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オペラ歌手でロック歌手-1 [2003年刊伝記]

オペラ歌手でロック歌手に、矛盾なし ・・・1

 「オペラに対する情熱にもかかわらず、ロックミュージックを全く忘れたわけではなかった。なんと言っても、私はこの音楽と共に育ったのだし、バンドで歌っていたこともあったのだ。私は、いわゆるクラシック音楽(ersten Musik)を専門職とする者が、ポピュラー音楽(娯楽音楽Unterhaltungs-Musik)を楽しむのはよくないという考えは持っていない。この逆も同様である。ポピュラー音楽の大物をオペラハウスで見かけることもよくある。例えば、ニューヨークのワルキューレの公演で、アニー・レノックスに出会った。ロックミュージシャンで、クラシック・ファンであることを『公表』している人も大勢いる。ミック・ジャガーもそのひとりだ。あるパーティーで彼と一緒になったとき、新聞記者とテレビ関係者が私たちのところに殺到した。私は、ミックを、翌日の私の『パルジファル』に誘ったが、『パルジファル』は、オペラの中では、あんまり好きじゃないと言うことだった。テレビを見る人は、ミック・ジャガーのような人物はオペラに興味をもつなんてことはあるはずがないと、信じている。ところが、彼はそのあとも続けてこう言ったものだ。読書もとても好きだし、モーツァルトのオペラを見るのも好きだよ。
 ビートルズやストーンズその他の良質のロックミュージックやポップミュージックと共に成長した、私と同世代の多くのオペラファンは、オペラ以外の音楽も高く評価している。私はかなり前から、ロックミュージックを再開することを本気で考えていたが、仕事に追われて計画を進める時間はなかった。そんなある日のことだ。当時CBSソニーの制作マネージャーで、後にソニーの社長になった友人のヨッヘン・ロイシュナーが、弟と一緒になんとこのことについて話すために、赤ワインを一本持って夜遅くに訪ねてきた。ヨッヘンが私の目下の予定を聞くので、弟のフリッツが、またすぐオペラハウスからオペラハウスへの移動になるが、今は一時的にニューヨークに滞在しているのだと、説明した。ヨッヘンは身を乗り出して、『ペーターは、ずっと前のことにしても、ビートルズその他のロックミュージックをやっていたわけだから、適性があるにちがいない・・・』と言った。その後、ニューヨークから家に戻ってみると、机の上に正式な企画書が置いてあった。ロックのレコードをつくりたいという気持ちになったが、例えばチャートに載るというようなだいそれたことは期待していなかった。とにかく楽しかった。ベルリン・ドイツ・オペラ・オーケストラのメンバーとロックミュージシャンたちと録音している間に、音楽はどんどん力強くボリュームいっぱいになっていった。怪物『ロック・クラシック』が生まれた。」

momo10rck.jpg「ロック・クラシック」は1982年に発売された。レコード録音とミキシングが済んでから、ペーター・ホフマンは、弟のフリッツとヨッヘン・ロイシュナー、それからもう一人の友人とスイスの山小屋で、1週間のハイキング休暇を過ごした。豪華なホテルもインタビューも対談もない代わりに、ただただ生きる喜びがあった。4人の男たちは毎日強行軍して、夕方には完璧に疲れ果てて自分たちの山小屋に戻り、主にチーズホンデュと乾燥牛肉と新鮮な牛乳と赤ワインで栄養補給して、自然を満喫した。「ロック・クラシック」の発売日にはじめて、スイス山岳地帯の隔絶された世界に再び「文明社会」からの連絡が入ってきた。ペーター・ホフマンの話では、だれ一人として、その週のその日には、その後に起こったようなことは夢想だにしていなかった。まずヨッヘン・ロイシュナーが、大いに期待したからではなく、むしろ仕事上義務的に、CBSに電話をかけた。「ホフマンの『ロック・クラシック』、確か今日が発売日だが、どんな具合ですか。スイス滞在中に、2、3枚かそこらなら、我々が売るから、すぐ送ってくれませんか」彼は答えを待っていたが、青ざめて、黙って受話器を置いた。しばらくしてからやっと彼は口を開いた。「信じられないよ。今日、間違いなく2000枚売れたなんて。たった1日でだぞ。クラシック・レコードだったら、最終的にそれだけ売れれば多いほうだ。」翌日には、4500枚だった。さらにその翌日には二倍近かった。数日後には、売り上げは、ヨッヘン・ロイシュナーがうれしさのあまり躍り上がって「村へ繰り出して、赤ワインで乾杯だ。数日で31000枚も売れたんだ」と、叫ぶほどのすごい枚数になった。この分野ではプロのヨッヘン・ロイシュナーにとっては、思いがけない予想外の成功だった。ペーター・ホフマンのほうは全く無感動にヨッヘン・ロイシュナーを見やって質問した。「それって多いのか」それに対して、ヨッヘン・ロイシュナーは信じられないといった様子で頭を振りながら答えた。「じゃ、何だって言うんだ。多いかどうか、聞いてみろよ。お若いの、君は、我々が合計3万枚の売り上げで、もうお祭気分で祝っていることを知らないんだ。それが数日の売り上げなんだよ」

