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23)ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ [2012年刊:フリッツ・ホフマン著]

p.134ー142

 1991年のはじめ、ロサンゼルスでペーターのCD:Love Me Tenderが生まれた。それはエルヴィスの歌だけを録音したものだ。ソニー・ミュージック社長のヨッヘン・ロイシュナーと私たちはこのCDを寒いドイツではなく暖かいカリフォルニアのロサンゼルスで制作することに決めた。

 もちろんこの選択はアメリカ西海岸の都市ロサンゼルスの快適な環境だけによるものではなく、ここに格段に優れた楽団があることこそがより重要な理由だった。ペーターもこのようなトップクラスの仕事に絶対必要な重要条件を即座に納得した。

 外国での長期滞在に際しては度々していることだが、ふさわしい宿を少し時間をかけて探した。それは2011年にはポール・マッカートニーも新しいアルバムを録音した場所、ハリウッドのキャピトル・スタジオから遠すぎないところでなくてはいけなかった。たくさんの物件があったが、理想的だと思えるところはなかった。何と言っても6週間私たちの住まいになる予定なのだから妥協はできない。

 さんざん探して、ベヴァリー・ヒルズのサンイシドロ通り1807番地にモダンな家を見つけた。有名なベヴァリー・ヒルズ・ホテルのそばだった。その静かで実に広々とした家は斜面に建っていて、車で入って行くための専用道があって、隣近所は有名、無名の映画スターたちだった。夜にはプールサイドで冷たい飲み物を飲みながらロサンゼルスのすばらしい夜景を眺めることができた。

 美しい御婦人(pretty woman)が挨拶してくれそう!

 私たちのプロジェクトにはバーブラ・ストライサンドのプロデューサー、ランディ・カーバーが適任だと思われた。彼はすでにこの世界的スターのためにCDを制作して大成功していたから、特に声の扱い方についてよくわかっていた。キャピトル・スタジオの抜群の環境にアメリカの超一流のスタジオ・ミュージシャンとくれば、CD大成功のための最善の条件だった。ペーターはこの新たなわくわくする挑戦に大喜びだった。

 通常、歌手は、レコードの録音の終わりごろになって初めてそこに居合わせる。つまり、すべての伴奏の録音が終わった時だ。そして、歌手こそが、もっとも重要な『楽器』すなわちその声で録音を完成させるのだ。しかし、この時は、私たちは録音現場にはじめから参加して、ペーターは自分の音楽的な考えを繰り返し提案できた。これによって当然ながらすべてに関してより心のこもったものになった。ただし、テンポとそれぞれ異なる歌の調はもちろんはじめに決定されなければならないし、極めて厳密かつ慎重に決める必要がある。一旦テンポを決定したら、後で変更できない。1日4000ドルのスタジオ使用料を知れば、このように重要なCD制作にとっては非常に厳密でほとんど細心の気配りを要する準備こそが必要不可欠であることがわかるはずだ。プロデューサーのランディ・カーバーは音楽に責任を持っただけでなく、事前に決められたソニー・ミュージックの予算枠を守らなければならなかった。いつものことだが、結局大幅な予算オーバーになった。

 私たちは毎日快適な気温のハリウッド大通りを端から端までオープンカーで走った。チャイニーズ・シアターが左に見えると、キャピトル・スタジオはすぐだった。簡単な昼食で短い昼休みを取っただけで窓のないエアコンで温度調節をしたスタジオで録音する長い一日の後、夜遅くサンセット通りを再びのんびりと家に向かって走るのはいい気持ちだった。もちろんオープンカーでだ。ペーターはきょうカセットに録音した歌を生で歌って、赤信号のところで通行人に新しいCDのサンプルを提供した。ドイツの交差点である御夫人が大声で呼びかけたときのことは今も覚えている。 『ペーター、新しいCDはいつ出るの?』 『もうすぐです』とペーターは叫び返した。

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 スタジオで過ごす忙しい一日が終わると、私たちはベヴァリー・ヒルズ・ホテルにけっこう頻繁に立ち寄った。ポーターがいつものように私たちのオープンカーを駐車場に入れてくれた。すっかり疲れ果てた私たちは有名なポロ・ラウンジで軽く飲みながらバーのピアニストが弾く眠気を催すようなシナトラの演奏に耳を傾けてしばらく過ごした。まぶたが重くなってすぐに自分たちのベッドに横になるのに長い時間はかからなかった。

 有名なベヴァリー・ヒルズの夜を体験することは一度もなかった。

 私たちだってロサンゼルスに休暇で来たわけではなかった。しかし、ここではすべてが休暇のように感じられるのだ。ハリウッドには普通の労働者は存在しないみたいだ。だれもが映画スターか映画スターを目指しているかなのだ。ガソリンスタンドでブラッド・ピットもどきの店員は、メジャーな映画でガソリンスタンドの店員を演じるので、世界的なスターとしてのキャリアの準備を現場でするべく目下この仕事をやっているにすぎないのだと言った。彼が今もガソリンスタンドの店員役を演じているかどうかはわからない。『これがハリウッドなんだ!』

 6週間に及ぶ録音がほとんど終わった後、このCDジャケットの写真を太陽のふりそそぐマリブの海岸でピンクのクラシックオープンカー、キャデラックの前で撮るという私の考えにペーターは賛成した。ハリウッド在住、ベルリン出身のスター写真家であるジム・ラキート(Jim Rakete)がこの仕事を喜んで引き受けてくれ、1960年製のピンクのキャデラックを撮影所から借りた。

 さんざん探しまわったあと、ついにロデオ通りのえらく高いブティックで、ぴったりのジャケットを見つけた。ペーターもとても気に入って、写真撮影で着用した。

 ソニーミュージック社長のヨッヘン・ロイシュナーは私たちの録音の出来具合と写真撮影に非常に興味を持っていたので、録音が終わったとき、私たちはヨッヘン夫妻をベヴァリー・ヒルズの私たちの住まいに招待し泊まってもらった。翌朝マリブ海岸の約束の場所で写真家と担当者グループに会ったとき、カリフォルニアの太陽はどこにも見えなかった。全てが灰色ばかりで気分まで暗くなった。どうするべきか?

