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ベートーベン「フィデリオ」ベルリンドイツオペラ1984年 [PH]

ph97fid84r.jpg [左の写真は1984年、ベルリン・ドイツ・オペラ リハーサル、カタリーナ・リゲンツァと]
  1984年2月10日に新演出初日を迎えた、ベルリン・ドイツ・オペラでの、ジャン・ピエール・ポネルの印象的な演出、ダニエル・バレンボイム指揮による『フィデリオ』は、きわめて珍しいことに、評論家が全員一致の肯定的な批評をするほどの、最高の大成功! よく見ても最初はだれだかわからなかったほどの濃い化粧のフロレスタン、ペーター・ホフマンは、不可能なことを成し遂げたに等しいほどの上出来、透明感のある表現力に富んだ声で歌いながら、それにもかかわらず、地下牢に一人寂しく、飢えて、死を間近にした人が、横たわっていることを、納得させたと評されます。この『フィデリオ』については、オペラの初日などいつもは言及する価値はないと考えている大衆紙までが、熱狂的に書きたてたとのこと。

この録音を聴くことができましたので、少しご紹介します。ゲネプロ(1984.2.8)のプライベート録音だそうです。やはり音はよくないです。特に台詞は聞こえにくいです。この曲はショルティ指揮の演奏を一番よく聴いていますが、それに比べてこちらは一瞬びっくりしてしまうほどゆっくりとした演奏です。





RIAS Berlinでラジオ放送もあったようで、フィナーレだけがおまけに入っていました。

ソネットの音声ファイルがiPhoneやiPadでは表示されません。
↓下はそのためのリンクです。
アリア
重唱
4重唱
2重唱
フィナーレ
RIAS Berlinでラジオ放送;フィナーレRIAS_Berlin

ベートーベン:フィデリオ
ベルリンドイツオペラ
ゲネプロ1984.2.8
ダニエル・バレンボイム指揮
プライベート録音
レオノーラ:カタリーナ・リゲンツァ
フロレスタン:ペーター・ホフマン
ピツァロ - ギレルモ・サラビア(Bs 1937.08.30-1985.09.19 メキシコ)
ロッコ:ロバート・ロイド(Bs 1940.05.02- イギリス)
マルツェリーネ :マリー・マックローリン(S 1954.11.02-  イギリス(スコットランド)
ヤッキーノ: アレハンドロ・ラミレス(T 1946-  コロンビア)
フェルナンド:ウォルトン・グレンルース(T 1940-  フィンランド)
囚人: バリー・マクダニエル(Br 1930.10.18- アメリカ)
ミオミール・ニコリッチ

 マリア女史はホフマンのフロレスタンをこう評します。
ph97fid84.jpg[写真は1984年、ベルリン・ドイツ・オペラ カタリーナ・リゲンツァと]
 「フロレスタン役(ベートーベン、フィデリオ)で、ホフマンは全く違う存在感を放つ。彼の強烈な人物描写において、内面的な輝きと併せて、その惨めに苦しむ外観が照らし出される。この役で最も成功したもののひとつは1984年4月ベルリンでのゲッツ・フリードリヒ演出による公演である。(この演出は伝記にある2月10日が新演出初日のジャン・ピエール・ポネル演出の公演と同じではないかと思います。4月にも公演があったのか、こちらも記載ミスなのか不明です)

 これについてジェームズ・ヘルメ・ズトクリッフェ は
『ホフマンの高らかに響き渡る、若々しいフロレスタンは、その「神よ、ここの何という暗さか」 'Gott welch Dunkel hier' がアーチ型の暗い穴蔵から聞えてきた瞬間から、観客をびっくり仰天させ、観客の耳をそばだたせ、しっかり耳を傾けようと、居ずまいを正させた』と書いた。

 4月13日の録音テープは強烈な演劇的かつ声楽的な意思を示している。コロと同様、ホフマンはフロレスタンを、受動的な英雄と見ている。しかし、コロと違って、ホフマンの「受動性」は内的な力強さによって生命を吹き込まれている。彼は単に肉体的に衰弱しているだけで、精神的には衰えていないのだ。これはほとんど逆説的には、彼の飢えと狂乱の幻覚症状の裏には、燃え盛る火のような静謐がある。このフロレスタンの意志は終始明確に示される。酷く悲惨な状態にあっても、終始一貫失うことのない自尊心の中に壮大なひらめきを得る力がある。彼の苦しみには主張があり、その苦痛ゆえに目的意識を失うことがない。