 スイスから戻って、三日目、フランクフルトから、もうすぐ「ゴールド」だという報告が届いた。その二日後、金ぴかのレコードに相応しいお祝いを催した。その後も祝賀パーティーの機会がさらに続いた。国外での売れ行きによって「ゴールド」の上にさらに「プラチナ」が続き、その後は、「ダブル・プラチナ」だった・・・売り上げ枚数はほとんど200万枚に達した。「ロック・クラシック」は、13週間続けて、売り上げチャート第1位だった。こんなことはだれも計算していなかった。制作者も共演者もこの企画に特別の期待を持ってとりかかったわけではなかったし、販売戦略を練り上げ、展開したわけでもなかった。全員の一致した意見は「楽しいことだから、とにかくやってみよう。1万枚は売りたいものだが、それだけ売れたらすばらしい」 というものだった。  この成功は1年以上続いた。ロックやポップスのレコードはふつう1年もたたないうちに終わってしまうことが多いのだが、「ロック・クラシック」は、20年後の今も、1年におよそ3000枚が売れている。
 このアルバムが「プラチナ」を獲得したとき、フリッツ・ホフマンは、関係者一同と友人たちを招いて、フランクフルト芸術家地下酒場の奇妙な丸天井の一室で、大パーティーを催した。大勢の芸術家仲間も招待した。約半分は、秘書から音響技術者にいたるCBSの社員だったが、全部で250人が集まった。巨大な音楽設備を背にディスク・ジョッキーが力一杯しゃべっていた。それに、種々雑多な人々が雑然と寄り集まった会場は、色とりどりで、はちきれそうな雰囲気だった。CBSの社員には、ペーター・ホフマンとフリッツ・ホフマンからのプレゼントとして「ペーター・ホフマン、ロック・クラシック、プラチナ、CBS」と書かれた銀色のステッカーを巻き付けたスパークリング・ワインが贈られた。
 その晩は、エージェントのマレク・リーバーベルクも出席していて、ただちにペーター・ホフマンの演奏旅行に関する取り決めがなされたが、オペラの舞台契約が多数あったため、この計画は1984年の春にはじめて実現することになった。1983年に、ペーター・ホフマンはこのアルバムに対して、その年の「ゴールデン・ヨーロッパ賞」、ラジオ・ルクセンブルグから「名誉獅子賞」、クラッシクとポップス両方における優れた歌手に贈られる「ゴールデン・バンビ賞」を受賞した。
 そのタイトルが示しているように、「ロック・クラシック」には、1960年代と70年代にヒットしたレコードの曲が並んでいた。それらは当時14歳から40歳の間の年齢のほとんどの人が無意識にメロディーを口笛で吹くことができるような曲だった。ペーター・ホフマンの「大声」に加えて、大半がオーケストラ伴奏をつけられた歌の、伝統的な装いのメロディーが新鮮だった。確かにその間をぬって時折、エレキギターやシンセサイザーやドラムの音がガチャガチャと聞こえてくるのだが、全体的な響き、特に序奏部分はクラッシク・ファンに合わせてつくられていた。「セイリング」の序奏を聴くと、追っ手から逃れ、最後の力をふりしぼって、やっとのことでフンディングの家に逃げ込む、ペーター・ホフマンのジークムントの姿を無意識に思い浮かべてしまう。歌唱に関しては、多くのポップス評論家が、ペーター・ホフマンには、ロックシンガーに絶対不可欠な「崩れた雰囲気」や、「下腹部から生じる」「下品な」響きと音色が欠けていると、繰り返し非難した。ペーター・ホフマンはまさに「しわがれた」声を持ち合わせていなかったというのは、もちろん間違いではない。これは、彼の「セイリング」における歌唱を、オリジナルであるロッド・スチュワートの「ごわごわした」感じの歌と比べれば、すぐにわかる。かといって、「オペラのよう」には全然きこえない。むしろ、歌の性格に合わせて、声のボリュームを落としている。それに、部分的には、非常に低い音域で歌っている。ただし、その他の点では、およそロックやポップスを歌うべき方法ではない。我々は、まさに1980年代に、声の生理的な限界内で感動するのではなく、電気的な手段によって支えられて低く力強く響く声をたくさん聞くことができるようになった。非常に美しいと思われたビー・ジーズの裏声も、おそらく1982年にはもうそんなに注目されなかったのではないだろうか。評論家の非難にもかかわらず、1982年「ロック・クラシック」は市場の隙間を満たしただけでなく、時代精神をも的確にとらえていた。これ以外にこのアルバムの信じ難い成功の説明がつかない。当時を覚えている人なら、あのレコードを買ったのが、30歳以上の改宗オペラ・ファンだけではなかったことを知っているはずだ。クラシック音楽に慣れ親しんでいる聴き手は、最初の歌『朝日のあたる家』の導入部ではまだうきうきした気分で、ワーグナー的な音の中にポップスのメロディーを期待して楽しめるかもしれないが、その後に続く、雷雨のようなエレキ・ギターによって、耳ががんがんすることになる。