 マルホランド通りに近いハリウッドの山中に住んでいたジム・ラキートがそこへ行こうと提案した。そこなら一日のうち12時間は太陽が照っているだろうと言うのだ。ためらうことなく、キャデラックを輸送車に載せて、全員楽観的な気分で興味津々の山歩きに出発した。曲がりくねった道を進んでマルホランド通りの一番高い場所に着くと、ジムは写真撮影の場所を探した。そこには本当に太陽が見えていて、ロサンゼルスのすばらしい景色が眺められた。望ましい夕日、いわゆる青の時を延々と待ったあと、やっと写真撮影が終わって、ペーターはほっとした。ペーターは写真撮影がそれほど好きではなかった。『時々カメラののぞき方が全然わからないことがある』と皮肉っぽく言った。

 うれしいことに全て順調に進んだからよかったのだが、ペーターは運行が許可されていないピンクキャデラックを自分で運転して谷まで下りたがった。大いに心配したが、うまくいった。警官に止められなかったのは幸運だった。道ばたで数人の観光客が重厚なストリートクルーザーに乗った私たち二人に手を振った。曲がりくねった道でひどく甘かったブレーキがきいてくれてほっとした。

 キャピトル・スタジオで録音した歌のひとつはエルヴィスの『Little Sister』だった。ペーターが歌った最初のバージョンを試聴したとき、プロデューサーのランディ・カーバーがバックに男声が響いたほうがいいんじゃないかと言った。ヨッヘン・ロイシュナーとのバンド時代を思い出した私は彼をスタジオに呼ぼうと提案した。ペーターが同意してから、私はプールで日光浴中だったヨッヘンに電話をかけた。その少し後、彼とペーターははじめて一緒にスタジオに立っていた。そこで、二人は一緒に『Little Sister』をマイクに向かって歌った。レコード会社の社長がすばらしい歌手でもあるなんて、普通じゃないけど、素敵なことじゃないか!

 ロサンゼルスでのすばらしい時は終わりに近づき、レコードの録音が完成して、ささやかなさよならディナーをどこでしようかと考えた。

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 結局サンセット大通りにある名高いヴォルフガング・プックのレストラン、スパゴに席を予約した。ここで食事をしたことがないハリウッドのスターはほとんどいないと思う。レストランに着くと、大勢のパパラッチとカメラマンたちが入口ドアの外で待ち構えていた。私たちは大きな丸テーブルに座ってたっぷりの白ワインで大いに楽しんだ。厳しかったスタジオの仕事はついに完成し、私たちは素敵な数時間の祝賀会で自分たちをねぎらった。

 夜も更けたころ、私はプロデューサーのカーバーの白ワインを飲んでいる顔色に気がついた。彼は私にこっちに来てくれと合図していた。助けを求める調子で彼は私の耳元でささやいた。こんなに楽しい夕食をこれ以上続けたら、とてつもなく高いスパゴでのこの夕食のせいで、予算が間違いなく吹き飛ぶだろうと言うのだ。私はすぐにこの問題をヨッヘン・ロイシュナーに伝えた。彼はこう答えた。『ランディに言ってくれ。私が全部持つつもりだと』3000ドルの追加出費を免れてほっとした結果、ランディの顔色はゆっくりといつもの状態に戻った。

 翌日、たくさんの楽しい思い出とペーターの上出来のCD『Love me Tender』を荷物につめて故郷へ帰った。

☆ ☆ ☆

関連記事:エルヴィス・プレスリー
Love Me Tender
目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人
ナッシュビル&グレイスランド
ナミビア:楽しい旅行
ペーター・ホフマンの部屋
ゲストブックから
表紙と目次
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コメント 2

ななこ

ロサンゼルスでのLove Me Tenderの録音中の様子はまるで二十歳そこそこの青春真っ只中の青年のようですね。

こういう世界が特別なのか、ペーターたちが特別だったのか・・・

ワーグナー歌手としての道は閉ざされて辛かったでしょうけど、クラシックの枠から解放されて新しい世界に飛び出した喜びにあふれてるようにも感じますね。

ドイツではなくカリフォルニアだったことがよかったのでしょう。

車検の通ってないピンクのキャデラックを走らせたとか、高級ブランドのネイビーのジャケットのお話とかホント楽しいです!
by ななこ (2014-07-05 18:39) 

euridice

コメントありがとうございます。
>ピンクのキャデラック
CDのジャケットを見て、なんちゅう車だ!と思ったものです。
あのジャケットもずいぶんこだわった物だったんですね。

『Little Sister』のバックがソニーの社長さんというのも
意外で楽しい話題でした。


by euridice (2014-07-07 13:20) 

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