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追悼記事-2 [記事]

ブリュッゲマンの2001年の記事を引用した追悼記事:


英雄の生涯 ペーター・ホフマンの死
2010.11.30 Berthold Seewald

オペラ歌手で、ロック歌手、そして「オペラ座の怪人」だった。病気に対して果敢な闘いを挑み、・・そして、亡くなった。

ペーター・ホフマンほどヘルデンテノールらしかった人はほとんどいない。32歳のときバイロイトでジークフリート(←間違い。正しくはジークムント)を歌った。パリからニューヨークまで、ワーグナーの英雄を繰り返し見事に演じた。文字通りワーグナーの英雄を体現した。すなわち、ブロンドの見事な巻き毛、体格のよい大男としての外見で、ヴォータンやトリスタンやパルジファルの世界を絵に描いたように見せてくれた。こんなことができる歌手はほとんどいない。実生活でもポピュラー音楽でもミュージカルの舞台でも英雄を演じた。そして、とりわけ長年にわたる酷い進行性の病気と闘った英雄だった。そして、今ペーター・ホフマンは英雄の人生を終えた。オーバーフランケン州セルブの病院で、息を引き取った。66歳だった。

ホフマンのキャリアは根本的に英雄を演じる事だけだった。1944年ボヘミアのマリエンバートで生まれ、ダルムシュタットで育った。ロック歌手になりたかったのでロックンロールのバンドをやった。それだけではなかった。棒高跳びではヘッセン州の優勝者になった青年はもっと高いところを目指した。ドイツ国防軍で義務兵役につき、落下傘兵になった。その(兵役延長)補償金をカールスルーエの音楽学校で声楽を学ぶ資金にした。1972年モーツァルトのタミーノだった。1976年にはワーグナーのジークフリート(←間違い。正しくはジークムント)で頂点に立った。

現代のワーグナーの英雄
だが、ホフマンはオペラだけでは満足しなかった。「クロスオーバー」という概念が登場するずっと前に、ヘルデンテノールの彼はポップスとロックをやり、革の服を着てモーターバイクに乗った。まさしく現代のワーグナーの英雄だった。ポピュラー活動の収入だけでも晩年の静かな生活には十分だった。テレビの連続ドラマ「ワーグナー」ではリチャード・バートンとの共演で、テレビに初出演した。

そして、常に新たな挑戦を求めて、活動範囲を広げた。1980年代の終わりには、ホフマンの声はもはやオペラの要求には応じられない状態だった。そのとき、1990年、オペラの代わりに、ハンブルグでの「オペラ座の怪人」に出会った。だが、その後1994年には、パーキンソン病の初期症状と診断され、英雄の生活が期限付きであることが明らかになった。それでも、1997年には再び、バート・ゼーゲベルクのカール・マイ劇で、Gojko Mitic との共演でオールド・ファイアハンドという新たな役を引き受けた。しかし、2年後には、どんな投薬ももはや病気を抑えることができなくなった。バイロイトのそばに、古い農家を買って自伝を書き(←2003年刊のバイオグラフィーのことでしょう。マリタ・ターシュマンが数年かけてインタビューして書いて出版したもの)、「ペーター・ホフマン・パーキンソン・プロジェクト」によってパーキンソン病の研究を援助した。それ以外には、インタビューも、トークショウも、パーティーも、すべて断った。


「突然何もできなくなる」2001年に特別に公の場に出た。その時、「病気についてあまりにも楽観的だった」と彼は言った。彼は発作を甘くみていた。彼も、きょうは寝ていたほうがよかったと言った批評家も、重大な病気だとは思っていなかった。しかし、症状はどんどんひどくなっていった。体調不良は、彼が言うところの封鎖に対する絶え間ない闘いに変わった。「突然何もできなくなるのです。突如激しい不安に襲われます。全力で身体に全神経を集中しなければなりません。時には、朝起きても、何をどうすればいいのかわらないのです。残っているのは、ワルキューレを2公演続けて歌えた頃の思い出です」


最後には、それさえも、覚えていないかった。数年前には認知症の症状も出て、車いすの生活になった。そして、否応無しに他人の助けに身を任せるしかなくなった。このような状況に耐えることが、別の意味において彼を本物の英雄にした。英雄らしさには、受難が含まれるものだからだ。自分自身の身体に苦しめられなければならなかったことこそが、ホフマンの悲劇なのだ。

ビルド紙によれば、ペーター・ホフマンは、次の月曜日に、ごく近い家族だけで、埋葬されるということだ。

この記事に対するコメントのほんの一部を紹介しておきます
*バイロイトで歌ったのはジークフリートではない
*厳粛であるべき追悼ではない。扇情的で誤りがある
*ホフマンはバイロイトでワルキューレのジークムント、パルジファル、ローエングリン、マイスタージンガーのワルター・フォン・シュトルツィングを歌った。(←トリスタンが抜けている)それに、声楽の学費を兵役延長補償金で払ったのではなく、ドイツ連邦軍職業支援サービスによってカールスルーエでの声楽教育が受けられたのだ。だから、あそこには今も彼の謝辞が飾られている。ちゃんと調べないでウィキペディアを書き写すべきではない。
/https://euridiceneeds.blog.so-net.ne.jp/2018-11-29戻る

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