ディスコに詳しいティーンエージャーもまた、『ロック・クラシック』をレコード・プレーヤーに載せるか、徐々に普及しつつあった次世代ウォークマンにカセットを入れて、ボタンを押した。オペラのテノールがロックミュージックを一体どのように歌うのかという好奇心がひとつの動機だろうが、唯一好奇心だけがこの現象を生んだとは思えない。1982年のチャートが映し出しているドイツの音楽状況を観察すると、ペーター・ホフマン・サウンドが完全に比類のないものであり、なぜか突出していたことが明らかになる。当時のドイツ人はペーター・ホフマンのほかには何をきいていたのだろうか。1982 年は、ニコルが『少しの平和』でシュラガー・グランプリその他の賞を勝ち取った年だった。ローランド・カイザーがすぐあとに続いていた。ゴットリーブ・ヴェンデハルスは、ドイツ人の楽しみを担当していたわけだが、フランク・ツァンダーが歌った歌で、『そう、私たちがみんな天使なら』にかわってヒット・チャート入りした『ぴかぴかのポロネーズ』は、ドイツの歴史に残る「アヒル・ダンス」だった。ポップスの分野では、アバが新曲の最新アルバムを発表したが、その結果、グループは解散してしまった。その前にすでに、ボニー・エムがチャートから消えたことが、それ以前の10年間支配的だった陽気だが単調なディスコ・ミュージックの終わりを告げていた。人々はその後も踊っていたが、基本的に、技巧的で冷淡な印象を与える純粋な合成音の響きをことさらに追求するようになっていた。当時すでに一般的に「新しいドイツの波」と呼ばれていた現象が、その年にはまさにひたひたと押し寄せる波のようにドイツ全体を覆いつつあった。すなわち『アクセルを踏んで、楽しもう』とか『ダ、ダ、ダ』のような、スピードのある攻撃的なリズム、刺激的で、時には不自然で、時には皮肉っぽい、単純というか無意味な歌詞の音楽である。だから、スパイダー・マーフィー・ギャングの『甘い生活』もこの年に成功したレコードだった。その中の『封鎖地区のスキャンダル』という歌はすでにシングルで、決定的なヒットになっていた。徹底的にドイツ語の歌詞を追求しようと努力して、ケルン方言で歌ったグループ、BAPや、シュラガーからロックへ転向したペーター・マッファイが、ヒット・チャートを征服した。
 『ロック・クラシック』が成功した理由は、合成音の響きやディスコで踊る人々や「新しいドイツの波」の小生意気な音が嫌いな人たちがロックとポップスの響きに浸りつつ静かに楽しみたいという音楽的欲求に応えたということだったのは間違いない。また、同時に豊かでロマンチックな音が、このレコードから空間に広がって聞こえることだ。1980年代のポップスは合成音が効果的につかわれ、時には非人間的な感じがしたのも確かだが、常に緊張感あふれるものだった。反響の多い電気的な音響効果と歌が、オーケストラにも劣らない強烈なサウンドを生みだした。オーケストラの響きは、生でも合成音でも、1970年代からすでにポピュラー音楽で聴かれた。1980年には、ペーター・ホフマンも非常に高く評価しているピンク・フロイドが、そのアルバム『ザ・ウォール』によって、17週の間、ドイツのレコード・チャートにのっていた。元ビートルズのポール・マッカートニーのアルバム『タグ・オブ・ウォー』のタイトルソングでもオーケストラの響きを聴くことができる。ロイヤル・フィルハーモニー・オーケストラは、アルバム『クラシック・ディスコ』で、クラシックのオーケストラ・サウンドとポップ・ミュージックの結合を試みた。だから『ロック・クラシック』の音楽は、この点では、突出した現象ではなかった。それにもかかわらず特別の地位を獲得したのは、ひとえにその演奏ゆえだったと言える。このレコードでは、大音響のロックが鳴り響くが、ぜいたくな技術的サポートを必要としない声で歌われるホフマンの歌は実に美しい。このロック・レコードの成功で、彼の人気は爆発的に高まった。それとともに、まさにマスメディアそのものへの登場、すなわちテレビ出演が増えた。ホフマンはこの時から、もともと彼に興味をもっていたオペラ・ファンやクラシック・ファンだけではなく、幅広い人々に「知られる」ことになった。『ロック・クラシック』の発売と同じ年、オペラとロックの歌手として、「ホフマンの夢」と題した番組に出演する機会を得た。オペラやミュージカル、そしてポピュラーの曲目が次々と唐突に登場するという構成は、当時としては普通ではなかった。
 1980年代において、テレビというメディアは、まさに娯楽音楽の分野で重要な地位を占めていたから、ペーター・ホフマンがポピュラー歌手としてこの番組に出たことはまさに時代の流れに乗ったものであることは明らかである。しかし、同時に、ポピュラーとクラシックの結合に関して、先駆的仕事を成し遂げたとも言える。

