリンは、人間と愛し合いたいという激しい欲求故の永遠の悲しみを知ってしまったにもかかわらず、その人間的な愛の喜びを、彼は得ることができないことを知っている。心をかき乱され、空虚な気持ちを抱えつつも、はるか彼方からもたらされる墓場のように陰気な落ち着きが彼を支配する。彼はブラバントの貴族たちにテルラムントの亡骸を運び出すよう威丈高に命令し、寛大な態度で、エルザの侍女たちを呼ぶ。そして、これが最後とばかり花嫁を振り返って、限りなく穏やかに立ち去る。
   エルザの要求に答えるべく、王の前に再び現れたとき、ホフマンのローエングリンは、苦悩に傷ついた様子を示している。まばゆい衣装を身につけてはいても、(ゲッツ・フリードリヒの演出では彼の苦悶を強調するために極めて不吉な黒い鎧だが、エヴァーディングの演出では銀色と金色の衣装)その明らかに落ち着かない態度と合わせて、顔の表情もその不安感を伝える。彼は、苦悩に満ちて、檻の中の動物のように舞台を歩き回る。己の運命と向かい合う力を死に物狂いで求めるかのように舞台上を大股で歩き回る。エルザの前で止まったとき、彼は自らが必要としていたものに気がつく。そのとき、彼の怒りは緩み、全てを許す愛に変わる。身体をぴんと伸ばしすくっと立って、非常に威厳のある態度で、ホフマンのローエングリンは、最高の瞬間、Vor aller welt, vor Koenig und vor Reich, enthuelle mein Geheimnis(全世界と王と王国の前で、秘密を明かす)を、極めて軽い弱音で、はっきりと明瞭に歌う。
   聖杯物語の前にある静寂の数秒間は、ホフマンの舞台では、常に特別な感動を呼ぶ。この突き刺すような静寂の中に、卓越した詩人の孤独感を漂わせる。目を閉じ、勇気を奮い立たせ、彼が出発してきた霊的な王国との超自然的な交信を求めつつ、神々しい魂の苦悩と栄光を表わすように、「遥かな国に」を歌い始める。傷ついた死すべき人間の状態から、崇高な神性を備えた状態へと、フレーズを一つずつ微妙に積み重ねて構築しつつ、移行していく。ホフマンにとって、聖杯物語はローエングリンの自己無罪評決、ブラバント王国に対して、自らの正義の力と聖なる出自を証明するもの、挫折したエルザに対して、自分の無傷を正当化すること、愛のうちに、その中の一人として生きようと望んだ人間の共同体に向けて発せられる威厳に満ちた最後通告なのだ。しかし、さらには、それは彼自身の霊性の証、聖杯が彼を見捨てていないことを明示するもの、その神に由来する力が、まだ彼の内にあるということ、その純潔が彼の人間への憧れを許すということなのだ。ホフマンの内的な確信の強さと集中力が彼の音楽に流れ込む。甘く優しい黄金のように輝く弱音mezza voceで、彼は始める。独特な透明で、充実した響きの中で、モンサルヴァートに関する宣言は、異次元世界の光に包まれる。Taubeというところは完璧な弱音pianoである。そこには、彼がその霊的確信に触れ、恩恵にあずかる力を取り戻したことを暗示する説明し難いとらえどころのない感情が込められている。それから、徐々に高らかに響く終わりの部分へと盛り上がっていく。Mein Vater Parsifal traegt seine Krone; sein Ritter ich -- bin Lohengrin gennant(父は王冠をいただくパルジファル、私はその騎士、ローエングリン)と、誇らしく名乗りをあげるのだ。歓喜にあふれる音楽が渦巻くように高まっていくとき、ホフマンは忘我の一瞬、目を閉じ、我に返って目を開ける。そして、上空に視線をさまよわせ、聖なる兄弟愛への再編入の印である白鳥の影を求めて、傷つきやすい雰囲気を漂わせて、祈る。白鳥が目に入ったとき、彼の目には厳粛な炎がきらめく。白鳥が登場しないエヴァーディングの演出では、これが唯一の印である。彼は向きを変えて去ろうとするが、再び戻らざるを得ない。エルザとの悲しみにあふれた別れはローエングリンの深い悲劇性を物語る。死すべき人間に混じってのつかの間の滞在でローエングリンが得たものは苦痛に満ちた思い出だけだ。それでも、エルザへ向けての情熱的な旋律でこの思い出を語るとき、涙を抑えて歌うフレーズで、All meine Gedanken(私の考えのすべて) と断言するとき、最後の抱擁のあと頭を上げて、Leb'wohl!(さらば)と声を振り絞るとき、ホフマンは、ローエングリンの悲劇とは、すなわちローエングリンのすばらしさでもあると信じさせてしまう。はるか彼方の、孤独な、神の如き騎士が人間の心を手に入れたのだ。
   舞台奥に大股で進むと、輝くような別れの歌が歌われる。その登場と同じように、黄金色に輝き、甘美で流れるような歌だが、今度は感情的な陰影が深まっている。音質の、肉体から魂が抜け出たような異次元的な感じは弱まって、私たちと同じ次元に立つ、より現実的な存在という感じが強まっている。オルトルーのあざけりを含む呪いの言葉に、彼は突如霊感にうたれる。ゴットフリートにかけられた魔法を解こうと、全身全霊を込めた黙祷によって、ホフマンのローエングリンは聖杯にへりくだった気持ちで祈願する。それは、いわば後ろ髪をひかれる思いで、地上の愛の証をやっとのことで後に残して、再び救済者として旅立つ、過ちをおかしたさすらい人の嘆願なのだ。
  ペーター・ホフマンは常に最高のローエングリンのひとりとして舞台に立つ。 すなわち、我々の時代つまり、冷笑的な雰囲気の支配的な時代に通用する、現代人である私たちの心に訴える、並外れて非凡なローエングリン像を見せてくれる。どうしようもないほど頑固で疑り深い人でさえ、信じさせてしまうほどだ。彼のローエングリンは、不思議な人ではあるが、超自然的というよりは、むしろ人間的だ。ローエングリンは奇跡ではないと、ホフマン自身がたびたび語っている。ローエングリン自体が奇跡というよりはむしろ、テノールの考えによれば、ローエングリンの地上への旅を奇跡にするのは、白鳥の騎士の能力なのだ。すなわち、彼は、愛し、犠牲を受け入れ、救済することができる。
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