 ホフマンはこういう複雑な解釈をいくつかの賢明な技術的工夫を通して伝える。彼は、歌唱においては、銀色のメタリックな輝き、捕らえ難く、卓越した、活気に満ちた、心を強くとらえてはなさない輝きを保ちながら、人間の現実的な身体的衰弱を、対話と一貫性のある柔軟な動作によって、強調する。彼の表現力に富んだヴィブラートは、彼の旋律線に迫力を与え彼の言葉に色彩を与え、際立たせる才能が、ここでは殊更有利に働く。
 そのGott, welch Dunkel hier!(神よ、ここはなんと暗いことか!) は、かろうじて命をつないでいる人間の奥底から絞り出される哀しみの叫びとして始まる。そして、それは信仰心と懐疑心の入り交じった祈りとなって高らかに鳴り響く。ホフマンは、このアリアを、絶望から甘い記憶へ、そして更に、自己の正当性を証明したいという狂わんばかりの希望へ(ins himmlische Reich 天国で)という、明確に区別できる演劇的な各段階を経ていくものとして展開する。彼のレガートは美しく、彼のフレージングは長く持続的で、自信に満ちている。
 友情を感じた「フィデリオ」との対話は、彼が狂乱した戯言ですっかり消耗してしまったことを明確に示し、細かい部分で著しく哀れを催させる。ホフマンのフロレスタンは、ピッツァッロがやってきた気配を感じたとき、(Ist das der Verbot meines Todes? 私の死の印か)一瞬、気持ちの制御がきかなくなる。彼は狂わんばかりになり、弱さを露呈する。そして、ほとんで狂乱状態でレオノーレにくってかかり、彼女は彼を落ち着かせようとする。それから、突如、殺人者が現れたとたん、ホフマンは、ありったけの自制心と力をふりしぼって、落ち着きを取り戻す。
 四重唱が始まるとき、敵に向き直り、誇り高く、告発の言葉 Ein Moerder steht vor mir(殺人者が私の前に立っている) で攻撃する。これこそ、長い間苦しんだ勇者の、何よりもまず自己肯定をせずにただ打ち負かされるつもりはないという、勇敢な最後の抵抗だ。この劇進行が急速な展開をみせるこの場面は、フロレスタンの弱さと英雄的な強さが結晶したかのように鮮やかに示される瞬間だ。この敵との遭遇では、弱さと威厳が同程度の強さで伝わってくる。レオノーレが命がけで助けようとするとき、彼女の名前を口にするが、その発音には、驚きと愛情に満ちたとまどいの色がある。彼女な名前を口にするときの深い思いは、続くLeonore, was hast du fuer mich getan?(レオノーレ、あなたが私のためにここまでしてくれるのか) という言葉が甘い響きを引き受けてしばしたゆたい、観客を穏やかなあふれるような暖かさで包み込む。
 だれもが二人の愛の深さを納得させられる。ホフマンは二重唱 O namenlose Freude を恍惚として歌うが、ひそかな驚き、激情、優しさゆえの弱さ、あふれる歓喜が、かわるがわる浮き上がる。フィナーレのお祝いの合唱で、ホフマンは常に合唱に加わっているが、その様子は彼の個人的な思想を語っているという雰囲気を感じさせられる。彼は内省的に歌い始め、喜びにあふれて斉唱に加わっていく。

 ホフマンが舞台で演じるフロレスタンは強烈でわくわくさせられる。しかし、録音だろうがライヴだろうが、ホフマンの演奏の全体的感触はベートーベンの傑作の核心を貫いている。このオペラの歴史的限界を突き抜けて、現代社会との関連性を主張する。ホフマンにとって、フロレスタンは勇気ある個人、道徳的清廉潔白、個人の自由、政治的自由の代弁者だ。彼がこの役を歌うとき、それは彼の心からの叫びであり、彼自身の信念と一致している。」

 ベートーベン唯一のオペラ「フィデリオ」のフロレスタン役は、キャリアがはじまったリューベック専属時代のルートヴィヒブルク音楽祭が、ロールデビューでした。

「リューベック時代にすでにさまざまな客演をこなしていた。最初はルートヴィヒブルク音楽祭でタミーノを歌った。その1年後突然ルートヴィヒブルクの総監督からフィデリオのフロレスタン役を5日間歌えるかどうかという電話がかかってきた。『すごい。5日間とは』と思った。私は窮地に立たされた気分だった。というのは、その役はもちろん知っていたが、できなかったからだ。私は総監督にそう話したが、監督は『ルートヴィヒブルクで初演の5日間歌えますか。どうですか』と繰返すだけだった。私は『やりたいことはやる』という自分のモットーを心に浮かべて、承諾の返事をした。このオペラ全曲をカセットに収録し、ピアノ用スコアを入手して、リューベックからルートヴィヒブルクまでの長旅でこの役を覚えた。ルートヴィヒブルクに到着したときには、最後の仕上げを残すのみだった。ちなみにおもしろい演出だった。フロレスタンは地下牢ではなくて、巨大な十字架が鎖でくくり付けられたベルリンの壁を表すような有刺鉄線付きの壁の前にいるのだ。短い準備期間にもかかわらず、万事きわめて順調だった。すばらしいフロレスタン・デビューだったと言えると思う。」(伝記 2003年刊)