8331.jpg 「テレビの『ホフマンの夢』という番組では、クラシック音楽とポピュラー音楽を一緒に歌った。台本は自分で書いた。自分の考えを実行に移す機会を得ることができてうれしかった。ペーター・アレクサンダーの多種多様な番組から、スポーツスタジオまで、多くのテレビ出演を通して、至るところに顔を出し、重要なテレビ関係者たちと知り合うことができたことが、私自身のショーを可能にした。のちに妻になるデボラ・サッソンは、このショーでは、ゲスト役で、デュエットの相手を務めた。プッチーニ作曲の『トスカ』のアリアや、バーンスタイン作曲の『マリア』から、『太陽はもう輝かない』まで、幅広く多彩に歌うことができた。オペラ、ミュージカル、ポピュラー音楽によるコントラストのきわだったすばらしいプログラムが夢と現実が交錯する愛の物語にちりばめられていた。これが、ショーを牽引する一貫した主題だった。こういう種類のショーはまったくもって好ましくないと思われたから、もちろん、批判も多かった。しかし、人は伝統的なものだけでは満足できず、必ず別の新しいものが後継者として登場する。突然何かどんな基準にも当てはまらない新しい、創造的なことをせずにはいられないものだ。私に来た手紙の山が証明していることだが、多くの人々は私のやり方に賛成してくれた。wagnervhs.jpgその少し前に撮り終えていたもうひとつのテレビ番組は、1984 年に放送された、トニー・パルマー監督、リチャード・バートン主演、コジマ役がヴァネッサ・レッドグレーブの連続テレビ映画『リヒャルト・ワーグナー』で、私はワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の最初のトリスタン歌手、シュノール・フォン・カロルスフェルトを演じた。立派な俳優たちのそばで仕事ができるなんて、とにかくわくわくした。何もかもがすばらしかった。セットも衣装も物語の時代に合った様式で、本当にその時代に戻ったように感じられた。それに、リチャード・バートンだ。私の人生において多分二度とないことだろうが、リチャード・バートンがこんなに近くにいて、ワーグナーとしての彼を抱擁したとき、一瞬、実際はリチャード・バートンだということを忘れたような感じだった。彼の演技はとにかくそれほど説得力があった。私は、シュノールの『大きさ』を実現するためにお腹に分厚いクッションを結び付けられて、黒い髪のかつらとひげなどという余計なものを付けられたので、ちょっと見たら、ほとんど私だとは分からなくなった。弟のフリッツは、私が演じたシュノールの執事役をやった。リチャード・バートンは、個性的で、彼の低いがらがら声と物凄いウィスキーの消費量が印象的だった。ほとんどすべてのウェールズ人同様、リチャード・バートンも音楽が大好きだったが、約半年もあった長い撮影期間のあとには、ワーグナーが大嫌いになったそうだ。とにかくうんざりしてしまったのだ。私のほうは彼との短い撮影期間中、わくわくしっぱなしで、ほんとうにリヒャルト・ワーグナーと話したり、仕事をしたりしているような気分だった。バートンは私の歌と俳優としての才能について、お世辞を言ってくれたが、私の専門的な助言も求めた。ある日、ある場面の演技についてあれこれ思い悩んだあげく、私にその問題を話した。『指揮をしなければならいのだが、できないのだ。グランドピアノの前に座って、自分の「トリスタン」を初めて聴いて、指揮をするわけだが、全くどうしていいかわからないのだ』私はその場面を思い浮かべて、考えを述べた。『はじめてトリスタンの音楽を聴いた時、ワーグナーは魅了されて、すぐに指揮しようと手をあげたでしょうけど、そういうちょっとした暗示的な動きをしただけで、魅せられたように歌手の声に耳を傾けていたのではないでしょうか』彼は感激してほっとしたように『そうだ。私のやるべきことが、今、わかった。ペーターのお陰だ』と言った。
 映画のセットでの仕事は、今までオペラの世界で慣れていたのとは、もちろん全く違っていたが、はるかに気楽だった。撮影中はたいていまわりに人垣が出来ていた。私たちが歌のけいこをするシーンを撮る場合、とにかく少しずつ変化させていかなければならなかった。私はヴォカリーゼのあと、トリスタンを数小節歌ったり、そのままエルヴィスに移行したりした。とてもおもしろかった。シュノールの扮装をした私は高らかに響き渡る声を出す必要はなかった。シュノール夫人のマルヴィーナを演じ、イゾルデを歌ったギネス・ジョーンズも、大いに楽しんでいた。」

8388.jpg オペラの舞台に関しても、1982年は頂点だった。いわゆる「百年記念パルジファル」のタイトルロールを演じた。これはバイロイト音楽祭開催百年祭記念の「舞台祝祭劇」で、ゲッツ・フリードリヒ演出、ジェームズ・レヴァイン指揮で、上演された。ペーター・ホフマンにとっては、ゲッツ・フリードリヒとのパルジファルは、1976年のシュッツットガルトでの演出のとき以来で、今回は、愚か者のパルジファルと最後の幕での成長したパルジファルとの対比が以前にまして強調されていた。この演出と以前の演出に対する批評には、「若い」「生き生きした」「若々しい」ということばが、繰返し、出てくる。ということは、この「若々しさ」は、金髪の、体格のよい、巻き毛の若者が、舞台に登場するやいなや、自動的に生じたものではなく、むしろ自分の役に対する歌手の徹底的な取り組みの結果生まれたと考えるべきだ。この結果が、いかに評論家と観客を納得させたか、「南ドイツ新聞」のヨアヒム・カイザーの記事を見てみよう。

 「一幕と二幕における主役に対するゲッツ・フリードリヒの演技指導はみごとだった。ペーター・ホフマンは、フリードリヒの演出によって、魅力的で、若く、生き生きとしたパルジファルであるばかりでなく、まったくの「愚か者」であるにもかかわらず、高貴で気性の激しい、宿命を背負った若者に見えた。すなわち、一言でいえば、理想のパルジファルである」

 1980年代において、どれだけ多くの人が、ペーター・ホフマンをパルジファル役と同一視していたかを、ローズマリー・クリーアは1985年に出版された「パルジファル、救済者を救済するとは」と題する本において、機知に富んだやり方で示している。この本の中で、ローズマリー・クリーアはワーグナーの「舞台祝祭劇」の世界における男性優位を批判的かつユーモラスに扱っている。この本の中で、クリングゾールとパルジファルの戦いの場面は、次のように記述されている。

 「表面的に見れば、毎回のパルジファル上演において、この場面はまさにもっともはらはらどきどきする瞬間である。クリングゾールが、パルジファルに向けて、槍を力いっぱい投げつけるとき、観客は、技術的にうまくいかなくて、槍がどかこへ飛んでいって見えなくなってしまうか、こんどこそペーター・ホフマンがスポーツ選手としては絶好調ではなくて、飛んできた槍を捕らえ損ねるのではないかとかたずをのんで見守っていた」