ところで、ペーター・ホフマンは、オペラ「フィデリオ」とフロレスタン役を次のようにとらえているということです。
『レコードの仕事の開始にあたって、歌手はその時々の役に対する考えを言葉で表現すように求められる。この役は頻繁に様々な演出で歌ったが、私の考えは変わらなかった。
 私の考えでは、フロレスタンは受動的な英雄だ。彼は行動のあらゆる可能性と、その結果、生きるに値する生活の全てを奪われている。彼には、考える自由だけが残されている。これによって、慰めを見い出せると信じている。飢えと渇きに加えて肉体の衰弱が彼に激しい妄想をもたらす。彼はレオノーレが見えたと思い、失神することによって解放される。
 かろうじて生きているだけで、『影のように漂う』男に対して、休息をとった健康な歌手に全力を出し切ることを要求する、あのようなアリアを作曲するベートーベンは本当に耳が聞こえなかったに違いないと、歌手として、思うことがある。もしくは、あのアリアの終わりに、テノールが本当に疲れ果ててへとへとになれば、つまりそれが、たいていの場合、自分の意図を達成することになると、ベートーベンは思ったのかもしれない。
 生き延びようとする強い意志は、歌手としてにしろ、役者としてにしろ、少なくともどのフロレスタンにとっても最大の美徳であるとするべきだ。
 彼をして2年にわたる耐えがたい牢獄生活を生き延びさせたものは何だったのだろう。それは身の潔白を明らかにすることに対する希望であり、それはまた、政治的信念の故に牢獄にある者と犯罪者の違いを発見することでもあると思う。このテーマは疲れるだろうし、私たちの時代にこのオペラのような夫婦愛は感動をよばないかもしれないが、政治犯が存在し、『邪悪な臣下を急ぎ排除しようとする』国家がある限り、このオペラがある限り、フロレスタンという役は、今日的であるし、このオペラは生き残ると思う

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フィデリオあれこれ
ホフマンとフィデリオ
※ ※ ※

2021.9.8
♪2重唱&フィナーレ♪


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コメント 4

ななこ

興味深く聞かせていただきました。
プライベート録音というのはきちんとした機器での録音ではないからこそのホールに響く音丸ごとそのままの雰囲気がありますよね。
いわゆる膝上録音とかもそうですけれど、私はそういうのが大好きです。
フィナーレのラジオ放送は正規録音で歌手の声とオケの音が明瞭に聞き分けられますが、ゲネプロのは混然という感じで凄く臨場感あると思います。
フィデリオの生の舞台はメトでヘプナーを聞きましたが、フィナーレなんてオケの音に埋もれてしまって聞こえませんでした。
ホフマンの声ってメタリックな輝きがあって決して埋もれませんね。
音質云々とは関係なく歌手たちの熱気が伝わってきてわくわくしました。

>それに比べてこちらは一瞬びっくりしてしまうほどゆっくりとした演奏です。
いかにもバレンボイムっていう感じですよね。
でもO namenlose Freude はテンポよくてよかったです。
この2重唱のノッタリしたのは我慢できませんから^^

>ジャン・ピエール・ポネルの印象的な演出
ホフマンの舞台映像が見たかったですね。
こんなに素敵な舞台をどうして映像に残そうとしなかったのでしょうね・・・
全てにおいてまさか病魔がホフマンを襲うとは考えなかったということにつきるのでしょうか?

by ななこ (2012-04-26 18:27) 

ななこ

ごめんなさい、忘れるところでした。
トップの写真、水面に映るヤマブキ素敵ですね!
by ななこ (2012-04-26 18:33) 

euridice

ななこさん
聞いてくださり、ありがとうございます。
これが聞けるとは思っていませんでした。これからもいろいろ出てくるといいのですけど・・なにしろカセット録音の時代ですから持っていてもデジタル化はなかなか難しいのでしょう。持っている人はほとんどが年配の人でしょうし・・

>フィデリオの生の舞台
新国で2度経験しました。ちょっと言い過ぎかもしれませんけどフロレスタンは脇役って感じでしょうか。トーマス・モーザーとステファン・グールドでした。

>まさか病魔が
でしょうね。気がついたときはもう遅かった・・ということです。

>トップの写真
ありがとうございます。今年は一段とよく咲いたようですし、桜の満開と重なって、水面には桜の花びらが散って風情が増しました。




by euridice (2012-04-27 11:14) 

職務履歴書

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
by 職務履歴書 (2012-10-18 03:43) 

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