 ところで、1982 年のバイロイトの夏、ホフマンは、『パルジファル』の仕事に没頭したが、「外界」に一歩出たとたん、今までの音楽祭とは全く違う新たな雰囲気に直面させられることになった。

 「『ロック・クラシック』の成功が、バイロイトまで追いかけてきた。それまではオペラなどというもののことは全く念頭になく、ワーグナーのオペラの一場面にさえ耳を傾けたこともなかった人々が突然、リヒャルト・ワーグナーに興味を持ったのだ。この騒ぎはヴォルフガング・ワーグナーをも少なからず巻込んだが、彼はとても好意的にとらえていた。例えば、彼の秘書が話したところによると、彼女の娘が『ロック・クラシック』がすごく気にいって、ペーター・ホフマンのロック・コンサートに行くのが大好きになったということだ。実のところ、彼女の娘どころか、あとで白状したことだが、彼女自身もまた大喜びでその場に居合わせたのだった。
 私自身も多少の変化は避けられなかった。午後3時前には祝祭劇場にいなければならなかったが、そのころには、午後2時には到着するようにした。そうしなければ、大勢の人垣を車で通り抜けることができないに決まっていた。そこにはレコードのジャケットを手にした200人もの人々が、サインを求めて、集まっていることがよくあった。そういうとき、私は『サインしながら』楽屋の入口まで進んだものだ。公演のあともまた同じようだった。同僚たちがとっくに食卓についてオードブルを楽しんでいるのに、私はそのあと1時間もサインをし続けていた。これは、多くのファンが音楽祭のチケットを持たずに、ただ私に会って、サインをもらい、もしかしたら一言、二言私と言葉を交わせるかもしれないという目的だけで、遠方からやってきている証拠だった。歌手としてその能力を提供するだけで、祝祭劇場の外のことにはほとんど無関心な同僚たちにとって、こんな状況は決して気持ちのよいことではなかった。そこにねたみの気持ちが生じるのも、全くもって当然のことだ。
 大勢のファンを置き去りにして、レストランの同僚たちのところに現れることに成功した場合は、ビールと素敵な食事を楽しんだ。数時間もの公演のあとでは、実際兵糧攻めにあっていたようなもので、徹底的にすきっ腹だったし、ローエングリンのときもパルジファルのときも、睡眠不足だったし、気分転換するためには、更に、同僚との気楽なおしゃべりも必要だった。バイロイト音楽祭の期間中、このレストランのメニューはマイスタージンガー・シチューとか、パルジファルのフランス風シチューとか、クリングゾール・カツといった具合に、全部ワーグナーの作品にちなんだものになっている。このレストランのオーナーは、タブーという感覚を持ち合わせておらず、その想像力の前には国境など存在しなかった。多くのファンがそうだったわけではないが、私がたまには静かに食事をしたいのだということを、なかなか理解しないファンもいた。だから、私の食事がやっとテーブルに置かれたときでさえ、感じのよい紳士が微笑みながら、私の皿とトリスタン・ステーキを一切れ突き刺したフォークの間に、突然プログラムの冊子を突き出して、『ホフマンさん、お邪魔でしょうか。みなさん、すばらしかったです。サインをお願いします』と言ったりするのだった。開けた口の直前で、一口の肉は皿に逆戻りというわけだ。私も彼同様に努めて感じ良く、『いいえ、もちろん邪魔だなんてことはありませんが、今はとにかく何か食べさせていただきたいものです。気にいっていただけてうれしいです』と答えた。彼はサインを獲得し、私はあまりにも大勢の人が彼のまねをするようにならないことを願った。さっき口に入り損ねた一口のトリスタン・ステーキはやっと二度目のチャンスを得た。誤解のないように言うと、私は、ファンが好きだし、ファンを失いたくはない。ただ時には私の身にもなって、一人になりたいときもあるのだということを理解してほしいと思う。

 この年のもうひとつのクライマックスはサンフランシスコでの『ローエングリン』だった。これは、ほんとうに、特別に上出来の上演で、心から誇りに思っている。この『ローエングリン』はラジオで中継放送され、幸運なことにその録音が私の手元にある。
 私は次第に世界中の大オペラ・ハウスとなじみになっていって、前の年にはミラノのスカラ座に『ローエングリン』でデビューしたし、この年には、同じ役でパリでも歌ったが、今度はモスクワのボリショイ劇場の番が来た。ハンブルク国立歌劇場のメンバーと一緒に、これもまた『ローエングリン』で客演した。これはこのオペラのモスクワ初演だった。練習が始まるときに、ちょっとした事件があった。いつものように普段着を着て劇場に行ったところ、舞台入口の守衛に何かうさんくさい奴と思われたようだった。ジーンズと革ジャンのぼさぼさの長い金髪の若い男が入ろうとしているが、こいつは入れるべきではない。というわけで、守衛は私の立ち入りを拒否したが、私が行きたいところはどこか知りたがっているようだった。私はペーター・ホフマンという名前で、ここでローエングリンを歌う予定なのだと守衛にわからせようと頑張った。残念ながら、意志の疎通は困難なことが明白だった。守衛は、ここで歌うべき男がそんな物を身につけているとは想像もできないという様子で、何度も私の革ジャンを指さした。やっと苦境を切り抜ける方法を思いついた。私は大声で少し歌って、守衛を納得させた。
 この客演が成功のうちに終わったばかりで、まだモスクワに滞在中のとき、チューリッヒから、『ホフマンさん、お願いがあります。明日、こちらでローエングリンを歌ってもらえませんか』という緊急出演依頼の電話が入った。もちろん歌うことができた。チューリッヒならいつでも喜んで歌いたかった。そこの同僚たちもオペラに造詣の深い観客もとても好きだったが、困ったことにひとつだけ問題があった。モスクワからの飛行機の変更だ。当時のソビエト連邦の方針では、そういうことはきちんと決められていて変更は難しい。実際のところ、ボリショイ劇場で重要な地位を占めていた人が、チューリッヒに向けて飛ぶことができるように特別に尽力してくれたおかげで、すべてうまくいった。翌日の午後、かろうじてなんとか間に合う時間にチューリッヒに到着した。みんなすでにひどく興奮していた。彼らは『やれやれ、助かりました。ほんとに、お待ちしていました。急いで、急いでください。全て準備してあります』などと私に向って叫んだ。私は、『あわてないでください』と熱心な舞台助手を押しとどめた。『ゆっくりしても同じですよ。舞台に行く前に、まずシャワーを浴びなくては』と言うと、『とんでもないです。観客はもう入っているんですよ』と、ぎょっとした感じの答えが返ってきた。私は、『それでは、ちょっとだけ待たせておいていくださいませんか。なんとかしてください。私はまずシャワーを浴びますから』と言って、譲らなかった。前の夜はほとんど眠っていなかったので、舞台に出る前に、少しの時間、せめてシャワーでも浴びて、気分をさわやかにしないではいられなかった。その後、私は舞台へ急ぎ、ベストを尽くした」
 この時の『ローエングリン』に対する観客の熱狂ときわめて肯定的批評という結果は、このような困難な状況においてもやり遂げるというペーター・ホフマンの強いプロ意識を示している。

pic83-64-66.jpg 1983年2月13日、ヴェネチアのフェニーチェ座で、リヒャルト・ワーグナーの没後百年にちなんだ『パルジファル』が上演され、ペーター・ホフマンは、タイトルロールとして契約していた。この公演は特別な雰囲気のうちに開催された。ワーグナーが愛したヴェネチアは、厳かな気分が支配的だった。ちょうどカーニバルで、客席は、カーニバル用の扮装のみごとな衣装の観客でいっぱいだった。この時の演出は、特に印象的な体験としてペーター・ホフマンの記憶に焼き付いているが、その理由はその絵画的強烈さのためだけではない。二幕のクリングゾールのエロチックな魔法の庭で、ホフマンは、まるでクリングゾールの大きなマントから出てきたように見える裸の若者たちと戦わなければならなかった。シェローの下における極度に肉体を酷使する仕事以来、かなり慣れていたにもかかわらず、訓練を積んだスポーツマンの彼も、この場面では相当汗をかいた。舞台上に裸体を出すことは、当時、演劇においてはすでに広く行われていたが、オペラの舞台ではまだ何か大胆できわどいことと見なされていた。それでも、クリングゾールの手下たちだけが、唯一『衣装なし』で登場したわけではなかった。ペーター・ホフマンはあまりにもたくさんの裸に直面して、なんだか落ち着かなかった。裸の花の乙女たちに取り囲まれ、しつこく迫られている歌手の写真が、新聞に載った。ちなみに、相手役はゲイル・ギルモアで、非常に魅力的なクンドリーとして、彼の記憶に残っているということだ。
phrwagner.jpg その後まもなくして、イヴァン・フィッシャー指揮でシュツットガルト放送交響楽団と『ペーター・ホフマン、リヒャルト・ワーグナーを歌う』のレコード録音をした。このレコードでは、舞台で歌っていない『ジークフリート』と『タンホイザー』からの抜粋も聴ける。この録音はクラシックのレコードとしては今日にいたるまで例外的によく売れている。

 オペラの舞台上とテレビ番組の中以外の世界に関して言うと、彼は、私生活を世間に知られずにやっていくことが、そのころにはひどく困難になっていることを、たびたび意識させられていた。

heiraten.jpg 「8月に、まだバイロイト音楽祭の期間中だったが、アメリカ人歌手のデボラ・サッソンとの結婚が、マスコミ、特に大衆紙で、センセーショナルに取上げられた。最初の妻アンネとは、もう以前に、静かに、合意の上で離婚していた。アンネとは職業上の理由による別居のせいで、離ればなれの生活が長かった。彼女は、子どもたちの世話に没頭したいという理由で、めったに客演に同行しなかった。それから、そのあとは、彼女も、女優として、また、歌手として芸術家の道を歩んでいた。私たちは今も定期的に連絡をとっており、以前と変わらず、よく理解しあっている。
 結婚がこれほどの騒ぎを引き起こせるとは、この時まで想像できなかった。それは『今年の結婚』として、ゴシップ報道のあらゆるジャーナリズムを通過していった。私たちは一緒にテレビ番組に招待され、私たちの生活はもはや、およそ公開でしか行えないといった具合だった。私たちの家の前には、巨大な望遠レンズを持ったリポーターが立っていた。時には車の屋根の上に立っていることさえあった。私たちは高いフェンスや生け垣で、やっとのことでほんの少しのプライバシーを守ることしかできなかった。
 あまりにも集中的に公共の興味の対象にされた場合、不愉快な現象が伴うことは避けがたい。つまり、脚光の別の側面である。この夏、一人の恐喝者が騒ぎを引き起こした。
 毎日届く大量の郵便を開けていたフリッツが百万マルクを要求した手紙を見つけた。要求に応じなければ、二度と歌えないようしてやる。警察に知らせたら、後悔することになるから、注意するようにとあった。その手紙は、タイプライターで書かれていて、中央局で投函されていた。もっともなことだが、フリッツは当然ショックを受けた。どうするべきか。私は音楽祭の期間中で、常に大勢の人々に取り囲まれていて、相当の危険にさらされていた。私に知らせる前に、弟は警察に行った。用心のため、所轄の警察でもなく、バイロイトでもなく、数キロ以上離れたヴァイデンへ行った。警察はこのことをきわめて重大に受け止めた。手紙はただちに連邦犯罪局へ調査のために送られた。私たちとしては、さしあたり十分に注意する必要があったが、これといった動きはなかった。その後、『あなたは間違ったことをした。警察に行くなとはっきりと警告した。その結果に関しては、あなた自身に責任がある』と書かれた二度目の手紙が届いた。恐喝者はどこから警察へ行ったことを知ったのだろうか。だれかが絶えず私たちを見張っていたのだろうか。ここで、フリッツも私と家族みんなに知らせないわけにはいかなかった。けれども、すでに、私たちを守る手段は整えられていた。二通目の手紙も当然警察に届け、その結果、警備員が派遣された。更に拳銃携帯許可を申請することになった。以来、常にピストルを携帯した上、祝祭劇場へ行くときには、常に道順を変更するように要請された。絶え間なく私を見張っていて、何とかして危害を加えることしか考えていないかもしれないようなだれかが、その辺にいると思うだけで不安な気分だった。続いて、いつ、どこで現金を手渡すかを正確に指示した手紙が届いた。警察の保護のもとで、すべての要求に応じるふりをした。見せかけの現金引き渡しによって、恐喝者は逮捕された。彼は実際のところあまりにも単純だった。自身、現金を預けさせたホテルのロビーにいた。警察はこの男がまだ他にも数人の有名人、とりわけハッケタール教授を、恐喝していたことをつかんでいた。更に彼には類似の不法行為の前科があった。警察に届けるなという警告の手紙も、とにかく口からでまかせのめくらめっぽうのやり方だが、いずれにしても、警察に届ければ、だれでも不安になるわけだ。この男は、この後、2、3年刑務所の独房で代償を払わなくてはならぬことになった。
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